水たまりの中に、赤い何かが沈んでいた。
それは金魚のヒレのように、水の中でぶわっと広がって、水面の奥に沈んでいた。
一人きりで、大きな蝙蝠傘の中で、僕はそれを見た。
雨はぼつぼつと降り続いていた。
コンクリートから湿ったアスファルトの香りが立ち上った。
通りすがりの誰かが水を跳ね上げた。
太い雨が降っていた。
傘の取手を掴む裸の手が、ひんやりと冷たい。
雨の中に佇んでいると、周りの音がやけに大きく聞こえる。
自動車のエンジン音。タイヤの軋む音。
雨粒が地面を叩く音。
誰かの喋り声。足音。
跳ね上げられた水の音。
動かない水たまりの中の赤い塊は、音を立てなかった。
立ち尽くす僕もまた、音を発していない。
無数の雨の音の中で、僕と水たまりに沈んだ…水をたっぷり吸い込んだ手ぶくろは…黙って佇んでいた。
右手の手ぶくろが水たまりに沈んでいる。
誰かが落として、そのまま拾われずに沈んでしまったのだろう。
持ち主に気づかれることもなく。
通行人に気づかれることもなく。
手ぶくろはただ、声を上げることもできないで落ちていて、雨に濡れてずぶ濡れに膨れてしまったのだ。
手ぶくろは泥の混じった水を吸って、醜く膨れていた。
僕は手ぶくろを見つめ続けた。
なんだか、僕みたいに思えたから。
結婚まで考えていた恋人に、捨てられた僕。
就活を始めたけど、箸にも棒にもかからない僕。
単位を落としすぎて、友達にも先生にも見捨てられた僕。
水たまりの底に、手ぶくろが沈んでいた。
片手分の手ぶくろが。
雨が降り続いている。
雨雲は、雨を地面に叩きつける。
アスファルトに。水たまりに。地面に落ちているゴミに。水たまりの中の手ぶくろに。
水を吸った手ぶくろのは、ぶくぶくにほつれ、醜く、汚く膨れていた。
ミルクがモヤのように広がっていく。
お茶の中に落としたミルクは、ゆっくりと、でも確実に、お茶と混じり合ってミルクティーになっていく。
エントロピー増大の法則だ。
放っておけば、全ては混沌に変わっていく。
ぐちゃぐちゃの、複雑で、境界の曖昧なものに変わっていく。
暖かさと冷たさは混じり合い、ミルクと紅茶はミルクティーになり、ケーキは私の体内に溶け込む。
変わらないものはない。
みんな無秩序に変わっていく。
糸が切れてバラバラになった本が、手元に落ちている。
足元に散らばった紙切れやペットボトルが、部屋の景色に同化している。
すっかり混ざりきって、ぬるくなって甘くなったミルクティーを口に含む。
紅茶の香りが立って、まろやかでほのかな甘さが、口の中をゆるゆると下っていく。
お気に入りの本だった。
バラバラに崩れてしまったこの本は。
しかし、この世界は、エントロピーが増大する法則に則って動いていて、変わらないものはない。
だから仕方がないのだ。
そう言い聞かせながら、ミルクティーを啜る。
小さい頃に初めて買ってもらった本だった。
うちの親は、あまり子どもが好きではなかったから、何か嗜好品を買ってもらうなんて、なかなかないことだった。
おまけにやっと買ってもらったこの本も、当時から私の好みではなかったし、なんなら子ども向けでもない。
それでも、この本を買ってもらった時は嬉しかったのだ。
嬉しくて、この年まで大切な宝物だった。
しかし、それも今壊れてしまった。
本のページと書類とチラシが混じり合って、混沌を作り出している。
変わらないものはない。
私はミルクティーを啜る。
ケーキをフォークで崩して、咀嚼する。
この部屋のエントロピーは増大し続けている。
変わらないものはない。
変わらないものはないのだ。
私は私に言い聞かせる。
親が離婚したあの夜のように。
ケーキをゆっくりと味わう。
窓には結露が流れていた。
受胎告知も復活祭も、春のことだ。
バターをパンに塗りたくりながら、ふとそう気付いた。
安息日のクリスマスイブの夜が明けて、ミサもひと段落したクリスマスの朝は、ゆっくりと朝食を摂るに限る。
温かな野菜スープを啜りながら、十字架を見上げる。
薄い窓からは、朝の光が斜めに入り込んでいる。
クリスマスは主の誕生日だ。そして、同時に一年の終わりでもある。
甘い玉ねぎを噛み締めながら、ポストからとってきた色とりどりのクリスマスカードに目を通す。
どれも拙いながら、丁寧に書き込まれた可愛らしい手書きの文字が並んでいる。
「メリークリスマス!」
「ハッピーニューイヤー!」
「merry Christmas」
「happy new year」
何度も現れるそんな文字を見ながら、パンを齧る。
パン屑がパラパラと、足元に落ちる。
この地で教会を構えて、今年でもう3年になる。
同時に始めた英語教室も、近くの孤児院での慈善事業も順調で、子どもたちからこの時期にクリスマスカードが届くのも、年末恒例になりつつある。
スープを啜り、ニンジンを齧る。
熱い湯気がほうっと立ち上がる。
パンに塗られたバターが、透明の道を作りながらゆっくりと流れている。
3年前のクリスマスの過ごし方とは全然違う、穏やかで平和なクリスマス。
そうあれることが心から嬉しかった。
主よ、ありがとうございます。
そんな感謝の言葉を心の奥で呟いて、食事を続ける。
朝日は暖かく、食事も温かい。
穏やかな、クリスマス。
…出し抜けに騒々しいノックの音が聞こえた。
重厚な教会の扉を思い切り、しかし力量の足りていない何かが頻りに叩く、鈍い音が聞こえた。
ビクッと立ち上がってしまって、しばらく身を硬くする。
しかしノックは鳴り止まない。
少しずつ力弱く、しかし断固として鳴り止まない。
…恐る恐る扉に近づく。
ドアの向こうから、冷たい朝の空気が漏れている。
……意を決して、戸を開けた。
雪の中に、小さな子供がへたり込んでいた。
もこもことした防寒具を雪と…赤い液体でぺとぺとに濡らした、小さな子供が。
幼く丸い目がこちらを見上げた。
平和なクリスマスを過ごすはずだった。
ああ、主よ。平和なクリスマスは、理想のクリスマス過ごし方ではないと仰るのですか。
確かに遥か2024年前、主の生まれたクリスマスは決して平和なものではありませんでした。しかし…
暖かい日の影になる軒先には、冷たい空気が渦巻いていた。
子供は丸々とした無邪気な瞳で、こちらを見上げている。
雪が朝日の中をちらちらと降っていた。
前日の夜に熟睡できたためしがない。
遠足の前の日。受験の前の日。修学旅行の前の日…。
僕は、イブの夜にしっかり眠れたためしがないのだ。
そうして、今年のクリスマス・イブの夜も眠れないでいる。
すでに時刻は23:00。
サンタさんはもう仕事を始めているだろう。
布団の中で寝返りを打つ。
クリスマスの予定は特にない。
ツリーもリースもない無機質な一人暮らしの部屋で、それでも僕は、イブの夜に眠れない。
変な癖だが、なぜこうなったのか理由は分かってる。
僕のキンちゃんが死んだのが、僕の誕生日のイブの日だったからだ。
夏祭りで掬って、一年半も長生きした金魚のキンちゃんが浮いていたのは、僕が誕生日に満面の笑みで起きて来たあの日だった。
僕は泣かなかったし、嘆かなかった。
だって、もうキンちゃんの世話はもっぱら母さんの仕事になっていたから。
でも、僕はその日から、何かの日の前日は、一睡もできなくなった。
だから、その年から僕の枕元にプレゼントが置かれることはなくなり、代わりに同級生の誰よりも早く、サンタの正体を知ることになった。
そして、僕は今日もイブの夜を越す。
布団の中で、目を開いたまま、一人で。
今年のクリスマス・イブの夜も明けていく。
今年も黒い夜空に、月が光っていた。
リボンと包装紙を220円で買う。
最近のラッピングは有料だから。
ビニール袋と同じように聞かれるものだから、つい断ってしまったのだ。
プレゼントに、ラッピングは欠かせない。
ただの市販のお菓子も、パッケージが煩雑なおもちゃも、包めばプレゼントらしくなる。
況んや、雰囲気充分のプレゼントなら、だ。
ケースまでついた万年筆。
父親の還暦祝いに奮発して買ったプレゼントだった。
でも渡せなかった。
還暦を迎える前に、父親は亡くなってしまった。
一瞬のことだった。
居眠り運転の車が突っ込んできて、父は亡くなった。
父親の還暦は、年明けに迫っていた。
お葬式は、クリスマスになった。
年末の休業日が迫る中、落ち着いて父の死を悼める日どりはそこしかなかったのだ。
だから、私は今年、初めて父の枕元に、クリスマスプレゼントを置くことにした。
私が幼い時に、父がしたように。
父が寝ているのは、布団ではなく棺だけれど。
父はもう起きることはないけれど。
しかし、私はラッピングを忘れていたのだ。
還暦祝いなら、プレゼントの渋い中身むき身のこのままで、充分だったろう。
クリスマスプレゼントなら話は別だ。
最初で最後の、死出の旅のお供になるプレゼント。
妥協はしたくなかった。
…しかし、小心者の私は、喪服でクリスマス一色の雑貨屋や専門店に入って行くことができず、近場の100均で、こそこそ包装を買うのだ。
父が生きていたら、きっと呆れて、笑われただろう。
プレゼントには包装は欠かせない。
私は220円を払って、包装紙を買う。リボンを買う。
陽気なクリスマスキャロルが、店内に流れていた。