『怒りを買う』っていう言葉があるけど、もし本当に怒りを買ってくれる人がいるのなら、まさに今、この胸の中でくすぶっている怒りは、いったいいくらで売れるんだろう。
優太はそんなことを考えながら、団地の片隅にある小さな空き地でサッカーボールを蹴り上げた。ボールを追いかけるように見上げた空には、先ほどから水気を多く含んだ黒っぽい雲が立ち込め、小さなゴロゴロという音が、文句を垂らすようにどこからか響いている。
近づいている嵐のせいで、明日の球技大会はどうやら中止になりそうだった。
勉強ではどうやったって勝てないアイツに、一泡吹かせてやるはずだったのに。好きなあの子に、アイツより自分のほうがカッコいいって示すチャンスだったのに。
優太は怒りに任せてもう一度ボールを蹴り上げる。湿気に濡れた草で軸足を滑らせて足先が狂う。コントロールを失ったボールは、雲の隙間に届きそうな勢いであらぬ方向へと飛んでいった。
――ガシャン。
団地の二階から聞こえてはいけない音がする。ガラリと窓が開く音がして、遠くでおじさんのドスの利いた怒鳴り声がする。
「ヘタクソが! 余所でやれや!」
ヘタクソじゃないやい、滑っただけだ――と優太は心の中で子供じみた言い訳をして、咄嗟に逃げるように空き地をあとにする。でも、なんだか遠くから雷様に見られているような気がして、足が止まる。
優太は、急に自分のズルさが恥ずかしくなって、おじさんの家まで謝りに行く。おじさんは「二度とすんなよ」とだけ言って、サッカーボールを優太に返すと、特にそれ以上咎めることはしなかった。
また遠くでゴロゴロと音がする。
――もうすこし鍛錬が必要だな。
雷様がそんなことを言ってる気がして、優太は込み上げてくる恥ずかしさに思わず苦笑いをした。
#遠雷
深夜二時を過ぎても尚、煌々と夜空を照らしている街の明かりのせいで、空には星ひとつ見ることができなかった。あの闇の先には、本当に宇宙というものが存在しているのか、果たしてそこには本当に地球以外の星があるのだろうか、と疑いたくなる。
あの夜、皮肉めいた口調で「優しいのね」と言い放った君の心は、まさにいま目の前に広がる夜空と同じように、深く、暗く、冷たい空気で満たされていたに違いない。
片側三車線の幹線道路には、夜中だというのに多くの車が行き交っていた。この時間の彼らにとって、制限速度なんていうものは無縁のようである。車が通り過ぎていくたびに、湿った空気を含んだ風が歩道を歩く俺の右頬をはたいていく。
あの夜、いっそ頬をはたかれでもしていれば、俺は君の悲しみに気付けただろうか。何を考えたところで、誰からも答えが返ってこないことは俺が一番わかっている。
通りの脇に神社の鳥居を見つけ、気づけば吸い込まれるように短い階段を上がっていた。幹線道路の喧騒から幾分か離れた境内は、すっと風がやんだように落ち着いて、それが尚更に俺自身も見つめられなかった心の奥の闇を浮き彫りにした。
あの夜、俺が君の隣できちんと寄り添ってやれていれば、君は車の波に身を投げることもなかったのだろうか。今となっては、神に何を問うたところで、彼女が返ってこないことは痛いほどわかっている。
明かりからも離れ、しんと音の止んだ境内でふと夜空を見上げる。気を抜けば漆黒に変わってしまうほどの、仄かな青みを帯びた空に、先ほどは見えなかった小さな星々が、点々と浮かび上がる。
ああ、そうか。あの夜を境に暗闇へと転じた俺の心が、いつも仄かに青いのは、君が遥か遠くでぼんやりと光っているからなのか。もう会うことの叶わない君に手を伸ばす。指の間をすり抜ける風が、わずかに湿っていて、わずかに温かかった。
#midnight blue
「ヤバい、挟まれた」
都市にそびえる展望塔の最上部には、俺とシエラが背中合わせでようやく立てるほどの狭いスペースしかない。まさかこんなところで、最大のピンチを迎えることになろうとは。
「グラン、そっちの状況はどうかしら?」
後ろからシエラの声がする。下を向くと塔の側面に設置されたはしごを、全身真っ黒な戦闘服に身を包んだ集団が登ってくるのが見える。
「武装部隊が10人ほど。そっちは?」
「こっちも同じ程度よ。どうする?」
後ろからシエラが答える。
「ここにいても大きくは動けない。体制を立て直さないと」
「でも、この風が厄介ね……」
シエルの言葉で空を見上げる。上空には雲が大きく動くほどの風が吹く。
「そうだな、二人一緒には飛べない」
俺は背中に背負った小型の収納式スカイグライダーを確認する。紐を引けば翼が飛び出し、ここから飛び立つことはできる。しかし、重量制限があり、シエラを抱えて飛ぶのはリスクがでかい。
「そっちは飛べるか?」
俺がシエラに問いかけると、シエラは背中を少し動かす。
「翼を広げられないこともないけど、あなたを抱えてはムリね」
状況は同じか。こうなれば方法はひとつしかない。
「場所を変えて落ち合おう。今は二手に分かれるのが正解だ」
俺は地面を蹴り、同時に紐を引く。背中の装置から勢いよく翼が飛び出し、俺は、地上に向けて飛び立った。
俺が空中で振り返ると、シエラも飛び立つ準備をしていた。シエラの前方に10人ほどの堕天使が迫っている。
「分かったわ。例の場所で落ち合いましょう」
シエラは背中を小さく揺らすと、バサリと白く雄大な翼を広げる。白い羽がひらひらと落ち、はしごを登る武装部隊の顔をかすめる。
シエラは俺の方をちらりと振り返って軽く微笑むと、大きな翼を羽ばたかせながら空へと飛び立っていった。
#君と飛び立つ
最近、忘れ物が多くなったような気がする。買い物袋を玄関に置いたまま出かけたり、ガスの元栓をを消し忘れたり。
「年かしら……」なんて、ごまかしていたけれど、子どもの授業参観日を忘れていた時には、さすがにヤバいと思った。
そんなとき目にしたのが、“ForgetMeNot”というアプリ。
記憶をアップロードしておけば、あなたはもう忘れ物知らず――そんなうたい文句に、半信半疑で指を伸ばした。
卵を買うのを忘れないように、アプリに「卵」と声を吹き込む。すると翌日、通知が届き、買い物リストを思い出せる。
覚えておかなくていいって、こんなにも頭が軽くなるものなのね。こんな便利なものを知らずに生きてきたなんて。
これがあれば、どんなに些細なことも、きっと忘れないわ。
◆◇◆
最近、お母さんがなんか変なんだ。
いつもスマホばっかり見てるし、時々僕が呼んでも不思議そうな顔で首を傾げて、慌ててまたスマホを見るんだ。
スマホを見た後はちゃんと僕の名前を呼んでくれるんだけど……。
もしかして、お母さん……僕のこと忘れてないよね。
まさか、そんな事あるはずない。だって僕とお母さんは家族だもん。家族の顔なんて、きっと忘れないよね……。
#きっと忘れない
「鴉の勝手でしょ」
幼馴染の円香(まどか)が僕を庇うように言った。円香は何かあるといつも僕を守ってくれる。恥ずかしながら、鴉(からす)というのは僕のあだ名だ……。
「だって、鴉みたいなのが、さゆみと釣り合うわけないじゃん」
クラスメイトの裕二(ゆうじ)が『ない』のところだけやけに語気を強めて言う。
すべての発端は、僕がさゆみちゃんへの手紙を書いているところを、裕二に見られたからだった。
「さゆみちゃんはクラスで一番ビジンなんだ。お前みたいなビンボー人は相手にもされないさ」
僕が鴉と呼ばれているのは、『拾いグセ』のせいだった。学校の校庭や帰り道に、きれいな石ころや、空き缶のプルトップ、ビンの蓋を拾っては、ポケットに入れるクセがある。
「あんた、鴉のこと何もわかっちゃいない」
円香は裕二を指さしながら続ける。
「鴉はとっても優しいんだから。それにただ何でもかんでも拾ってるわけじゃないの!」
「は、恥ずかしいから、もういいよ……」
僕は袖で涙をぬぐってから、円香の腕を小さく引く。
「この際だから言っとくけど、裕二なんかよりも鴉のほうがずっと頭もいいし、心も綺麗なんだから」
「それとこれとは別だろ!」
その時、ガラガラと教室のドアが開き、タイミングがいいのか悪いのか、さゆみちゃんが入ってくる。
「おい、さゆみ。ちょうどいいところに来た! おまえ鴉になんか興味ないよな?」
裕二が強い口調で言う。さゆみちゃんは怯えたように首を反らしてる。
「ゆ、裕二くん……。そんな風に言ったらさゆみちゃんが怖がるよ」
僕がそう言うと、裕二がこちらをギラリと睨む。さゆみちゃんの震える声が聞こえてくる。
「山野くん……を、いじめないで」
山野っていうのは僕の苗字。僕をそう呼んでくれるのは、さゆみちゃんだけだ。さゆみちゃんがポケットから小さな指輪を取り出す。僕が校庭で見つけた綺麗な小石を磨いて作った指輪。ビンの蓋を加工して作った石座に、アルミのプルトップを溶かして作ったリングの自信作。
「昨日はありがとう。これ、大事にする」
さゆみちゃんが僕を見てニコリと笑う。裕二がケッと吐き捨てて去っていく。円香が僕を見て親指を立てる。
「さすが、鴉!」
僕は、鴉というあだ名が少し気に入っている。
#なぜ泣くの?と聞かれたから