結城斗永

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11/1/2025, 9:31:35 PM

ぼんやりとする意識の中で、白みがかった早朝の空から冷たい空気が顔面に覆いかぶさるように落ちてくる。無意識に体が震え、思わず毛布を深くかぶる。暗くなった視界にアスファルトの冷たさが背骨に染みて、体の節々から痛みが走る。

頭上の鳥の囀り、遠くのラジオ体操の音、耳元で行き交う雑踏。世界にとっての日常が、私の耳には雑音として響く。

駅前のパン屋から運ばれてくる甘く幸福な香りは、薄いダンボールの壁をいとも簡単にすり抜けて鼻の下をかすめていく。本能の嘆きのように腹が鳴る。
もう少し、寝ていたい。少なくとも眠っている間は空腹も紛れるし、外の冷たい世界も忘れられる。

穴の開いた毛布の隙間からは、秋の終わりを纏った空気がしつこく入り込んでくる。細い隙間から入り込む風はさらに冷たさを増したようだった。

——こっちへおいで。
 
ふと足元の方から少女の声がする。雑踏の音が次第に輪郭を失っていく中で、少女の声ははっきりとしていた。

――とっても暖かいよ。


目を開けると、薄桃と群青が入り乱れた微睡みのような空に、薄く白い靄が漂っていた。空の下には見渡す限りの白い丘が広がっている。
刈り込まれた芝生のように白い毛糸が地面を覆い、風が吹く度にふわふわと揺れる。春の陽気のような暖かい風。

私は無意識のうちに、視界の奥に見える熱の塊へと足を運んでいた。
近づくにつれてそれが焚き火の明かりだと分かる。人々が笑いながら暖を囲み、湯気の立つスープを皆で回しながら分け合っていた。
「おかえりなさい」
後ろで先ほどの少女の声がして振り返る。
白いニットのワンピースに赤いマフラー。白い肌にほんのり赤みを帯びた頬。
「ここは毛布の国。寒い世界でがんばった人が休むところよ」
少女の声は、湯気のように優しく辺りを包み込む。

焚き火を囲む輪の中に招かれる。粗彫りの木椀に盛られたスープが回ってくる。一口含むと久しぶりの温かい食事に自然と涙が頬を伝う。
「もう寒くないでしょう?」
隣に座る女性が木椀を受け取りながら言う。

その場にいる人々は、みんな優しい笑顔を交わし合っていた。
誰も命令せず、誰も見下さない世界。
決して拒絶されることのない優しい世界。
あまりにも理想的な――世界。

毛布の国には時間という概念が存在しないのか、そこには朝も夜もなく、常に穏やかだった。
もうどれほどここにいるのか分からない。
過去を思い出そうとしても、記憶はぼんやりとして像を結ばない。それでよかった。冷たい記憶はこの世界に似合わない。

ただひとつ、ぼんやりとした記憶が頭の奥に残る。
――余りものですけど、よかったらどうぞ。
女性の声とともに、通りに背を向けて寝そべる私の後ろから柔らかい香りが漂う。
振り返ると声の主はすでに雑踏に紛れ、駅前のパン屋の紙袋が置かれていた。中には総菜パンがひとつ。冷めきっているのに、胸の内はじんわりと温かくなった。


「ねぇ、ずっとここにいてくれるよね?」
少女の声で我に返る。白い芝生に立ちつくす私の横で、彼女はこちらを見上げていた。
「これ、道に迷わないおまじない」
そう言って少女は赤いマフラーと同じ毛糸を私の小指に結びつけた。
「そうさ、ここにいればいい。ここは君を見捨てない」
別の男が近づき、優しく微笑む。男から差し出された手を取り、再び焚き火を囲む。

「現実のことは忘れなさい。ここにいれば凍えることはない」
隣に座る老人が揺らめく焚き火を見つめながら静かに呟く。柔らかく温かい感触が手のひらへと伝わると同時に、残りの記憶も薄れていく。

そうだな――。
私はもうあの冷たい世界には戻りたくない。
木椀が回ってくる。まだ温かい。スープを一口すすって隣に回す。頬が自然と緩む。
私は小指の赤い毛糸を見つめながら、温かい幸福が喉を通り過ぎていくのをただただ感じていた。


#凍える朝

10/31/2025, 7:23:08 PM

掌編連作『寄り道』第五話
※少し間が空きました。2025.10.10投稿『一輪のコスモス』の続きです。
 ママさんと二人、失踪した僕の父親探しの物語。

【前回までのあらすじ】
 父と親しかった孝雄からの情報で、父親の女らしき『メグミ』の影を追って港町のスナックを訪れた僕とママさん。ママさんはかつて決別した玲子と再会し、十年前に犯した“見逃し”の罪を告白する。二人は互いの過去を赦し合う。
 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 玲子(れいこ)は、カウンターの向こうで煙草に細い煙を燻らせながら、ちらりと僕の方を見た。
「その子の話で来たんでしょ?」
「ええ。この子の父親ね――」
 ママさんが続けてことのあらすじを説明する。父が失踪したこと、店の常連でツケが溜まってること、僕の母の病気のこと、僕の前では真面目な父親でいたこと、父にメグミという女の影があること……。
 説明を聞きながら、改めて自分の置かれた状況を確認するようだった。父であるはずの茂(しげる)という人物がまるで見知らぬ人のような不思議な感覚がする。
「なるほどね」
 玲子が状況を整理するように、虚空に吐き出した煙を見つめながら呟く。
「それで、あんたはどうしたいの?」ふと僕に向けて玲子の質問が飛んでくる。「父親に会えたとして、何をするわけ?」
 ――何を、したいのか……。
 僕は想定していなかった質問に、すぐには声が出せなかった。昨日から世界があまりにも変わりすぎて、正直なところ今の自分が父に何を求めているのか――。
「分からなくなってきました……」
 素直な気持ちを答える。

 失踪した父の安否を知りたい。ただ、それが本当の理由ではない気がする。何故なら約一ヶ月、僕は父を探そうとも思わなかったから。
 母が入院して、ようやく父の行方を探そうと思ったのは、お金の工面への心配と、自分一人で母を支えなければならないことへの自信のなさからなのかもしれない。
 父を頼りたかった。でも、それすら揺らぎ始めている。不安とも怒りともつかない感情が、目の前の道に影を落としている。
 ――覚悟はあるのか。
 孝雄(たかお)の部屋で言われた言葉が胸を刺す。

「覚悟って、どうやったら持てるんですか……」
 僕は俯いたまま、誰に向けるでもなく尋ねていた。二人も、しばらく言葉を探すように黙り込む。
「あんたは何を守りたいんだい?」ママさんが沈黙を破るように告げる。「母親、父親、――それともあんた自身?」
 僕が守りたいもの……。ほぼ形は見えているのに、明確に答えることができない。
「僕はただ……、あの時の三人に戻りたい」

    ◆◇◆

 父がいなくなる少し前、僕らは家族三人で旅行に出かけた。山に囲まれた温泉旅館。父が取引先から宿泊券を譲り受けたとかで、不意に叶った三人での旅行だった。
「まだ優(まさる)が小さい頃は、三人でよく出かけたわよね」
 父が運転する車の助手席で母が懐かしそうに言う。
 思い起こせば、泊まりで旅行するのは中学一年のとき以来だった。僕は後部座席から父と母を見ながら、二人が笑顔で話しているのがとても嬉しかった。

「優、温泉行くか」
 父に誘われて露天風呂に向かう。父と二人きりになることが少なかった僕は、少し緊張していた。
「学校はどうだ」「うん、楽しいよ」
 湯船の中で、しばらくぎこちなく続いていた会話は、体が温まるにつれて、少しずつほぐれていった。
「たまには全てを忘れるのもいいもんだな――」
 父がぼそりと呟いた。温泉の湯気に乗って出たようなふわりとした言葉。その時はあまり深く考えなかったが、今となっては別の意味に聞こえてくる。

    ◆◇◆

「あんたたちが探してるメグミかは分からないけど――」
 玲子の言葉で我に返る。
「『ようこ』ってスナックで働いてた娘がいたね……」
「過去形なのが気になるけど」
 ママさんがくすりと笑いながら言う。
「最近店を辞めたって聞いたけど。一ヶ月くらい前だったと思うわ」
 ――ちょうど父がいなくなった頃……。

 カランカランとドアベルが鳴り、客が一人入ってくる。玲子が腕時計に目をやる。
「あら、もうこんな時間……」
「姉さん、ありがとう」
 ママさんが立ち上がり、玲子に頭を下げる。つられるように僕も一緒に軽く頭を下げる。
「今度、店にも顔出すわ」
 客のおしぼりを準備しながら、玲子が笑みを浮かべ、ママさんも笑顔で返す。

 店を出る間際、背中に玲子の優しい声が響く。
「見つかるといいわね」
「ありがとうございます」
 僕は玲子にさっきより深く頭を下げる。
 外はすっかり日が落ちて、夜の街にはネオンが点々と灯っていた。
 暗い道の前に少しずつ光が落ちていくような、探り探りの寄り道は、まだまだ長く続きそうである。

#光と影
#寄り道
 

10/30/2025, 11:08:38 AM

私は恋のキューピット。
そして、その時を待っている。

私は二人の間に立ち、
そして、二人を交互に見やる。
  
前からやってくる彼と、
そして、私の後ろに立つ彼女。

二人はまだ個々の存在。
そして、それぞれに意味を持つ。

二人の距離が近づいていく。
そして、淡い恋の予感がする。

私はまず彼の手を引く。
そして、その手を彼女へと導く。

互いの手と手がつながり、
そして、二人は一つになる。

互いの存在を共有する。
そして、意味が流れ始める。

二人の物語は続いていき、
そして、様々な展開を迎える。

やがては結末を迎え、
そして、また別の物語が始まる。

私は、そして。恋のキューピット。
そして、今日もまた二人をつなぐ。

#そして、

10/29/2025, 1:15:30 PM

「ラビ、見てよ! このSoraくん、めっちゃビジュよくない?」
 ユイが満面の笑みでスマホを差し出す。
 画面にはキラキラと爽やかな男の子。
 ユイ、この子の話をするときは何だか楽しそうだよな。
 少し前まで、僕の名前を呼んで抱きしめてくれたのに。そりゃあ中学生にもなれば、ウサギのぬいぐるみよりも、現実の男の子の方が魅力的か……。

 僕はユイのベッドの枕元で少しだけ頬を膨らませた――けど、多分ユイにはそんな風に見えてないんだろう。
 最近まで、この長い耳はユイの声を聞き逃さないためだと思ってたし、この大きな目も君をしっかり見るためだと思ってた。

 でも今じゃ、僕の耳に入るのはSoraの話をする君の声で、僕の目に映るのは彼に夢中な君の顔ばかり。
 そのSoraって子より、僕の方が絶対に君のことを考えてると思うんだけどな。

 ある日、帰宅したユイは、いつもより気合の入った顔をしていた。
 ユイの手にはダンボールが一箱。ベッドに腰掛けて箱を開ける目がキラキラと輝いている。僕が一番好きな君の顔だ。
 ユイは箱の中から大きめの本を取り出して、恥ずかしそうに笑うと、一度胸の中にギュッと抱きしめた。
 本のページをめくる度に、「ヤバい」とか「カッコいい」とか聞こえてくる。遠目に見えるページではSoraが様々なポーズをとっている。
 僕はまた少し頬を膨らます。

 本の最後の方には、四つ折りにされた紙が挟まっていた。紙を広げるユイの顔はこれまで以上に期待に満ちていた。
 広げた紙に大きく映るSoraと目が合った。なんだか『ごめんね、君のユイを奪っちゃって』とでも言われているような気がして、心がチクリと痛くなる。

 ユイが不意に部屋の中を見渡す。僕の方をチラッと見てニコっと笑う。嬉しくなって僕も笑顔を返す。
 ユイはベッドから立ち上がって勉強机に向かうと、ゴソゴソと引き出しをあさって戻ってきた。

「ラビ、ちょっとごめんね――」
 あれ――。ユイが僕の体を抱えて近くの本棚へと運ぶ。見慣れた枕が遠くなっていく。ユイは僕がいた場所に膝立ちして、壁にSoraが映った大きな紙を留めていく。
「これでよし!」
 ユイは僕に目もくれずに、紙の中にいるSoraに笑顔を向けた。
 その日から、僕はユイの枕元で一緒に寝ることも叶わなくなった。

 数ヶ月後には、ユイの部屋も大きく様変わりしていた。壁の至る所にSoraの顔があり、勉強机には教科書よりも彼のDVDやグッズの方が多かった。
 その日、ユイは珍しく勉強机でうなだれていた。
「最悪……、ライブ外れたし……」
 僕は本棚の上からそっと彼女を見下ろす。こんなに落ち込んでるユイを見るのは久しぶりだった。
 今すぐユイに手を伸ばしたいのに、この短い腕では君に触れることすらできない。
 ユイ、泣かないで。僕は君の笑ってる顔が好きなんだ。きっとSoraもそうだと思う。

 その夜、僕は久しぶりにユイの腕に抱かれて眠った。ベッドから離れていた時間が長かったせいか、ユイの体が前よりも大きく感じられた。
 とてもあったかくて、ほっとする。
「ラビ、柔らかい……」
 ユイの声が聞こえてきて、それまでのヤキモチなんて、どこかへ消えてしまった。
 大丈夫。ずっと僕はユイの味方だよ。

 次の日、学校から帰ってくる頃には、ユイにいつもの笑顔が戻っていた。
「ラビ、見て。友達と交換してもらったんだ!」
 ユイは嬉しそうにそう言って、僕の首にSoraの名前が入った小さなペンダントをかけてくれた。
「やっぱり。ラビには絶対これが似合う思ったんだよね」
 その言葉だけで僕は救われる。
 たとえユイが誰を好きになっても、君が笑っていられるなら、それでいい。嬉しそうな君の声をこの耳で聞ければ、大人になっていく姿をこの目で見られれば、それでいい。

 ふと壁にいるSoraと目が合った。
 ユイは君のことがとても好きみたいだ。
 でも、これだけは言っとく。
 僕の大切な人を泣かせたら、承知しないからな。

#tiny love

10/28/2025, 1:42:53 PM

「おかえりなさいませ」
 玄関を開けた瞬間、妻と娘、そして母までもが玄関先に正座して並んでいた。
 ——いったい何があった?
 スーツ姿のまま立ち尽くす俺に、妻がにこりと微笑み、手を差し出した。
「外はお寒かったでしょう。上着をお預かりいたします」
 妻が俺の後ろに回り、肩からするりとジャケットを受け取る。

 ――何かのサプライズか?
 不審に思いながら食卓へ抜けると、テーブルには好物がずらりと並んでいた。
 ――誕生日はまだ先だし、特別めでたいことも思いつかない。
 何ひとつピンとくるものもなく、もどかしさだけが募っていく。
 そうこうしている間にも、妻が俺の前に箸を揃え、娘が白飯を持った茶碗を差し出す。
「まぁ、たまにはこういうのも悪くないか……」
 俺はとりあえずこの状況を受け入れることにした。そのうち向こうから何かしらの展開は訪れるだろう。

 食事の間も会話は弾み、食卓は笑顔に溢れていた。
 三人とも、俺の話にも一様に笑って見せ、妻は「あなたったらご冗談もうまいのね」とよそよそしい口調で、時折笑い涙を拭う素振りを見せる。――まるで芝居みたいに。
「なあ、さっきからおかしいぞ。後ろめたいことでもあるのか?」
 俺は思わず妻に問いかけていた。
「まぁ、何をおっしゃるのやら」
 妻の口元の笑みが、張りついたように動かない。
「そんなことないわよね。おばあちゃん」
 娘が母の顔色を窺うように尋ねる。胸の奥に得体の知れないモヤモヤが溜まっていく。

「お風呂も沸いていますよ」
 食事の後、母に促されて風呂場へと向かう。
 脱衣場には入浴剤のいい香りが漂っている。洗濯機の上には新品のタオルが折り目正しく準備され、着替え用のパジャマもまるで新調したように整っていた。
 湯船につかりながら、もしかして昨日までもこうだったのか……などと考えてみる。いや、そんなはずはない。
 
 パジャマに着替えてリビングに戻ると、三人はまた一列に並んでいた。
「お湯加減はいかがでしたか?」
「悪くなかったよ……って、そろそろいいだろ」
 俺の言葉に妻はきょとんとした表情を見せる。
「おっしゃっている意味がよくわかりませんわ……」
「ふざけるな、いい加減にしろ!」
 俺が声を荒げると、妻は一瞬まばたきし、すぐに微笑みに戻った。
「あまり大声で叫ばれますと、周りのご迷惑になりますので――」
 後ろで娘が怯えた表情を見せる。母と目配せをして小さく何かを呟いているのが見えた。

「何をこそこそ話してるんだ!」
 俺がそう叫んだ途端、ぴんと空気が張り詰めた。三人の視線に軽蔑が混じる。
「これ以上騒がれますと警察を呼びますよ」
 真剣な表情で俺を見る妻の後ろで、娘が電話の受話器を手にしていた。
「は? 何を言って——」

 数分後、俺は赤いパトランプに照らされながら、二人の警官に両脇を抱えられていた。
 妻は警官に頭を下げ、娘は後ろで怯えるように母にしがみついていた。
「ご足労をおかけしました」
 妻の声が冷たく響く。

 パトカーの中で俺は何度も叫んだ。
「俺は家族なんだ。信じてくれ!」
 だが警官は全く聞く耳を持たない。
「もう今月に入って四件目ですよ、あんたみたいな人……」
 ——どういう意味だ?

 留置場で迎えた翌朝、まだぼんやりとする頭に警官の声が響く。
「どうです、何か思い出しました?」
 相変わらず警官の言っている意味が分からない。何を思い出すというんだ。
「最近多いんだよね、ガチでハマっちゃう人――」
 そう言って警官はスマホの画面を差し出す。ネットニュースの見出しが目に入る。
『また家族喫茶でカスハラ 本当の家族と勘違いしたか』
 ――家族喫茶……、勘違い、何のことだ?
 昨日の記憶はあるものの、あの三人の顔はまるでのっぺらぼうのようで、どんな顔をしていたか全く思い出せない。
「まったく……。依存性が高いんで、ほどほどにしてくださいよ」
 俺の本当の家族は? 家はどこにある?
 留置場を出た俺は、空っぽの頭の中を探るように、朝の街を途方もなく歩き出していた。

#おもてなし

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