「勿忘草」
お見舞いの花といえばカスミソウだ。
小さくて可愛らしくて少し呼吸するだけで揺れるような花だ。
入院していた時はちょうど冬だった。その花が雪のように見えたのを覚えている。
「早く元気になってね」
優しい言葉がどこかよそよそしい。彼女の両親が離婚しても私がいじめられていた時も私と彼女は互いに互いを煽りあうほど信頼していたはずだ。
どうしてこんなに他人よりも遠い距離になってしまったのだろう。
ひさしぶりに会ったから?
自分の話をしなくなったから?
これまでどんな話をしていたっけ?
「じゃあ…」
顔を背けて病室を出ていく。
もうこのまま会わなくなるだろう。
長年の友人との最後がこんな気まずいものだなんて。
ただ彼女には私を覚えていて欲しいと思った。
距離が遠くなっても誰よりもそばにいた記憶は本物だ。
「ねえ、待って」
弱々しい声が呼び止める。
私忘れないよ。守ってあげられなくてごめんね。
カスミソウが揺れる中、忍ばせた勿忘草だけが凛としていた。
「ブランコ」
そっと目が合う。
一秒にも一瞬にも満たないその間に濃密な色が見えた。胸をくすぐる羽根のような高鳴りを鎮めて会議に集中しようとするが、乙女心はすでに溶け出している。
結局ほとんど話を聞かないまま、会議が終わり彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて部屋を出て行った。
ああ、絶対後でからかわれる。でもその時間を待ち遠しく思う自分を無理に否定することもなくなった。
彼と出会ってから世界が美しく思えた。
薔薇色と表現するのはありきたりだけれど、色褪せていた世界が急に鮮やかになってハッと目が覚めた気がした。
彼は私よりも少し年下だ。けれど若くまっすぐな姿勢は私がまだ女性であることを思い出させるには十分だった。
これまで欲しいものはすべて手に入れてきた。退屈なことは決してないようにしてくれる。それらを手に入れられるだけの価値が私にはあるのだ。
書類をまとめて部屋を出ていこうとして、勢い余りドアノブに指が当たった。廊下に響き渡るような金属音。
左手薬指の時代遅れのシルバーリングが少し震えていた。
「旅路の果てに」
ようやく一軒の小屋が見えてきた。
久しぶりの人の気配に涙が一筋垂れてしまうほどの感動が胸に迫った。
一人でやっていけるさ、と啖呵を切ってほぼ家出同然で村を飛び出し数年。
何度あの時の自分の顔を形が変わるまで引っ叩きたいと思ったことか。それほどまでに旅は過酷だった。
そもそも村を飛び出したのはお節介な村人や娯楽も刺激もない平凡な村に飽き飽きしたからだ。
異国の都市に行って、一発当てて楽しい人生にしてやるぞ、おれはこんなところにとどまってはいけない人間だと本気で信じていた。
しかしぬくぬくと大切に育てられた温室育ちに旅は向いていなかった。
村の畑では見たことがない食材、常識が一切通じないどころか理不尽な盗賊たち、見たことないけれど本能的に近づいてはいけないと分かる動物たち。
これなら父親に怒鳴られながら畑仕事する方がマシだったし、母親の甘ったるい料理を食べ続ける方が良かった。
何も起こらないのもまた苦痛だった。
自分一人だけを残して人間は絶滅してしまったんじゃないかと思うような日々が続いた時もある。独り言が増えて本当に気が狂ってしまうのではないかと思った。村の爺さんの長い話が恋しいと思ったのはそれが初めてだった。
旅の思い出に浸りながらドアをノックした。
「ただいまー!」
甘い香りが勢いよく出迎えてくれた。
「あなたに届けたい」
海のさざめきに乗じて歌を歌っていた。
「歌なんて何の役にも立たない」
窮屈でもどかしくて、心配するふりをして誰も私のことを考えていないこの場所から逃げ出したかったのだ。
「お前を心配してるんだよ」
小さな歌声を消して海は私を遠い街に誘う。
「現実見なさい」
いつかこの場所を出て行ってやるって海に誓って制服のスカーフを海にぶん投げた。
「どうせ成功しないよ」
スカーフはひらひらと頼りなく落ちて波の間に消えた。
「まあ無理だろうけど」
それはまるで今私の目の前を舞っている紙吹雪みたいだった。
「なんでこれまで何もしてこなかったの?」
ああ、海は海でも光の海って本当に存在したんだ。
「今さら遅いんじゃない?」
こんなにあたたかい海があったのか。
「実績つんでから出直してきな」
最前列で涙が見える。
「君才能ないよ」
私は声を張り上げた。
「やってやろうじゃないの!」
「街へ」
空港だけでその街を判断しない方がいい。
これは長年の旅の経験から分かったことだ。
人が多くたくさんの土産屋があり、どこまでも広い空港でも街の方へ行くと思ったよりこじんまりしていたり、逆に人が少なくコンパクトな空港であっても街へ行ってみると賑やかで栄えていたりする。
空港はその街の玄関ではあるが、決して街を代表しているわけではない。
冷静に考えてみれば当然である。
飛行機を飛ばすための敷地と轟音が許されるためには街から少し離れた、言うなれば住民の意識外にあるところに建設される。
それは街から離れた辺鄙でなんにもないところだ。だから空港で街を判断するのは早計なのだ。
バスでも電車でもタクシーでもなんでもいいが、私はこの空港から街へ行く道中が好きだ。
まるで主人公が家族も故郷も、なんなら地球まるまる失ってしまった悲しいバッドエンドのSF映画に出てくるような風景から活気のある看板とネオンが見えた時の高まりは言葉では言い表せない。
その街での体験を想像して期待や希望が津波のように押し寄せる。この感覚は初めての遠足の前日の夜にも匹敵する。