放課後になると、いつもこの図書館に来てくれるあなた。
あなたが初めてこの図書館を訪れたとき、私の心は大きく弾んだ。
そしてあの日から、いつもあなたのことばかり考えてしまうの。
あなたが私の存在に気付いてくれなくても、私はいつでもあなたを見てる。
でも、私はあなたに触れられない。あなたの温もりをこの肌で感じられない。
触れようとしてもすり抜けてしまう感覚。それがとてももどかしい。
あなたと一緒になれる日を思いながら、書き始めた小説。
今日、ようやくあなたはこの本を手に取ってくれた。
今この瞬間も、私はあなたを見ているわ。
ページをめくるたびに震えるあなたの指先。額に浮かぶ汗。
なんて愛しいの。すべてが、私だけの宝物。
このまま、あなたがこの本を読み進めて
最後のページをめくったとき、私が後ろから優しく抱きしめてあげる。
そしてあなたは、私と一緒にこの本の住人になるの。
ページをめくるのが怖い?
でも、あなたはもう好奇心を止められない。
最後のページに何が書かれているのか、気になってしょうがないはずよ。
ああ、あなたがこの状況を理解していくその過程がたまらない。
気味悪さと恐怖を感じながらも、あなたはもう私から目が離せなくなってる。
さあ、最後のページにすすみましょう。
あなたの震える指先にそっと手を添えて、一緒にページをめくる。
あなたがこちらの世界にやってくる。初めて感じるあなたの温もり。
もうあなたを離さない。これからはずっと一緒にいてあげる。
#ページをめくる
「はぁ、もう見つからないのかな……」
新学期初日だというのに、朝食はまったく手に付かなかった。
私はテーブルに頬杖をつきながら、小さな天使のキーホルダーを目の前で揺らす。
根元についた鈴のチリンという音があの夏祭りの記憶を呼び起こす。
一週間前の夏祭りは多くの人で賑わっていた。人混みの中を、浴衣に履きなれない下駄姿で歩いていた私は、ふとした拍子に地面に足を突っかけてバランスを崩してしまった。
その時、私の背中を、男の子の大きな腕が支えてくれた。
耳元でチリンと小さく鳴った鈴の音に合わせて、私の心臓もトクンと音を立てた。
「大丈夫?」
優しく声をかけてくれた彼に、どう答えたのかは思い出せない。彼と目が合った瞬間、耳の端まで熱くなってそれどころじゃなくなってたから。
「気をつけて」
そう言って立ち去る彼を、放心状態で見送った私が、ふと足元を見下ろすと、天使のキーホルダーが落ちていた。
名前も聞けなかったし、どこに住んでるかも分からない。私を支えていた腕の感触と温もりが、まだほんのりと残っているだけ。
何度か、あの公園にも行ってみたけど、祭りの終わった公園に彼の姿があるはずもなく……。
もうあれから一週間が経って、気づけば夏休みも昨日で終わり。時間が経てば経つほど、再会も難しくなるんだろうな……なんて思いながら、それでもこのキーホルダーを手放せないでいる。
なんだか自分の心が、紐に繋がれた風船のように、中心から離れたところでふわふわと浮いているような感じがする。
「ねえ、天使さん。あなたの持ち主はどこにいるのかしら」
私は目の前にぶら下がる天使に問いかける。
朝礼前の教室は賑やかだった。久しぶりに顔を合わせる友達とのおしゃべりに花が咲くなか、ガラガラ……と教室のドアが開いて担任が入ってくる。
その後ろをついてくる長身で整った顔立ちの男の子を見てハッとした。
転校生として紹介された彼は、紛れもなく、夏祭りで出会ったあの彼だった。
「えっ、運命……?」
心の声が思わず外に出てしまう。
私はとっさにポケットのキーホルダー取り出して、チラリと彼の方にかざして見せる。
それを見つけて、驚いたような表情で嬉しそうに笑う彼の顔が、こと更に愛おしくて、思わず笑みが溢れる。
天使さん。あなたの持ち主、やっと見つかったね。そして、ありがとう。
九月の風に揺られて、天使の鈴がチリンと音を立てる。こうして私たちの新学期が幕を開けたのだった。
#夏の忘れ物を探しに
学校でちょっとした噂の都市伝説がある。
『八月の精霊』
街の片隅にある小さな公園の藤棚の下で、八月三十一日の午後五時に願い事をすると、翌日それが叶うというのだ。
僕はそんなオカルトじみた話は信じていなかったが、クラスメイトのハルカはめちゃめちゃ信じていた。
夏休みも終盤に差し掛かった頃、ハルカから『八月の精霊』に会いに行こうと誘われる。どうやら精霊は恥ずかしがり屋で、一対一だと姿を現さないらしい。
僕以外の友達数人にも声をかけたらしく、八月最後の日の公園には、僕とハルカを含めて五人の同級生が集まっていた。
ハルカ、マサキ、ユウトの三人は噂を信じていて、僕とミカは半信半疑だった。
時間は午後四時四十五分。
「みんな何をお願いするの?」
とマサキが問いかける。
「オレはね、明日になったら宿題が全部終わってますように」
ユウトの願いにミカが思わず吹き出す。
「なにそれ、もったいない」
「ハルカは?」
俺が問いかけると、ハルカは人差し指を唇の前に立てながら言う。
「こういうのは言ったら叶わないのよ」
ハルカの言葉にユウトは肩を落として「そういうのは先に言えよな」と嘆いた。
「シンヤは何かお願いするの?」
ミカがこちらを見る。
「僕は、特に考えてなかったけど……」
僕はハルカの顔をチラリと見る。
「へぇ……」
ミカが変な笑みを浮かべる。
「いよいよだ」
マサキがみんなを藤棚の下に呼び寄せて、両手を合わせる。
秒針が真上を向いた瞬間、遠くで午後五時を知らせるチャイムが鳴る。
僕は半信半疑ながらも『明日以降もハルカと遊べますように』と願った。
翌日のホームルーム。担任が両手をパンパンと叩きながら、みんなの注目を前方に向ける。
「ほーら、みんな前を向いてください。中園さん、ちょっと前へ」
みんなの視線がハルカに集中する。ハルカは席から立ち上がると、恥ずかしそうに教壇の隣へと歩いていく。
「先日の出校日にお話した、中園さんの転校の件ですが……」
担任の声で顔を上げたハルカは顔を赤らめて笑顔を見せている。
「親御さんの都合で、来年に延期になりました」
クラスの何人かがガッツポーズをする。
ハルカと目が合ったが、すぐに恥ずかしそうに目をそらす。僕も窓の外に視線を向けながら思わず笑みがこぼれる。
「あの噂、続きがあるらしいの」隣の席のミカが言う。「願いが叶うのは、二人以上が同じ願い事をした時なんだって」
僕は「へぇ」と短く返事をする。
空にはまだ夏のような積乱雲がもくもくと立ち上がっていた。
#8月31日、午後5時
僕は彼女に送るメッセージを途中まで入力して指を止める。変なことを入力してないか、言葉が足りなすぎやしないかと不安になっているところに、僕の中の現実主義な部分が話しかけてくる。
「おいおい、まずは結論からってのが定説だろ? だから、冒頭は『一緒に住みたい』だ。そして、相手を納得させる条件が必要だ。家賃はこっちが出す。部屋は別々にするし、いま住んでる家より職場も近くなる」
そこに直感的な部分が口出しをする。
「ちょっと待ちなよ。そんな不動産チラシみたいな誘いで一緒に住みたくなると思う? 『一緒に住みたい』だけでいい。そのあとはあまりに現実的すぎるよ」
「それだけじゃ相手は納得しないだろ。もっと納得できる理由がないと」
「彼女を想う気持ちとか、彼女のこちらに対する気持ちとか……。あるでしょ、そういうの」
「ふん、そんな不確実なものに意志を委ねるなんてバカバカしいな。もし、相手にその気がなかったらどうする? 傷つくのはお前だぞ」
「傷つきたくないのは分かるけど、家賃とか持ち出されたら、まるで興冷めじゃない」
「じゃあ、それ以外に相手を納得させられる条件はあるのか?」
ふたりの口論がヒートアップする。僕はそれを遮るようにふたりに告げた。
「僕はただ、帰る家に彼女がいてくれたらうれしいんだ」
「いや、それはマズイ。あまりに利己的だ。まるで『俺のために家にいろ』って言っているようだ」
「それはあまりに曲解だよ」
再びふたりの話は平行線を辿る。
僕は、ふたりの意見を考慮しながらスマホの画面上に指を動かす。
『結論から言うと、一緒に住みたいんだ。
帰る家に君がいてくれると嬉しいから。
でも、誤解しないでほしい。僕は仕事をしてる君が好きだから、家にずっといてくれってことじゃないんだ。
職場までも今の家より近くなるし、家賃に関しても君に負担をかけないようにするよ。
僕は君と一緒に暮らしたいんだ。考えてみてほしい』
そこまで文字を打ちこんで、僕は大きくため息をつく。
「彼女をもっと信じてあげたら?」
直感的な部分が言う。
「言葉足らずで誤解されたらどうする?」
現実主義の僕が問う。
「彼女はそんな子じゃないよ」
「お前は楽観的すぎる。誤解されてからでは遅いんだ」
僕の中でふたりが言い争う。
「ふたりともケンカしないで」
僕は直感を信じて『一緒に暮らさないか?』の十文字だけで送信ボタンを押す。
「おい、本気か? 俺は不安で仕方がない」
現実主義の部分がうろたえる。
「うん、それでいい」
直感的な部分が大きく頷く。
しばらくして彼女からの返事。
『突然のことでびっくりだけど、うれしい』
僕は小さくガッツポーズをする。そして、僕の中の現実主義な部分に声をかける。
「ここからは君の出番だ。僕と彼女、ふたりの不安を埋める作業は君にしかできない」
僕の中にいる『ふたり』は全く正反対だけど、どちらかが欠けてもいけない。僕は、彼女との『ふたり』の関係を、僕の中の『ふたり』と一緒にこれからも続けていく。
#ふたり
もしもあの日、恵美子が無理やりにでも旅行に駆り出してくれなければ、私は今でも『海は青く、風は無色透明だ』と思っていたかもしれない。
恵美子が商店街の福引で沖縄旅行を当ててきた。
彼女は「人生の運をすべて使い果たしたみたい」と驚きながらも、どこかばつが悪そうにしていた。もともと出不精な私が、数年前に腰を悪くしたことで、二人の間に旅行の話題が上がることはなかったからだろう。
「私のことは気にせず、友達でも誘って行ってきなさい」
「誘うようなお友達もいないもの。行くならあなたと行きたいわ」
「君に迷惑をかけるだろ」
「何言ってるんです。私が支えますよ」
いつもよりも押しが強い恵美子に根負けする。結婚して二十余年、ともに五十を過ぎていたが、二人とも飛行機での旅行はそれが初めてだった。
飛行機を降りた瞬間、湿度の高い熱気にやられた。慣れない飛行機での疲れもあり、早々にホテルのチェックインを済ませ、少し休憩を取ることにした。
部屋に入った途端、恵美子は楽しそうに声を上げる。
「ねぇ、あなた。海の向こうの方をフェリーが横切っていくわ」
その後も彼女は、海の向こうに小さく見える尖った島、白い砂浜、背の高い入道雲――と、興奮気味に窓の外の風景を言葉にしていく。ふと、声色が変わる。
「もう、あなたったら。せっかくの沖縄なのに、海を近くで感じなくてどうするの?」
私がベッドの端に腰掛けて、クーラーの下で項垂れているのを見かねたのか、恵美子は私をベッドから引き剥がすように手を引いた。
もはや私の杖は、地面を打つ隙さえ許されず、気がつけば、潮の香りは濃くなり、波の音も近くなっていた。恵美子があの木陰を見つけてくれなければ、私は浜辺で茹でダコになっていたに違いない。彼女と二人、木陰に腰を下ろすと、優しい風が顔の横を吹き抜け、それまでの暑さが嘘のように涼しくなった。
「海の青って一色だけじゃないのね。不思議だわ。深いところはとても暗い色をしていて、浅いところは緑色に見える。海面がキラキラ光って、まるでエメラルドの宝石がたくさん浮かんでいるみたいだわ」
私はサングラスの向こうに広がる景色に思いを馳せた。私が見ている光景が、恵美子が見ているのと同じ風景だったらどんなにいいだろう。
若くして光を失ったこの目の奥に映るのは、彼女が事細かに語ってくれる言葉のみ。潮の香りや波の音と重なりながら、頭の中で映像が出来上がっていく。
白い砂浜の向こうに広がるエメラルドグリーンの海、その向こうで濃い青色をした辺りにはフェリーが行き交い、天を貫くような入道雲が盛り上がる。そのすべてを照らす太陽はきっと眩しくて、すべての色をより鮮やかにしているに違いない。
「あなたと来られてよかったわ」
耳元で囁く恵美子の声に乗って、私の心の中の風景に淡い桃色をした風がふわりと吹き抜けていった。
#心の中の風景は