〈梨〉
祖母が亡くなって、もう半年が経つ。
今年も梨の季節がやってきたけれど、あの段ボール箱はもう届かない。
子どものころから、秋になると祖母の家から梨が送られてきた。
昔は梨畑も大きく、手広く作っていたらしいが、祖父の代からは自分たちで食べる分しか作らなくなったとか。
新聞紙に丁寧にくるまれた果実は、どれも丸々としていて、皮をむくと甘い香りがふわりと広がった。私はそれを冷蔵庫で冷やして、学校から帰ってきたあとに食べるのが楽しみだった。
ある年、祖母の家に遊びに行ったとき、私が「冷たいのがいい」と梨を冷蔵庫に入れようとしたら、祖母が笑いながら言った。
「冷やしすぎっと味うすぐなっから、いけねぇんだよ。冷やすんなら、食う前ちょっとでいっちゃねぇのぉ」
そのときは「ふうん?」と生返事をしただけだったけれど、祖母が手渡してくれた常温の梨は不思議なくらい甘くて、舌の上で光るような味がした。
「うめぇが?
まだあっから、もっと食(く)いなさいのぉ」
嬉しそうな表情で、またいくつも梨を剥いてくれたのだった。
けれど大学に進学してからは、そんなことも忘れていた。スーパーの果物売り場で梨を見かけても、「ああ、もうそんな季節か」と思うだけで、特別な感情は湧かなかった。
祖母の葬儀の日、母がぽつりと言った。
「今年はもう、あの梨が食べられないのね」
その声が、妙に寂しそうだった。
夏の終わり。スーパーで売ってる味気ない梨ではやはり満足できなかったのか、母が「取り寄せを頼んでみたの」と言った。
母の一番上の兄──叔父に連絡して、同じ品種の梨を送ってもらうことにしたらしい。
届いた箱を開けると、見覚えのある手書きの産地名が、少しだけ胸を締めつけた。
母が包丁を入れる。白い果肉が露わになり、みずみずしい香りが台所に広がった。皿に盛られた一切れを口に運ぶ。
しゃく、と歯を立てると、懐かしい音がした。
みずみずしさはそのままなのに、どこか違う。甘さの奥に、微かな渋みのようなものがあった。
けれど、その不完全さが、かえって祖母の作っていた梨を思い出させた。
「おばあちゃんの梨とは、やっぱり違うわね」
母がそう言って微笑む。
「でも、少し似てる気がする」
私がそう答えると、母は静かにうなずいた。
祖母の手はいつも少し荒れていて、爪の間に土が残っていた。畑で採れた梨を新聞紙で包みながら、「今年の梨な、いぐできだんだよ〜」と笑っていた顔。
私はその笑顔を、もう何年もちゃんと思い出していなかったことに気づいた。
しゃく、と梨をもう一度かじる。
果汁が喉を伝う。その甘さが、なぜだか涙と混じった。
祖母のいない秋は、少しだけ違う匂いがする。
それでも、この季節に梨を食べるたび、私はきっと思い出すのだろう。
祖母の優しい声と、「うめぇが? 」と笑う顔を。
〈LaLaLa GoodBye〉
人生の節目の数だけBGMがある、なんて馬鹿馬鹿しいと思っていた。
けれど今、営業車の中で流れるこの曲を聴くと、そんな言葉はすっかり撤回したくなる。
ラジオから懐かしいイントロが流れた瞬間、ハンドルを握る手が少し震えた。
高校の頃、毎日のように耳にしていたあのメロディ。
軽快なリズムに乗せて、「LaLaLa GoodBye」と歌う声が、十代の夏の空気をそのまま連れてくる。
当時、クラスメイトの中村がギターでこの曲を練習していた。
昼休みの音楽室で、彼のそばにはいつも一人の女子がいた。長い髪を後ろでひとつに束ねた、笑うと頬に小さなえくぼができる人。
俺は、ただ遠くから見ていただけだった。話しかける勇気もなく、放課後、彼女が中村と並んで歩くのを見送るのが日課だった。
あの頃の自分にとって、恋というのは手を伸ばすことすらできない光のようなものだった。
社会人になり、結婚し、子どもも生まれて、気づけば四十を過ぎていた。平凡だけど、悪くない人生。
昔のことなんて、もう埃をかぶった写真のように遠いと思っていたのに。この曲を聴いた途端、胸の奥がじわりと疼く。
あのときの空気、匂い、夕焼けの色まで、すべてが一斉に戻ってくる。
「LaLaLa GoodBye」──別れの歌なのに、不思議と明るい。
それが流行った年の文化祭で、彼女がステージの袖から中村のギターを見つめていた姿を、俺は今でも覚えている。拍手の波の中で、彼女が小さく口ずさんでいた。
その唇の動きまで、鮮明に。
信号が赤に変わり、車を止める。窓の外には、もうすっかり秋の気配が漂っていた。
あの頃の俺は、恋も夢も、何かを始めることに臆病だった。
「今なら、少しは違っただろうか」
独り言のように呟いてみる。答えは風の音に溶けていった。
ラジオのDJが、軽い口調で「懐かしいですねぇ」と言う。
苦笑する。懐かしい、なんて言葉じゃ追いつかない。胸の奥に小さな痛みが残る。
青春とは、そういう欠片を心に埋め込んでいく時間だったのかもしれない。
人生の節目ごとに、確かにBGMはある。
メロディーを耳にするたび、記憶の引き出しから苦くても甘い想いがあふれ出る。
苦笑いできる思い出も悪くはないな。
青に変わった信号を見、俺はアクセルを踏み込んだ。
〈どこまでも〉
窓ガラスに映る自分の顔を見て、私はため息をついた。
四十七歳。いつの間にか深く刻まれた眉間の皺が、毎日の疲れを物語っている。
「お母さん、醤油取って」
娘の声に反応して立ち上がる。結婚して二十年。夫と二人の子どものために生きてきた。
専業主婦として、母として、妻として──それが当たり前だと思っていた。
でも、ふと気づく。私は今、何者なのだろう。
大学時代、私は演劇サークルに所属していた。
何者にもなれる演劇が、舞台に立つことが何より好きだった。稽古で徹夜しても、どこまでも走り続けられる気がした。
演じることが楽しくてしょうがない頃、友人の佐知枝が言った言葉を今でも覚えている。
「真紀ちゃんには才能がある。
どこまでも行けるよ」
どこまでも──
あの頃は本当にそう信じていた。限界なんて考えたこともなかった。
でも、次第に現実を突きつけられることになる。オーディションに落ち続け、舞台に立てたのは佐知枝だった。
彼女の演技を観客席から見た時、私は理解した。才能の差を。
佐知枝は舞台で輝いていた。私には決して届かない場所で。
「私、劇団を立ち上げる。
真紀ちゃんも一緒にやろうよ」
佐知枝は優しく誘ってくれた。でも、その優しさが余計に辛かった。
卒業後、私は就職した。そして二年後、職場で出会った夫と結婚した。
彼は私の過去を知らない。知らせる必要もなかった。演劇なんて若気の至りだったのだと、自分に言い聞かせた。
あの輝いた時は、もう遠い夢だった。
スマートフォンが鳴った。大学時代の演劇サークルのグループチャットから、同窓会の案内が届いた。二十五年ぶりの集まりだ。
私は迷ったが、夫に相談すると「たまにはいいんじゃない」と言ってくれた。
居酒屋の個室に、懐かしい顔ぶれがそろった。佐知枝は今も舞台女優として活動していた。他の友人たちも、それぞれの道を歩んでいる。
「真紀ちゃんは?」と聞かれて、私は言葉に詰まった。
「……専業主婦、です」
一瞬、静かになる。あの頃のこと、皆わかってるからこその沈黙だ。
佐知枝が静かに口を開いた。
「あの時、ごめんね。
私、真紀ちゃんから何か奪ってしまった気がして、ずっと気になってたんだ」
私は首を振る。
「違うよ。
佐知枝は正当に才能を評価されただけ。私が勝手に逃げたの」
「でもね」
佐知枝は真っ直ぐ私を見た。
「私はあの頃が一番楽しかった……
あなたと一緒に演じていられた、あの空間が好きだったのよ」
その言葉に、私の胸が熱くなった。
帰り道、佐知枝が「うちの劇団、大人の演劇教室やってるんだ。来ない?」と誘ってくれた。
「演劇って、才能だけじゃない。
人生経験、感情の深み、それも全部、演技の深みになる。
真紀ちゃんは今、あの頃より絶対にいい演技ができるよ」
家に帰り、鏡の前に立った。また、あの眉間の皺が見える。
でも今日は違って見えた。この皺は、生きてきた証だ。
翌朝、私は家族に告げた。「週に一度、演劇教室に通いたい」と。
娘が驚いた顔をしたが、次の瞬間、にっこり笑った。「いいじゃん、お母さん。やりたいことやりなよ」
初めて演劇教室に向かう電車の中で、私は窓の外を見つめた。
四十七歳。遅すぎるだろうか。
いや、人生に限界なんてない。
あの頃のように、どこまでも行ける。今度は、積み重ねてきた時間とともに。
「どこまでも」
小さく呟いた言葉が、胸の奥で静かに響いた。
〈未知の交差点〉
窓の外では、落ち葉が風に舞っている。十一月も終わりに近づき、日暮れがいっそう早くなった。
放課後の教室で、僕はひとり文芸部の機関誌に載せる短編を書こうと、ノートに向かっていた。
「よう、いたいた」
突然の声に顔を上げると、クラスで一番目立つ存在の進藤が立っていた。
バスケ部のエース。いつも友人たちに囲まれて笑っている、僕とは正反対の世界にいる人だ。
「え、僕……?」
「佐伯、進路希望出した?」
あまりに唐突な質問に、思わず言葉を詰まらせた。
進藤とまともに話したのは、四月の自己紹介以来かもしれない。
「まだ……決めかねてる」
「だよな。俺も」
意外な言葉だった。
進藤はスポーツ推薦で私立に進むものだと、当然のように思っていた。
「実は相談があってさ」
彼は隣の席に腰を下ろした。
「おまえ、小説とか書いてるだろ?
文章、うまいよな」
「そんな、大したことないよ」
「嘘つけ。国語の授業で先生に褒められてたじゃん」
進藤は少し真剣な顔をした。
「俺さ、こう見えても文章書くのがけっこう好きなんだよ。部活のブログも担当してるし。
でも、そういうのを目指すって言ったら、周りにどう思われるかって考えると……」
窓の外では、また落ち葉が風に吹かれていた。
教室の灯りが、かすかに揺らめいて見える。
「僕も同じだよ」
気づけば、そう答えていた。
「文章書くのは好きだけど、それで食べていけるのかって考えると怖くて。親も心配するし」
進藤が、苦笑まじりにうなずいた。
「おまえもか。
俺は親とか先輩に、バスケで大学行けって言われてる。
でも、本当にそれでいいのかって思うと、迷うんだよな」
二人のあいだに、初めて何かが通い合った気がした。
「なあ、おまえさ」
進藤が真剣な眼差しを向けた。
「文章書くとき、怖くない?
誰かに読まれるかもって思うと、自分の中身を全部さらけ出してる気がしてさ」
「怖いよ。いつも」
僕は正直に言った。
「でも、書き終えたときの満足感とか、誰かに伝わったときの嬉しさとか……
それがあるから、やめられないんだ」
「そうなんだよ!」
進藤が身を乗り出す。
「俺もバスケのブログ書いてて、試合のこととか気持ちとか書くんだけど、恥ずかしいし怖いんだよな。
でも、書くのって本当に楽しいんだ」
「うん、わかる」
「それでも、書くんだよな」
「うん」
「俺もそうなんだ」
彼は窓の外を見つめた。
「好きで、怖くて、でも書きたい。
だったら、それが答えなんじゃないかって思う」
落ち葉は、まだ舞い続けていた。進路希望の提出期限まで、あと一週間。
「進藤」
僕は初めて、彼の名前を呼んだ。
「一緒に、担任に相談してみない? 文系希望で」
その瞬間、彼の顔に、見たことのない笑みが浮かんだ。
「マジで? じゃあ、今から行くか!」
教室を出ると、廊下は夕暮れの薄闇に包まれていた。窓の向こうに広がる空は、灰色と紫が溶け合っている。
職員室へ向かう廊下は長く、先が霞んで見えた。未来もきっと、こんなふうに見えないのだろう。
けれど今、僕らは同じ方を向いている。
それぞれ違う場所から来た二人が、偶然出会った晩秋の交差点から。
誰かと一緒なら、暗い道でも歩いていける気がした。
〈一輪のコスモス〉
朝の職員室は、いつもより少しざわついていた。窓の外では、雨上がりの風が校庭の土を乾かしている。
机の上の書類の山を前に、私はため息をひとつ落とした。
中間テストの採点、進路相談、部活のトラブル。どれも私を待ってくれない。
四十を過ぎてから、日々の疲れが抜けにくくなった。誰かに愚痴をこぼすこともないまま、気づけば週末が終わっている。
教室では、思春期特有のまっすぐさと不器用さがぶつかり合い、毎日が小さな戦場のよう。
叱るたびに、生徒たちの瞳が曇る。そのたび、私の心も少しずつすり減っていった。
その日も放課後まで授業と面談が続き、ようやく席に戻ったとき、机の上に小さな花瓶が置かれているのに気づいた。
中には、淡い桃色のコスモスが一輪。まだ咲きたてのように瑞々しく、細い茎が頼りなげに伸びていた。
誰が置いたのか、見当もつかない。隣の席の同僚に聞いても首をかしげるばかりだった。
私はしばらくその花を見つめた。
窓からの秋風がそっと吹き込み、カーテンを揺らす。その風に合わせるように、コスモスがかすかに身を傾けた。夕暮れの光が花びらを透かし、どんな色よりも優しい色をしていた。
ふと、あの生徒の顔が浮かぶ。
授業中にどこか遠くを見つめるような瞳をしていた子。時折心ここにあらずという表情でいる。
そういえば昨日、放課後に校庭の花壇で花殻を摘んでいたっけ。
「コスモスって、風に弱いけど、折れにくいんです。
根がしっかりしてるから。」
その時のあの子の言葉が、静かに胸の奥で繰り返される。
──もしかして。
胸の奥が、ふっと温かくなった。
私は花瓶をそっと手に取り、水の冷たさを確かめる。今日一日、言葉にできなかったいくつもの思いが、少しずつ溶けていくようだ。
教室で荒れた空気を鎮めようとする自分の声。生徒たちの反抗、無言の距離。それらが一瞬、遠のいた気がした。
窓の外を見やると、空はすっかり茜に染まっていた。
差し込む光が机の上のコスモスを照らし、花びらの端を金色に染めている。
「ありがとう」
思わず、小さく声に出していた。
翌朝、机の上のコスモスはまだ凛としていた。
花びらの間に朝の光が宿り、どこか誇らしげに見える。
──風に揺れても、根は折れない。
あの言葉に勇気づけられながら、教室に向かう。
「おはようございます!」
あの生徒が声をかけてくる。『あの花に気づいてくれた?』と言わんばかりにニコニコしながら。
「コスモス、ありがとうね。
今朝もちゃんと咲いてたわよ」
「よかったぁ、あの一輪だけ倒れちゃってて。
うまく水揚げできてなかったらどうしようかと思ってた」
──「乙女の真心」
彼女のほっとした顔を見ながら、私はコスモスの花言葉を思い出していた。