人生を砂時計に例えるなら――
砂時計の上半分は未経験の可能性である。
偶然によって積み重なった運命の集合。
それらは単に現実と近い部分から動き始め、
バランスの変化によって起こる運の連鎖である。
斜面を流れる運命の音は、内なる鼓動の音であり、期待と予感の摩擦音である。
砂時計のくびれは可能性と現実の境である。
動き出した運命が経験へと落ちていく通過点。
それぞれの運命は現実という紛れもないものの中で、物理法則に従って等加速度で落ちていく。
落下していく運命の音は、経験の最中にある音であり、抵抗と衝突の破裂音である。
砂時計の下半分は経験の蓄積である。
落ちてきた粒子が山のように蓄積した結果の形。
重なり方もまた偶然であり、その表層は次に落ちてくる運命で如何様にも変わる。
蓄積していく運命の音は、密度を増していく音であり、圧縮と凝固の重低音である。
そして砂が落ちきった時、
初めて運命は不動の形へと収束する。
結実は無音である。
人生とは単に偶然の積み重なりのように見える。
砂時計が静止している場合においては。
砂時計の中身には触れることができない。
我々にできるのは砂時計そのものを動かすこと。
未来の選択とは、砂時計に外から力を加えることに他ならない。
外力によるわずかな振動が運命の流れる順序を変え、落ちていく粒子のぶつかり方を変える。
いわんや積み重なった山の形も。
外力の源が自ら湧き出るものであればそれは意志であり、他者によるものであれば依存である。どちらが制御しやすいかは言わずもがなである。
過度な外力には留意が必要である。
砂時計の中は嵐のように乱れ、塊となって流れ落ちる運命は、苦痛を伴う現実となって激しくぶつかり合う。
積み重なる山の形も常に安定しない。
ましてや途中でひっくり返そうものなら、その先では未熟な山の上に重たい運命が降り注ぐことになる。
ただ静かに、指先でつつくようにして少しずつ運命の流れを変えていく。
寧ろそんな小さな意志が未来をぐっと理想に近づける。
運命の落ちる音の変化に耳を傾けて、落ちていく過程を静かに見守るのがよい。
結局のところ、最期に積み重なった形を自分自身で美しいと思えれば、その人生は成功したと言える。
人生を終えた後、自然と砂時計はひっくり返る。そうして流転する新たな人生には、前世で積み重ねた運命がまた偶然のもとに入り乱れ、期待と予感の音を立てて降り注いでいくことだろう。
#砂時計の音
私はある日、道端で一枚の星図を拾った。青い天球の中に白い点で表された星々が、線で結ばれて星座を描いている。
作者は不明だが、星図に従って進んでゆけば、『約束の地』と呼ばれる理想郷に辿り着けるらしい。
夜が来るのを待ち、小さな船で海へと漕ぎ出した。
不思議なことに星図の絵柄は刻々と変化した。その度に似た星の配置を探し、船首の向きを変えながら大海原を進んでいく。
順調にみえた船旅は、突如訪れた巨大な嵐によって、一転災難となった。
海を裂くように吹き荒れる嵐は、船を大きく揺らし、波に飲み込まれる度に船の舳先は方角を変えた。
私は星図を決して手放さぬよう、胸に抱えたまま必死に舵を取る。だが次の瞬間、足元から強烈な衝撃が走り、星図は風にさらわれて、海の底へと沈んでいった。
それからどれほどの時間が経っただろうか。嵐が過ぎ去った夜更けの海は嘘のようにしんと静まり返っていた。
夜空を埋め尽くすほどの星が輝き、海はどこまでも大きく広がっている。しかし、星図を失くした私にとってはそのどれもが絶望でしかなかった。
「一体これからどうすれば……」
海に向かって言葉を放り投げる。すると、まるで言葉を拾うように、海の底から光が呼応する。
青白い輝きが波を透かして、ゆらゆらと揺れる。次第に浮き上がってくる光は徐々に形を成し、少女の姿となって海面に姿を現した。
「お困りのようね?」
彼女の声は夜の海のように深く穏やかな響きを持っていた。
「星図を落としてしまって、どこへ向かえばいいのか、わからないんだ」
私が答えると、彼女は少し考えるように目を伏せた後で笑みを見せた。
「それなら、探しに行きましょう。海は広くても探せばきっと見つかるはずよ」
海面へ向かう私の視線の先には、距離という概念を失ってしまったかのような、ただただ深い闇が続いている。
「大丈夫、私を信じて」
そう言って少女が差し出した手を自然と握り返す。その瞬間、電流が走ったように心臓がドクンと波打つ。そのまま不思議な説得力に導かれるように、私は海へと飛び込んでいた。
海の中にはもう一つの夜空が広がっていた。
魚の群れが煌めき、岩場の珊瑚や磯巾着がぼんやりと青白い光を放つ。そのすべてが悠然と漂い、まるで生まれる前の記憶のように私を包み込む。
幻想的な懐かしさの中に、ふと既視感を覚える。その正体を探ろうとより深く潜っていくと、魚が通った跡にはこれまでの人生が映し出されていた。
――泣いた記憶、笑った記憶
――嬉しかった記憶、悲しかった記憶
――愛し、愛され、裏切られ、それでもまた愛した記憶
様々な記憶を辿っていく度に、その過程が線となって地図のように繋がっていく。俯瞰的に眺めてみると、それは失くした星図によく似ていた。幾度と変わった星図の中で、一番美しくて納得のいく形。
「もしかして、『約束の地』って……」
水中に投げかけた言葉は、受け取る者もなく泡となって立ち登っていく。少女の姿はいつからか消えていた。いや、彼女は私の中にいた――。
思えば私は、他人が作った星図を頼りに、外側にある手の届かないところばかりを見上げていた。
深い海の底には、こんなにも美しくて誇れる地図があったというのに。嵐に見舞われ、進むべき道が分からなくなって初めて、遠い空を離れて深い海の中を覗くことができた。
徐々に体が浮き上がっていくにつれ、目の前の地図はより大きく確かな輪郭を持っていく。
水面に顔を出すころには、外はすっかり朝を迎えていた。自分の中に見つけた地図が示す先に、ぼんやりと陸地の影が浮かぶ。まずは自分を信じてあの陸地を目指そう。
そうして私は再び船に乗り込み進み始めた。
#消えた星図
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体名は実在のものとは一切関係ありません。
舞台に照明がともり、聞こえてくる三線に笛と琴の音が重なる。左肩にかけた手ぬぐいは鮮やかに紅く、右手に握られた番傘の紫色が鈍く光を照り返す。
琉球舞踊『花風』――。
愛する役人が旅立ってしまうのを、船着場から離れた高台で隠れて見送る遊女の姿を描いた踊り。
私はその役人にあの人の姿を重ねながら、静かに、そしてゆっくりと舞台の床を踏み込む。
◆◇◆
その日、私が那覇空港の展望デッキに到着した時には、すでに飛行機は搭乗口から離れて動き始めていた。
視界の中に収まってしまうほどに小さくなった飛行機の中で、人々の姿は殊更に小さく判別することなど叶わない。ただあの中に貴方がいる――それだけは確かだった。
〜三重城にのぼて 手巾持上れば
速船のならひや 一目ど見ゆる〜
(三重城の高台に登って手ぬぐいをかざしてみても
行く船は速すぎて少しの間しか見られなかった)
あの人との初めての出会いは三年前。県の文化交流事業がきっかけだった。
琉球舞踊の保存と継承のため、私の踊りを映像に収める。それが文化庁職員である貴方の仕事。
東京から転勤してきたばかりの貴方は、まだ沖縄の風土に慣れきらず、かりゆしウェアの集団の中で一人だけワイシャツ姿だった。緩みのないネクタイに折り目の整ったスラックス。私はすぐに貴方の虜になった。ただ、薬指の指輪に気づくのが一足遅かった……。
たとえ他に想う人がいたとしても、私は貴方を振り向かせたかった。そして、関係を深めたいと望む一心から、貴方に踊りを披露した。
次第に深まっていく関係は、同時に決して表に出してはならない関係になっていった。私と会う時だけは、薬指の指輪を外してくれた貴方。
しかし、文化交流事業の期間が終わり、東京に戻ると聞かされたあの日の薬指には指輪が鈍く切ない光を放っていた。
そこで改めて、貴方には他に愛する人がいるという事実を突きつけられたようで、胸が痛む。
〜朝夕さもおそば 拝みなれそめの
里や旅しめて いきやす待ちゅが〜
(朝夕常に一緒にいた貴方が旅立ってしまったら、
この先どのように貴方を待てばよいのでしょう)
今日という日も、ロビーで堂々と貴方を見送れたらどんなに良かっただろう。
私はポケットから取り出した紅いハンカチを、遠ざかっていく飛行機に向けて静かにかざす。秋の風がハンカチをひらりとはためかせ、二人の燃えるような愛の色が空に泳ぐ。
東京に戻っても私のことは忘れずにいてくれるだろうか。こうして貴方を見送っているこの瞬間も、そんな一抹の不安は拭い去れないままだった。
◆◇◆
踊りも終盤に差し掛かる。背中に開かれた番傘を肩にかけ、その端にゆっくりと左手を添える。はるか遠くにいるあの人に想いを馳せながら、目線を遠くに飛ばす。
目を瞑ればそこに貴方の姿が浮かんでくるのだから、どうしたって忘れることなどできはしない。ただ、貴方がいまも健康で幸せに生きていてくれるのなら、それだけで幸せだ。
貴方の存在を遠くにでも感じられるだけで、私はこうして踊り、生きることができる。
繰り返される三線の調べの中、私は傘を翻し客席に背を向ける。舞台袖へと進める一歩一歩に、あの人との思い出が浮かんでは消えていく。
舞台袖で立ち止まった背中に、三線の音色に重なるようにして拍手の音が聞こえてくる。その中にあの人の拍手も混ざっているような気がした。
番傘に隠した顔を伝う涙が、誰にも見られていないことを切に願う。
#愛-恋=?
涼やかな深夜の公園を散歩していた私は、小さな茂みの陰で悲しげな表情を浮かべて座る一人の女性を見かけた。
歳は私より上のようだったが、彼女の透き通るような白い肌は、まるで熟れた梨のように湿潤な質感を持っていた。
彼女を見ていると、どうしてか彼女を見放してはいけないという妙な衝動にかられる。
「私でよければ話を聞きますよ」
私は無意識に彼女に話しかけていた。
梨乃(りの)と名乗った彼女は、淋しげな視線を私に向けながら、長年連れ添った夫の急な死によって家を追われ、一文無しになってしまったと告げた。
「それならあなたにぴったりな仕事があるわ」
私はそう言って、梨乃を父が営む小さな食堂へと案内した。
店の中は穏やかな静けさに満ちていた。
私は梨乃を連れて店の奥にある厨房へと歩みを進める。シンプルな白いエプロンを腰に巻き、作業途中で材料や器具が放りっぱなしの調理台に向かう。
私は街で手に入る旬な食材を使って、新たな商品開発を進めている途中だった。そして今取り組んでるのは『梨』を使ったメニュー。今夜中に具体的な試作を一品完成させておきたかった。
「一緒に魅力的な新メニューを考えてほしいの」
梨乃にそう告げると、彼女は心なしか自信のない表情を浮かべる。
「そんな重要な仕事、私のような素人にできるかしら」
「そんな心配しなくても大丈夫。ひとりじゃ行き詰まってただけだから。いろんな視点で考えた方がうまくいきそうでしょ?」
商品開発は朝方まで続いた。様々な試行錯誤の末、とうとう料理が完成する。
梨を使ったナシゴレン、その名も『梨ゴレン』。
ナシゴレンは鶏肉や海老などの様々な食材と一緒にご飯を炒めた東南アジア風のチャーハンである。
そこに豊かな自然が育んだ二十世紀梨を、まるっと一個分使った贅沢な新感覚チャーハン。
味付けはケチャップをメインに、隠し味にほのかな醤油の香りをプラス。シャリシャリとした梨の不思議な食感が癖になること間違いなしだ。
私は大きな白い皿に盛られた梨ゴレンを前に、確かな幸せを感じていた。
「すごくいいと思う」
「私もそう思います」
目標を成し遂げられたという達成感に、私と梨乃は顔を見合わせて笑みを浮かべた。
父が目覚まし代わりにセットしたステレオのタイマーが作動し、スピーカーがかすかな振動を始める。軽快なショパンの調べが店内に響いた。
まだ眠そうな仕草を見せながら父が厨房へと降りてくる。私と目が合うなり、父が頭ごなしに声を上げる。
「まさか、睡眠もなしにやってたのか?」
「今日で完成させておきたくて」
普段から頑固な性分の父の小言を軽くいなしながら、父に渾身の料理を差し出す。
「梨ゴレンよ」
「こんなしょうもない駄洒落なんぞ話にならん」
父の冷ややかな視線が皿と私を行き来する。
「偏見無しに、まずは食べてみて」
父はスプーンで梨ゴレンをすくって口へと運ぶ。しばらく黙り込んだあと、口元の深く頑健な皺をくいと引き上げて小さく頷いた。
その父の無言の返事が、この料理が成功したという確かな証拠だった。
「お前ひとりで作ったのか?」
「いえ、有望な新人さんのおかげよ」
私が梨乃のことを告げると、父は眉間に訝しげな皺を寄せた。
「誰も……いないじゃないか」
ふと辺りを見渡すと、そこに梨乃の姿はなかった。
「おかしいな……。さっきまでいたのに」
唐突な静寂(しじま)に秋の風が吹き、調理台に一枚の紙切れが揺れる。
『あなたの料理に対する真摯な姿勢は
ひとつひとつが確かな雫となって落ちていく
それはあなたの心にいくつもの波紋を織り成して
いつか壮大なシンフォニーを奏でるでしょう』
柔らかな詩のような言葉が、ショパンの豊かな調べと呼応する。
胸の奥で、梨を噛んだ時のようなじゃりっとした感触がして、私の心がじわりと甘美な汁で満たされていく。
#梨
「これが最後のコンクールだ。悔いのないように最後まで走り抜けよう」
顧問の高田先生が合唱部の三年生を集めて告げた。私が部長として迎える最後のコンクール、三年生の部員のみんな、そして今年で定年を迎える先生にとっても最後の大舞台となる。
全員で力を合わせて最高の思い出を作ろう。みんな向いている方向は同じだった。
しかし、大会二日前。強大な台風が近づく中で、大会本部からの通告はあまりに残酷なものだった。
大会の中止。しかも時期をずらしての開催もまだ定かでないという。
「そんな……。あんなに頑張ったのに」
部員たちの間にも動揺と落胆が広がっていく。
「私も悔しいよ。君たちの努力は私が一番近くで見てきたんだから」
そう言う先生の肩は震えていた。私は部員たちが抱える行き場のない熱意をどうにかしたいと声を上げた。
「先生、せめて私たちの歌を誰かに聴いてもらう機会は作れませんか」
他の部員も次々と賛同の声を上げる。波は次第に大きくなり、学校を動かし、地域を動かした。
台風が過ぎ去って二週間後、地域交流行事として合唱発表会が実施されることになった。
短い期間での告知にも関わらず、発表会当日の体育館は多くの人で賑わっていた。
「君たちの歌声をみんなに届けられて本当にうれしいよ」
先生は無邪気な笑顔で喜んだ。部員たちの顔に浮かんでいた緊張の色が、先生のおかげで少し和らぐ。
発表会は、秋らしい童謡で幕を開けた。その後も様々な世代に合わせた曲を披露していく。ひとりひとりの声が響き合う度に、会場は柔らかく優しい熱に包まれていく。
みんなが笑顔になり、手拍子も聞こえてくる。その盛り上がりが声援になり、私たちの士気をより高めていく。
ラストはコンクールで披露するはずだった課題曲に決めていた。一番力を入れて練習を重ねてきた曲。
私は会場に向けてマイクを握った。
「今日は私たちの合唱発表会にお越しいただきありがとうございます」
背中に感じる部員たちの思いを一つ一つの言葉に乗せて声にする。
「最後の曲は、未来に向かって歩く人々へ希望と勇気を与えてくれる曲です――」私は舞台の袖へと視線を向ける。「この曲を、私たちの恩師、高田先生に捧げます」
先生が、部員に手を引かれながら、驚きと恥ずかしさを隠すように顔を伏せて舞台へと上がってくる。先生が舞台の脇に用意した椅子に腰掛けるのを見届けて、私は告げた。
「聴いてください。『Another Day of Sun』――」
舞台の照明が落ちる。
みんなの呼吸が一つになる。
――Ba-ba-da-ba、 da-ba-da-ba
暗闇の中、声だけで刻む軽快なイントロが始まる。伴奏はない。軽快なリズムに会場から自然と手拍子が響く。
スポットライトが部員の一人を照らし出し、歌声が放たれる。一人、また一人と歌声が重なるにつれ、ステージが光に満ちていく。
次第に歌は宙を駆け、天井を越え、あの日の台風を消し去るように空へと響いていく。
リズムを刻む声。
風のように流れるコーラス。
力強い歌詞を持った声。
すべての声が一つになる。
次第にラストが近づく。
視界の片隅に手拍子を打つ先生の姿。
涙で詰まりそうになる声を張り上げる。
渾身の力で最後の一節を振り絞る――。
――It's Another Day of Sun !
全員の声がピタリと止み、しんと空気が静まる。
刹那、堰を切ったように会場が大きな拍手に包まれた。全身の毛が逆立つような感覚に思わず涙が溢れてくる。感謝が沸き上がり自然と会場に向けて深く一礼をしていた。
「今までで一番のステージだったよ」
椅子から立ち上がる先生に、思わず部員全員で駆け寄った。先生も私たちもたくさん泣いた。
これは悲しい涙じゃない。みんなで成し遂げた達成感の涙だ。
先生、みんな、ありがとう。いつかまた今日みたいに一緒に歌おうね。
今日という日が終わっても、私たちはきっとまだ走っている。また昇ってくる新しい太陽の下で――。
#LaLaLa GoodBye