汀月透子

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11/9/2025, 3:29:58 AM

〈透明な羽根〉

 舞台袖から見る体育館は、十二年前と何も変わっていない。照明の配置も、床の傷も、空気の匂いさえも。
 違うのは、舞台に立っているのが私ではないということだけ。

 リハーサルの重低音が響く中、私は生徒たちの動きを目で追った。三年生たちがターンを決め、羽根飾りが光を受けて揺れる。

……美しい。

 心からそう思う。彼女たちの背中に、美しく透き通る羽根が見える。

──

 私がコーチとして母校に戻ってきたのは、もう十年以上前のことだ。

 大学でもダンスを続けていた私は、交通事故で左足に大怪我を負った。手術は成功したと医師は言ったが、以前のように踊ることはできなくなった。
 リハビリを続けても、体は思うように動かない。ステップを踏もうとすると、足が言うことを聞かず、バランスを崩す。何度転んだか分からない。

──もう踊れない。
 その事実を受け入れるまで、二年かかった。

 そんな時、高校時代の顧問だった近藤佳子先生から電話があった。

「杏子さん、週一でダンス部の指導をしてくれない?」
 私は笑ってしまった。
「踊れない私がですか」
 嘘でも謙遜でもない、本心だった。
 踊れない私は、ダンスと呼べる世界から追いやられたと思っていた。
 断ろうとする私の言葉を先生は遮った。

「あなたがつかんだあの熱意を、後輩たちに伝えてほしいの。
 技術じゃない。あなたたちが舞台で見せてくれた、あの想いを」
「みんな、背中に羽根を持っている。
 羽ばたかせて飛ぶ日を待っているのよ。
 飛び立つのを助けてほしい。」

 その一言が、胸のどこかで、消えかけていた焔の芯に火を点けた。
 私がつかんだ熱は、まだ役割を失ったわけじゃない──

 十年間、あの言葉で私はここに立ち続けてきた。
 最初のころは地獄だった。皆のようには踊れないけれど、それでも伝えようと必死だった。言葉を尽くし、動画を使い、時には手を取って体の向きを教えた。

「あの先生、ちゃんと踊れないのに何で指導してるの?」

 部室から聞こえてきた一年生の声を、今でも忘れられない。
 それでも続けてこられたのは、近藤先生の言葉と配慮があったからだ。

 私の他に数人、先生に声をかけられコーチに来てくれるOGがいてくれたおかげで技術指導は問題なく進められた。
 過去の大会の映像が残されていたことも大きかった。全国大会のみならず県大会の予選の映像も、部員の保護者からダビングさせてもらうなどライブラリーは充実している。
 その中で踊る過去の私の姿は、彼女たちの目にどう映っているのだろう。

 世代は変わる。価値観も方法も変わる。
 SNSで他校のパフォーマンスを見て落ち込む子、完璧を求めすぎて潰れそうになる子。私たちの頃とは違う悩みを抱えている。
 でも、目指す“高揚”の場所は変わらない。

 音と光と汗がかけ算になる一瞬。
 その瞬間を掴もうと、本気の身体で突っ込んでいくあの目。
 舞台で輝きたい。誰かの心に残る踊りがしたい。
 その想いは、十二年前の私と何も変わらない。

──

 文化祭前日。
 舞台袖で、私と先生はいつもの位置取りで立ってゲネプロの様子を見守る。
 体育館に、ゲネの低音が響く。

「今年もあっという間だったね」
 先生は舞台を見ながら言った。
 私が生徒だった頃よりもちょっと老けたけれど、ダンスを見る目の輝きは変わらない。

「はい。今年の三年生は、本当によく頑張りました」
「あなたもね、杏子さん」

 先生は私の方を向いた。

「あなたが教えてくれたこと、ちゃんと生徒たちに届いてるよ」

 三年生のダンスのリハーサルが始まる。
「……この子たち、本当にあの“ラストダンス”を楽しみにして三年間ついてきてくれた」

 そう、ここには“伝統”がある。
 この学校のダンス部は、文化祭ステージのラスト一曲──大きな羽根をつけたハットを投げ上げるフィニッシュ──それに向けて三年間、歯を食いしばって練習する部だ。
 ここだけは十年経っても変わらない。

 そして私も、その“ラストダンス”に一目惚れして入部したひとりだ。
 中三の秋、文化祭のステージを見に来た時、羽根がライトに揺れた瞬間、胸を撃ち抜かれた。
“あの中に入りたい”
 たった一回の光景で人生を曲げるほどの出来事が、本当にあるのだ。

 だから、先生の「背中に羽根を持っている」という言葉は、私にとって単なる比喩ではない。
 あの羽根は本当に“本物の羽根”だったのだ。
 目には見えなくても。

──

 当日。

 客席が埋まり、照明が落ちる。私は舞台袖で、緊張した面持ちの生徒たちを見送った。

「いってらっしゃい」

 そう声をかけると、三年生リーダーの明日見ひなたが振り返って笑った。

「いってきます、先生」

 音楽が始まる。
 ドン、と重低音が響いた瞬間、生徒たちの体が動き出す。

 私は息を呑んだ。
 美しい。完璧だ。

 練習で何度も見てきた振り付けなのに、今日の彼女たちは違って見えた。
 羽根飾りが光を受けて揺れるたび、まるで本当に空を飛んでいるようだった。

 気づけば、私の体も音楽に合わせて揺れている。
 体の中でリズムを刻む。心臓の鼓動がビートと重なり、汗が首筋を伝う。

 私は踊っていた。
 舞台の上ではなく、舞台袖で。体は動かなくても、確かに、生徒たちと一緒に踊っていた。

 曲が終盤に差しかかる。
 ラストのフォーメーション。全員が視線を合わせる。

 ──せーの。

 一斉にハットが宙を舞った。
 その瞬間、私の目から涙が溢れた。

 美しい。
 なんて美しいんだろう。

 観客席から歓声と拍手が湧き起こる。
 私は手で口を押さえ、嗚咽をこらえた。

 三年生たちが舞台袖に戻り、泣きながら抱き合っている。

「杏子先生! 見てましたか!」

 皆が駆け寄ってきた。

「見てた。最高だったよ」

 私は涙を拭いながら、一人一人を抱きしめた。
 少し離れたところで、近藤先生も目を潤ませながら、生徒たちを見守っている。
 あのときと同じ──十二年前と変わらぬ光景だった。
 
──

 文化祭のプログラムはすべて終わり、三年生から二年生への引き継ぎが行われた。
 その後はお菓子とジュースで、打ち上げパーティーが始まる。十代特有の笑い声に満ちたホールは、なんともにぎやかだ。
 若いコーチたちも、部員の輪に入って笑っている。

 私はいささか少し疲れて、すでに腰を下ろしている近藤先生の横に座った。
「どうした、お疲れ?」
「いやー若いもんの体力にはついていけないです」
「何言ってんの」

 しばらく無言のまま、二人で会場の喧騒を眺めていた。

「……私、また踊りたいです」
「うん」
「もちろん、以前のようには踊れないけど……コンテンポラリーダンスを勉強したい。
 体の動く範囲で、表現する方法を探してみたいんです」
「うん」
 先生は静かに微笑んで、頷いた。
 それだけで、十分だった。

 透明な羽根は、まだ揺れている。この胸の中で、確かに。
 私の羽根は、もう前ほどは飛べないかもしれない。けれど、羽ばたく方法は一つじゃない。
 生徒たちに伝えることも、新しい表現を探すことも、きっと飛び立つための一歩なのだ。

──────

以前書いた「揺れる羽根」のサイドストーリーです。サイドの方が文字数多いやーん(

近藤佳子(過去)
今岡杏(今日)子
明日見ひなた

登場人物のネーミングで笑っていただければ幸いです。

11/8/2025, 3:39:09 AM

〈灯火を囲んで〉

 あの中庭に足を向けるのは、本当に久しぶりだった。

 文化祭の夜。
 後夜祭のステージが終わって、校内の空気は一気に“片付けモード”へとなだれ込みつつある。
 私たち三年生は、このお祭りが済んだら一気に受験モードに切り替わる。いや、ホントなら夏休み前から入らないといけないんだろうけど、文化部だから。
 黒板の端には進学指導の予定表、廊下には願書案内。
 今日の夜は、“最後の夜”みたいな匂いがした。

 生徒はほとんど校庭に出ているので、校舎の中は暗い。中庭へ入る。
 コンクリートに残る昼の熱。植え込みの中、鉄柵の向こうで鳴る虫の声だけが、現実の時間をこっそり刻んでいる。

 写真部の部活として、夏休みに撮りためた写真のパネル展示を行った他に、美術部とのコラボで中庭でオブジェを展示した。
 その流れで、紙コップランプでモチーフを作った。点灯の様子を写真を撮って、三年生の部活は終わりになる。

 中庭のコンクリートに、ランプが河のように並べられていた。三十個近くある。部活を引き継いだ二年生が作ってくれたものだ。
 紙コップの側面は、それぞれが星、斜線、涙型、ハートなどの図形がランダムに切り抜かれている。
 そこから滲む橙色は、焚き火に近い温度を持っていた。

 私はひとつ、まだLEDが点灯していない紙コップを拾い上げる。
 底のスイッチを押すと、ふ、と光が宿る。
 ちいさな光のくせに、光っただけで孤独側から“少しだけ温度のある側”へ移動できる気がした。

「……奈保、来たんだ」
 背中から声。振り向くと、郁恵がいた。

 私と、郁恵と、徹。三人でよく撮影に行ってた。
 でもいつの間にか、考え方の角度が少しずつズレていって、三角形にならなくなった。
 角同士が向き合う位置が変わって、線がまっすぐ届かなくなった。
 進学、写真への向き合い方、考え方……誰が悪いとかじゃなかった。ただ、未来に向けての地図を描くペン先が、3つとも、それぞれ違う方向へ向いた。

「校庭、ちょっとうるさすぎて」

 私がそう言うと、郁恵は、うん、と小さく頷いた。
 声が、前よりほんの少し掠れている。

 そのとき、徹が走ってきた。
 手には缶コーヒー三本。
「甘い、微糖、ブラック。どれがいい?」

 銀色の缶が、紙コップの橙色であたたかく反射した。

 3人で紙コップランプの輪の内側にしゃがみ込む。
 コンクリートの、昼の熱が膝に触れる。
 顔の輪郭は柔らかくなり、影だけが濃くなる。
 たったこれだけの光で、“いまここにいる3人”は、ちゃんと浮かび上がる。

「奈保」

 郁恵が呼ぶ。
「もう一回だけ、3人で写真撮らん?」

 徹は一瞬で「ああ」と言った。
 私の胸の奥が、言葉には表せないような温かさで震えた。
 離れていたことに対しての、“許し”とか“決着”とかじゃない。
 ただ、今日の灯りの中に“この3人のかたち”を刻みたかった。

 三脚はない。
 徹はカメラをオブジェに置き、レンズを少し下向きにして角度を決めた。
 紙コップランプの流れが背景に入るように。
 タイマーを押して、急いで戻ってくる。

「いくよ」

 紙コップの灯りは、未来は照らさない。
 進路の正解も照らさない。
 でも、“今この瞬間、3人がここにいる”という事実だけは、ちゃんと見えるようにする。

 シャッターが落ちる。

 その瞬間の私たちは、分かり合えたわけでも、昔に戻ったわけでもない。
 ただ、“途上にある3人”の輪郭を、確かに静かに持っていた。

 後夜祭の終わりまであと十五分。
 風が出て、紙コップがかすかに揺れた。
 橙の粒が夜気のなかで震える。
 その揺れはまるで、「まだ終わっていない」と告げているように見えた。

 私は缶コーヒーの微糖をひとくち含む。
 受験のプリントも、模試の予定も、あしたのホームルームのことも、まだ先の話だ。

 ここに灯ってるのは、今日の“一点だけの光”。未来を照らすには弱いかもしれない。
 でも、今日の“今”を温めるには、充分だった。

──────

遊助の曲かな?

登場人物の名前、有名人のお名前になるのは思考が回らないからです。
あらあらフフッとなった人は同世代ですね。

所属の同好会、高校3年の文化祭まで気合い入れてましたな……まだあるのかしら?

11/7/2025, 3:52:41 AM

〈冬支度〉

 夫が玄関で「行ってくる」と声をかけ、娘と息子を連れて公園へ出かけた。
 ここ二週間、週末にずっと天気が悪かった。雨の日曜日に、娘が窓に張り付いて「晴れないかなあ」と呟いていたのを思い出す。子供たちは外に出られずストレスを溜めていた。

 今日はようやく晴れた。こんな日にやらずして、いつやるのか。私の年中行事、冬支度だ。
 「俺もやるよ」と夫は言ってたけれど、5歳と1歳を連れて公園へ出かけてもらった。晴れ間が嬉しくて、子どもたちは大喜びだ。
 家は静まり返り、ひとりの作業に没頭できる。
 私は深く息を吸った。よし、始めよう。まずは二階から。

 まず毛布をベランダに広げる。秋特有の透明な光は夏に比べたら弱ったものだが、湿度が低くて爽やかに晴れている。
 冬用の布団カバーやシーツも朝一番に洗濯し、干してある。家族の分全部だと物干し竿のほとんどを占領するから、通常の洗濯にも苦労する。

 厚手の羽毛布団を押し入れから引っ張り出す。去年少し背伸びして買ったもの。これがあると冬が来るのが嬉しい。
 季節の変わり目に、小さなご褒美がひとつあると、家事も儀式めく。

 子ども部屋に入り、娘のタンスを開ける。去年の冬物は明らかに丈が足りない。
 息子用は、お下がりを混ぜてもまだ足りないから、新たに買うようだ。
 成長って、この瞬間やけに可視化される。タンスの中身を入れ替えつつ、姉の子供のおさがりは今年ももらえるかしら?と思わず皮算用してしまう。
 サイズアウトした服をまとめ、空気清浄機をかける。とりあえず、子供服はおしまい。

 腕が悲鳴を上げ始めた頃、リビングで一休み。朝のコーヒーがそのまま残っている。
 カップを持ちながらしばし休憩。遠くから子供たちの歓声が聞こえる気がする。どこの家も、今日は外遊びなんだろう。
 娘もきっと、久しぶりに思いきり走り回っている。息子は転んでは立ち、また転んで──その相手をしている夫の姿を想像すると、感謝と申し訳なさが混ざる。

 毛布を軽くはたいて取り込むと、途端にくしゃみ。子供部屋から空気清浄機を移動して、最強モードで稼動させる。
 家族分の布団カバーをつけかえるだけで汗だくた。着ていた長袖が暑くてTシャツ1枚になる。
 そういえば、実家では気づけば冬物が出してあった。母がいつもひとりでやっていたのだろう、今さらありがたみを感じる。

 玄関のマットを厚手に替える。これが終わると、私は毎年「よし」と声に出す。
 今年も言った。小さな達成感。

 ちょうどその時、玄関がガラッと開いた。

「ママ、肉まん売ってたよー!」

 娘が両手で袋を持ってる。頬はりんごみたいに赤い。夫が苦笑いで靴を脱ぎ、腕の中の息子はすでに眠そうに目をこすっている。

 ああ、いよいよ冬が来るのだ。
 私は笑って、袋を受け取りながら言う。

「じゃあココアも作ろうか」

 夏をしまい、家族の時間をひとつ重ねた。
 それを確かめるのが、私の冬支度だ。

──────
淡々と語句を並べていくのはネタがない証拠です(

うちはまだ衣替えが中途半端です……
冬がーはーじまるよー

11/6/2025, 12:42:09 AM

〈時を止めて〉

「おばあちゃん、チャンネル変えていい?
 昭和歌謡特集だって」
 中学生の孫が問いかけてくる。

「いいよ、好きなのかけな」
 このところ、昭和レトロとかで孫世代では古い歌謡曲がブームになっているらしい。
 娘も「やだ懐かしい~」とアイドルの曲を一緒になって口ずさんでいる。

 やがて、さらに古い歌が流れ始める。娘にもわからないだろう、私が中学生の頃に流行った曲だ。
 その歌手はもうだいぶ前に亡くなって久しい。当時はテレビなどなく、ラジオから流れるのを聴いて覚えたものだ。
 こうして当時の歌ってる姿をテレビで見るのは、最近になってからかもしれない。

─行かないでと、願ったのに─

 その歌詞に、時を引き戻される。私は十五のあの春を思い出していた。

──

 三月の午後。山の風はまだ冷たく、吐く息が白い。
 道端の雪は黒ずみながらもしつこく残っていて、陽射しの中でもなかなか溶けようとしなかった。

 うちの店──バスの停留所前にある小さな雑貨屋の軒先には、雪解けの水が滴っていた。
 店を手伝う合間に、私はバスの時刻表を何度も見上げた。
 今日は綾子が東京へ行く日だった。

 綾子の集団就職の話を聞いたとき、頭の中でがらがらと何かが壊れるような音がした。うれしいのか、寂しいのか、自分でもわからなかった。
 村の子が外に出ることは滅多にない。特に女の子なら、家の手伝いをして、いずれ誰かの家に嫁ぐのが当たり前。
 でも綾子は違った。
 親を早くに亡くしたあの子は、いつも空の向こうを見ていた。村の風景のどこにも収まりきらないような目をしていた。

 出発の日、私は店を母に任せて、川沿いの停留所へ先に立っていた。綾子に渡そうと、駄菓子をいくつかこっそりと持ってきた。
 風は冷たかったけれど、川面はゆるやかに光っている。
 綾子が坂を下りてくるのが見えたとき、胸が痛くなった。
 薄いコートの裾が揺れて、鞄を握る手が少し震えているのが見えた。

 駄菓子を綾子の鞄に入れながら、私は聞いた。
「……綾子、東京は遠い?」
 そう問いかけながら、すでに答えは知っていた。遠いに決まっている。私の手が届かないほどに。

「どうだろう。すごく遠い気がしてる」
 綾子の声は静かだったけれど、その奥に光る希望の粒を私は見逃さなかった。
 ここにひとりでいても先が見えない、綾子が希望を持って旅立つのはうれしい。
──けれど、どうしようもなく寂しい。胸をぎゅっと掴まれたように苦しくなる。

 マフラーを口元まで上げながら、私はつぶやいた。
「帰ってくる人いないよね、東京に行った人って」

 綾子は黙って、道端の雪を指でなぞった。
「溶けないと、春にならないのかな」
 そう言った声は、私自身の心の底から漏れたような気がした。

 坂の上からバスの音が聞こえる。
 綾子に何か言わなきゃと、気が急く。
 なのに口から出た言葉は、たった一つだった。

「行かないで……綾子」

 泣きたくなんてなかったのに、涙は勝手に流れた。
 綾子は驚いたように目を見開いたけれど、何も言わずに、バスに乗り込んだ。
 ドアが閉まり、エンジンがうなる。
 私は咄嗟に手を伸ばしたけれど、もう遅かった。

「綾ぁ……」
 声は風に、エンジン音に、かき消された。
 バスが角を曲がり、姿が見えなくなる。

─行かないでと、願ったのに─
 あの曲が店先のラジオから流れてくる。
 空から落ちてきた雪の粒が、頬に触れて溶けた。

──

 綾子が上京して、三年ほど経ったころ。
 父が人に騙されて借金を背負った。保証人になっただけのつもりだったのに、夜のうちに家財をまとめて逃げるしかなかった。
 停留所の前の雑貨屋は、もう誰もいない。
 バタバタと看板が風に鳴るのを、私は背中で聞いた。

 行き先を綾子に知らせたくて、何度も手紙を書いた。
 けれど、宛先の東京の会社名を何度書き直しても、封筒の口を閉じられなかった。
 何度も転居したのもあるが、「こんな自分を見せたくない」と思った。
 だから、その手紙は出せないまま、古いトランクの底に眠っている。

──

 今、私は故郷から遠く離れた別の地方で暮らしている。
 住み込みで働いた先で夫と出会い、結婚して子どもも孫もできて、苦労もしたけどそれなりに幸せに生きている。

 春になると、どうしても山の匂いが懐かしくなる。
 日差しは温かくても、つんと鼻の奥に冷たさを感じる季節。
 あの日、川沿いで水切りをして、笑い転げた午後。
 その笑顔を思い出すたびに、時間がふっと止まる。
──あの瞬間だけは、そのままでいてほしい。
 そう願う気持ちが、私を支えてきたのかもしれない。

 雪が溶けて春が来ても、私の中の「十五の春」は、まだ残っている。
 時を止めたまま、あの停留所の片隅で、静かに光っている。

──────

「行かないでと、願ったのに」のB面ストーリーです。
孫が「うちのばあちゃんこの曲好きなんだ」とかSNSで書き込んで、そこからつながって再会……とかできたらまた面白そう。

11/5/2025, 3:50:00 AM

〈キンモクセイ〉

 夕方の帰り道、空気の温度が一段さがってきた。
 私は買い物袋を提げて歩きながら、その香りに気づいた。キンモクセイだ。
 見上げると、隣家の庭から枝を伸ばした木に、小さなオレンジ色の花が無数に咲いている。そして足元には、昨夜の雨に打たれて落ちたのだろう、誰かがまき散らした砂糖菓子みたいに、花が点々と落ちていた。

 足元に散らばる小さな花を見つめながら、私は深くため息をつく。

 昨夜もまた、息子の翔太と口論になった。夜十時を過ぎてもスマホをいじっているから、勉強のことを注意した。それだけのはずなのに。
 それなのに、「うるさい」「放っといてくれ」と扉を閉められた。
 夫は単身赴任中で、相談する相手もいない。四十三歳の私には、反抗期真っ只中の息子との向き合い方が分からなかった。

 グループLINEでママ友たちは、受験の話、部活の話、塾の話、次々に書いている。
「うちは部屋に閉じこもりっぱなし」
「話しかけると怒鳴られる」
 反抗期なのはどこも同じらしい。

 玄関でドアを開けようとすると、学校帰りの翔太が制服姿で歩いてくる。ヘッドホンをつけて、私には気づいていない様子だった。

「おかえり」

 声をかけると、翔太は顔を上げた。いつもの無表情。

「……ただいま」

 ぶっきらぼうに答えて、翔太は私の横を通り過ぎようとする。でも、その制服の肩のあたりに、オレンジ色の小さな花がいくつかついているのが見えた。キンモクセイだ。帰り道、あの木の下を通ってきたのだろう。
 私は思わず声をかけていた。

「翔太、制服に花がついてるよ」
「え?」

 翔太は立ち止まり、自分の肩を見た。そして、少し照れくさそうに花を払おうとする。

 その仕草を見て、私の中で何かが弾けた。

 あれは翔太が三歳ぐらいの頃だっただろうか。
 今日と同じような秋の日、この道を通りかかった幼い翔太が、落ちているキンモクセイの花に目を輝かせたのだ。

「ママ、見て! きれいなお花!」

 小さな手で花を一つつまんで、私に見せてくれた。「いいにおい!」と言って、何度も何度も嗅いでいた。そして自分の服のポケットに、大事そうに花を入れた。家に帰ってからも、ポケットから花を出しては眺めて、満足そうに笑っていた。

 あの笑顔を、私は今でも鮮明に覚えている。

 イヤイヤ期の翔太に振り回され、食事も遊びも思い通りにいかない日々。
 夫は仕事で忙しく、実家も遠い。一人で抱え込んで、「私は母親失格なんじゃないか」と泣いた夜もあった。
 公園で翔太が走り回るのを見ながら、疲れ果てて、「いつまでこんな日々が続くんだろう」と途方に暮れていた。

 今また、私は同じように途方に暮れている。

「……なに、じっと見てんの」

 翔太の声に我に返った。息子は不思議そうな顔で私を見ている。

「ううん、何でもない」

 そう答えて、私はドアを開ける。翔太は黙って靴を脱ぎ、二階へ上がろうとした。

「翔太」

 私は思わず呼び止めていた。翔太が階段の途中で振り返る。

「今日、ハンバーグにしようと思うんだけど」

 翔太の好物だ。息子の顔が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

「……うん」

 それだけ言って、翔太は部屋に入っていった。

 私はキッチンに立ち、買ってきた材料を出し始めた。窓を開けると、外からキンモクセイの香りが流れ込んでくる。

 翔太は今、自分の世界を築こうとしている。親から離れて、自分の足で立とうともがいている。それは成長の証なのだと、頭では分かっている。でも、心がついていかない。

 形は変わっても、息子は息子なのだ。

 あの頃の悩みも、今の悩みも、きっと母親になれば誰もが通る道なのだろう。花は散っても、また来年咲く。子育ても同じだ。悩みは尽きないけれど、季節は巡り、子どもは育つ。

 ハンバーグのたねをこねながら、私は小さく微笑んだ。翔太の制服についていた花。あれを払う時の、少し照れた表情。まだあどけなさの残る横顔。

 きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせた。

 夕方、階段を降りてきた翔太が、リビングに入ってきた。

「いいにおい」

 ぼそっと呟いた声が聞こえた。ハンバーグのことを言っているのか、それとも窓から入ってくるキンモクセイのことを言っているのか、私には分からなかった。

「もうすぐできるから、手を洗ってきて」
「うん」

 翔太は素直に洗面所へ向かった。

 その後ろ姿を見送りながら、私の胸の奥が少し軽くなった。
 今日はこれでいい。明日はまた、明日の悩みがあるだろう。でも今は、この小さな変化を喜びたい。

 窓の外から、キンモクセイの香りが優しく流れ込んでくる。
 私は静かに、深呼吸をした。

──────

キンモクセイ、枝を梳かないと木全体がものすごいことになるんですよねぇ。我が家のキンモクセイは蔦も絡まっちゃって全然咲きません……

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