〈祈りの果て〉
ニュースをつけると、またどこかで戦争が始まった。
誰かが死んで、誰かが泣いて、誰かが「正義」を叫んでいる。
母が小さくつぶやく。「もうやめてほしいね」
父は何も言わず、ただ画面を見つめている。
どちらも、何もできないことに気づいているくせに。
「ねえ、志帆。そろそろ進路のこと、考えなさいよ」
母の声が、背中越しに聞こえた。
考えろと言われても、どうせこの世界で何を選んだって、大した違いなんてない。努力しても、真面目に生きても、誰かが戦争を始めて、誰かが死ぬ。
そんな世界のどこに、希望なんてあるんだろう。
SNSのタイムラインも、怒りと絶望で埋め尽くされていた。
──どうして、こんな世界に生まれたんだろう。
部屋に戻った私は、ベッドに寝転び天井のシミを見つめた。
昨日までは雲の形に見えていたそれも、今日は銃口みたいに見える。
中学二年の秋。
文化祭が終わって、クラスの空気もどこか抜け殻みたいになっている。
私は放課後の教室に残って、ぼんやり窓の外を見ていた。
夕焼けがオレンジ色に燃えて、鉄棒の影が地面を伸びていく。グラウンドではサッカー部の声が響いていた。
「またひとり?」
そう言って隣に座ったのは、図書委員の恭子だ。彼女は鞄から本を取り出して、机の上に置く。
『祈りの果てに』というタイトルが目に入った。
「なんか、すごいタイトルだね」
「うん。戦場の医師の話。最後まで読むと、泣けるよ」
「──祈っても、戦争ってなくならないんじゃない?」
私の言葉に、恭子は少し黙って、それから言った。
「それでも祈るのは、自分が人間でいたいから、だと思う」
その言葉が静かに響いた。
私はうなずくことも笑うこともできず、ただ彼女の横顔を見つめる。
夕陽が窓から差し込んで、恭子の髪を赤く染めていた。
その夜、私は机に向かってノートを開いた。
勉強なんて手につかないから、代わりに文字を書いた。
──この世界が少しでもやさしくなりますように。
意味なんてないかもしれない。でも、それでも。
次の日の朝、空が澄んでいて、風がやけに冷たかった。
登校途中の神社の前で、私は立ち止まった。
誰もいない境内。鈴を鳴らすと、音が吸い込まれていく。
私は両手を合わせて、昨日のノートに書いた言葉を心の中で繰り返した。
──どうか、誰かが誰かを憎まずにすみますように。
──どうか、明日も朝が来ますように。
祈ることに意味はない。
でも、何も祈らなければ、もっと何もなくなってしまう気がした。
帰り道、空き地の草むらに、小さな花が咲いていた。
その花の名前を私は知らないけれど、それは雑草の中で一輪だけ白く光っていた。
なぜか「ありがとう」と言いたくなった。
今日も悲しいニュースがまた流れている。昨日よりも多くの人が死んだ戦いを伝えている。
私はそっと手を組む。
──祈りは届かない。
──祈りは、世界を変えない。
でも、私は祈る。
この無力さの中で、それでも人でありたいから。
たぶん、それ以上を望んではいけない。祈りの果てに残るのは、希望ではなく覚悟だ。
私は、明日の朝、もう一度神社で手を合わせるだろう。
空が、きっと今日と同じように、冷たく澄んでいるとしても。
──────
not宗教。
上手く言葉にできないけど、悲しみと不安に満ちた今の世で生きるには、心の平穏が一番だと思うですよ。
祈りは自分自身のためかもしれません。
祈っただけでは何もならない、欺瞞だのなんだの言われる方もいましょうが、誰かの幸せを願う祈りは未来への灯りとも思います。
〈心の迷路〉
定年を迎えて三ヶ月。
家の中に、時間が余るというのはこういうことかと、最近ようやく実感している。
午前の光が差し込むリビングで、コーヒーを飲みながら求人誌を眺める。
仕事を探しているというより、ただページをめくっているだけだ。
何をしたいのか、何ができるのか、自分でも分からない。
「また見てるの?」
妻の声がした。
とっさに顔を上げると、冷ややかな視線が突き刺さった。
笑ってごまかしたが、その笑いがどんな意味を持つのか、彼女にはもう見透かされている気がする。
「いや、まだ決めかねていて」
「あなたの好きにすればいいじゃない」
そう言い残して、妻は庭へ出ていった。小さく閉まるドアの音が、胸に響く。
──この家にいるのに、妻との距離が昔より遠く感じる。
働いているあいだ、家庭は妻に任せきりだった。
単身赴任の間も、彼女は不満を言わなかった。いや、言わせなかったのだろう。自分は家族のために働いている、そう信じて疑わなかった。
けれど今思えば、あれは「逃げ」だったのかもしれない。仕事という名の言い訳に身を置いていれば、心の不安を考えずに済んだからだ。
窓越しに、庭のバラを剪定する妻の姿が見える。
細い枝を切る白い手。いつの間にか小さくなった後ろ姿に、彼女が背負ってきた年月を見る。
俺たちはいつから、こうしてすれ違うようになったのだろう。同じ家にいながら、別々の時間を生きてきた。
「仕事が落ち着いたら」「子どもが大きくなったら」
そう言い訳しながら、約束の旅も、何度も先送りにしてきた。
リビングの時計の音だけが響く。
求人誌を閉じて立ち上がるが、なかなか声が出ない。
──話しかける。それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。
「なあ」
ようやく声を出すと、妻が振り返らずに答えた。
「何」
「もう一度、旅の計画を立てないか。
あの頃、行きたいって言ってた場所——」
返事はすぐには返ってこなかった。代わりに、切り取られた枝が小さく地面に落ちる音だけがした。
次の瞬間、彼女の声が震えていた。
「ずっと私は待っていたのよ。
でも、あなたはいつも仕事。私は一人で子育てして、一人で悩んで、一人で生きてきた。
今さら寄り添うなんて、簡単に言わないで」
言葉が見つからなかった。胸の奥が、締めつけられる。
彼女の声は怒りではなく、長い年月を積もらせた悲しみそのものだった。
俺は何をしてきたのか。
「家族のために」という言葉の影で、心の距離を広げてきただけじゃないのか。
仕事に逃げ、責任を盾にして、愛情を後回しにしてきた。その迷路の出口を、見失ったまま立っている。
何かを言わなければと思った。けれど、どんな言葉も軽く響くだけだ。
それでも、口を開いた。
「……旅じゃなくていい。一緒にできることを考えてくれないか。
庭の手入れとか、そんな小さなことでも」
彼女は少しの間黙っていたが、やがて静かに言った。
「じゃあ、草むしりから始めましょうか」
その言葉に、胸の奥で何かがほどけた気がした。
たぶん、まだ許されたわけじゃない。
けれど、迷路の中にも、光が射す瞬間はある。
そこからまた歩き出せばいい。
振り返ると、バラの枝越しに見えた妻の横顔が、ほんの少し柔らかかった。
その表情を、長い間見逃してきたことに気づく。
風が庭を抜け、バラの花びらが一枚、俺の肩に飛んできた。
拾い上げると、指先にほのかな香りが残った。
人生の後半に入っても、人の心は簡単にはわからない。
けれど、分かろうとすることはできる。それが、迷路を抜けるための最初の一歩なのかもしれない。
心の迷路は、まだ続く。だがその奥に、もう一度出会える道がある気がした。
──────
以前書いた「旅は続く」の夫側ストーリーです。
妻側か夫側か悩んで、夫側はボツにしてました。
どうしたらいいのかわからない夫さんの扱い、妻さん側も迷うもんですよ……
〈ティーカップ〉
外は風が強くて、木々がざわざわと鳴いていた。
冬の初めの空気は乾いていて、ひとりでいると、なんだか胸の奥まで冷えてくるようだ。
食器棚の奥から、久しぶりにあの箱を取り出した。紺色のビロードの箱。中には磁器のティーカップとソーサーが二客眠っている。白地に淡い金の縁取り、小さな花々と緑の葉。指でなぞると、ひんやりとした磁器の感触が伝わってくる。
これを最後に使ったのは、いったいいつだったろう。たしか、夫が亡くなる少し前──二人で小さなケーキを分け合って、おしゃべりをした午後だ。
その夫が、このカップを買ってくれたのは初めての結婚記念日だった。新宿の百貨店で、私はお小遣いの範囲で買えるものを見ていたのに、彼が「どうせならいいものを」と言って、ずいぶんと高いティーカップを差し出したのだ。
「他のは少しずつ揃えような」と、彼は言った。
けれど、息子が生まれ仕事に家事に追われるうちに、そんな余裕はなくなってしまった。
あのブランドも、日本から撤退したと聞いたとき、夢がはじけて消えてしまったようで寂しかった。
そんな思い出をたどっていると、玄関の方から声がした。
「ふみさん、ただいまー。英国展、すっごい行列でしたー」
息子の嫁、佐和子さんが息を弾ませて入ってくる。手には百貨店の紙袋。
「さすが人気の店、スコーンが残り二個。危なかったぁ」
「あなたにお任せして正解ね、行列っていうだけで私はパス」
「ふみさんのためなら、並ぶのなんてなんのそのですよ」
「はいはい、口のうまいこと」
思わず笑ってしまう。ほんとにこの人は、いつも調子がいい。
「ご指定のクロテッドクリームもありましたよ。
このレモンケーキも美味しそうで地下で買ってきました」
「まあ、素敵。じゃあ、お茶を入れましょうか」
佐和子さんがスコーンと焼き菓子をトースターで温める。リベイクというらしい。
ケトルが小さく唸り始める。湯気が立ちのぼる台所に、甘い香りがただよう。
私はそっと、さっきのティーカップをテーブルに置く。
「あら素敵なカップ。初めて見ました」
「とっておきよ。普段使いは絶対ダメ」
「取り扱い注意ですね」
佐和子さんは「ふふ」と笑って、温まった菓子とスコーンを皿に並べ、ジャムとクリームを添える。気づけば、テーブルには可愛いブーケも飾られている。
「さあ、ふみさん。
アフタヌーンティーのお支度ができましたよ」
「素敵……本当に百貨店のティールームみたい」
カップを持ち上げる。軽い。薄い磁器が光を透かす。口をつけると、懐かしい感触が唇に触れた。
温かいスコーンに、佐和子さんが驚くほどクリームを盛り、ジャムをのせて頬張る。
佐和子さんの手作りジャムは、甘味と酸味のバランスが丁度良く、クリームと共にスコーンの小麦の味を引き立てる。
そこでまた紅茶を口に含むと、香りが鼻に抜けていく。
「美味しいわ」
「良かった。ふみさんが喜んでくれて」
手にしたティーカップを、そっと手で包み込む。
「これね、結婚記念日にって夫に買ってもらったの。
若い頃はね、これでアフタヌーンティーをするのが夢だったのよ」
ティーポットからおかわりを注ぐと、紅茶の香りがふわりと広がる。琥珀色の液体の向こうに、昔の私がうっすらと見える。
忙しくて余裕がなくて、それでも楽しかった日々。初めてのアフタヌーンティーは、ティーバッグの紅茶に、駅前の和菓子屋さんで売っていたカステラ。
イギリス映画の中に出てくるティースタンドに憧れたけど、夢また夢。せめて雰囲気だけでもと、背伸びして買ったティーカップ。
小さなちゃぶ台にそれらしく並べて、二人で笑いながらお茶を飲んだ──
「ふみさん、夢は叶ったじゃないですか」
「そうねえ、美味しいものばかりで嬉しいわ」
ティーカップの金の縁取りが光を受けて、ほんのり輝いている。湯気の向こうで、佐和子さんが笑っている。その笑顔を見ていると、ほんのりと心が温まる。
夫のいない寂しさは、消えることはない。でも、その隙間をそっと埋めてくれる人がいる。
「おいしかった。……買ってきてもらったの、全部食べちゃったわね」
「大丈夫、レモンケーキ残ってますし。
一雄さんには栗きんとんも買ってきました」
息子が紅茶よりは緑茶が好きなことをわかってる、さすがは佐和子さん。この人がいて、本当に良かった。
「ふみさん、今度ホテルのアフタヌーンティー行きましょうよ」
「嫌よ、混んでいるんでしょう」
「予約すれば大丈夫ですよ、マダム二人でおしゃれして楽しみましょうよ」
「あら、あなたマダムになれるの」
「……努力します」
笑い声と紅茶の香りが、やさしく部屋を満たしていく。
昔の約束の続きを、ようやく果たしているような気がした。
──────
ふみさん佐和子さんの嫁姑漫才です。
ふみさんの若い頃だから、ティーバッグが出たばかりの昭和30年代でしょうか。ミントンのグリーンウィッチ、欲しかったなぁ……
佐和子さんが買ってきたレモンケーキ、ホントは長い名前がついてます。
「なんとかカカオ?の、なんとかクーヘン」。ああ、美味しい紅茶と一緒にいただきたい。
〈 寂しくて〉
結婚して初めての秋は、静かに過ぎていく。
窓の外では冷たい雨が降り続いている。十一月も半ばを過ぎて、夜になると部屋の空気がひんやりと肌に触れるようになった。
暖房をつけようかと迷っているうちに、妻がそっと俺の背中にくっついてきた。
「寒い」
小さな声でそう言って、妻は俺のシャツの裾を掴んだ。
二歳年下の彼女は、こういう時まるで子どものようだ。
「暖房つけようか」
そう言いかけたけれど、妻は首を横に振った。
「寂しいからこうしてたい」
ぽつりと呟いて、彼女は俺の腕に自分の頬を押し付けてくる。その温もりが妙に愛おしくて、思わず抱き寄せようとしたら、するりと身をかわされた。
振り返ると、妻はいたずらっぽく笑っている。
「なんだよ」
「だって」
猫みたいに気まぐれなやつだ。結婚前から知っていたけれど、一緒に暮らし始めてからその傾向はますます顕著になった。
べったりくっついてきたかと思えば、こちらから触れようとすると逃げていく。でもまた数分後には、何事もなかったように側に寄ってくる。
ソファに座ってテレビを眺めていると、妻が今度は俺の隣に腰を下ろした。
そしてまた、そっと俺の腕に触れてくる。
「ねえ」
「ん?」
「私ね、小さい頃、両親が共働きだったから」
妻は俺の腕を両手で抱えながら、どこか遠くを見るような目をした。
「学校から帰ってきても誰もいなくて。
鍵開けて、一人で家に入って。冬はすごく寒かったの」
テレビの光が彼女の横顔を淡く照らしている。
「ストーブつけて、宿題して、でもやっぱり寒くて。
寒いと余計に寂しくなって」
妻の指先が、俺の腕をぎゅっと握りしめた。
「だから、寒くて独りきりは寂しくて嫌なの」
その言葉に、少し切なくなった。俺は何も言えずに、ただ妻の頭にそっと手を置いた。彼女は抵抗しなかった。
外では相変わらず雨が降っている。冷たく窓を叩く音が静かに聞こえる。
──俺も独りは苦手だ。
一人暮らしをしていた頃、休日に誰とも話さずに一日を終えるのはしょっちゅうだった。そんな夜は、部屋がやけに広く感じられて、自分がひどく小さな存在に思えた。
誰かに電話しようかと考えても、こんな夜に誰を呼び出せばいいのか分からなくて、結局何もせずに布団に潜り込んだ。
でもそんなこと、彼女には言ったことがない。
「寂しいのは俺も同じだよ」
そう素直に言えたらいいのに、言葉は喉の奥で止まってしまう。代わりに俺は、妻の肩にそっと自分の頬を寄せた。
「あったかい」
妻がぽつりと言った。
「うん」
俺も小さく応えた。
妻の温もりが、俺の腕に伝わってくる。そして俺の温もりも、きっと彼女に届いているんだろう。
寂しいのは妻だけじゃない。俺もずっと、誰かの温もりを探していたんだと思う。
テレビの音が遠くなっていく。外の雨音も、いつの間にか子守唄のように聞こえ始めた。
妻の呼吸が、ゆっくりと穏やかになっていく。俺の腕を抱えたまま、彼女はうとうとし始めているようだった。その重みが心地よくて、俺も少しずつ瞼が重くなっていく。
もう一人じゃない。
そう思ったら、不思議と安心した。
これから訪れる寒い冬も、冷たい雨も、二人ならきっと大丈夫だ。
互いの温もりを感じながら、俺たちは静かに眠りに落ちていった。
窓の外では、まだ雨が降り続けている。
──────
脳内BGMは太田裕美「雨だれ」です。
情景が浮かぶような展開を書くのは難しい……
〈心の境界線〉
夕方の研究室は静かだった。
ゼミ生たちが帰った後、私は机の上に広げた資料を眺めながら、今日の議論の余韻に浸っていた。
指導教授が「視点が面白い」と言ってくれた私の発表。それに対して誰よりも真剣に意見をくれた瀬川くんの言葉。充実感が胸を満たす。
「田村さん、もう少しいい?
さっきの論点、もう一回話したくて」
瀬川くんが声をかけてきた。いつものことだ。
ゼミ後、二人で議論を続けるのは珍しくない。私たちは同じ理論に興味を持ち、同じように貪欲に学ぼうとしている。
「いいよ。どの部分?」
私が椅子を引くと、彼は自分の椅子を少し近づけて座った。
資料を指差しながら話し始める彼の横顔を見て、ふと、先週の飲み会での友人の言葉を思い出した。
「瀬川くん、絶対田村のこと好きだよね」
そんなわけない、と私は否定した。
彼は研究仲間として私を見てくれている。対等な議論相手として、尊重してくれている。それが何より心地いいのだ。
「──田村さん、聞いてる?」
「あ、ごめん。もう一回言って」
議論が再開する。彼の意見は鋭く、私の考えを深めてくれる。
こういう時間が、私は好きだった。恋愛に時間を費やすより、今はこうして学ぶことの方がずっと面白い。
でも。
ふと訪れた沈黙の中で、彼の視線を感じた。
資料を見ているはずなのに、彼は私を見ている。
心臓が跳ねる。
瀬川くんが口を開きかけて、やめた。喉が小さく動くのが見えた。
この沈黙が何を意味するのか。彼が言おうとしている言葉が、どんなものなのか。
頭の中で、様々な想像が駆け巡る。もし彼が告白したら、私はどうする?
断れば、この関係は壊れてしまう。毎週のゼミ後の議論も、気軽に意見を交わし合える空気も、きっと失われる。
では受け入れる?
それも違う。今の私は恋愛に傾ける時間が惜しい。研究が面白くて、もっと学びたくて、この充実した日々を手放したくない。
そして何より、彼と対等に議論できる今の関係が、一番心地いい。
私は立ち上がった。
「そろそろ閉めようか。明日も朝から授業だし」
瀬川くんは一瞬、寂しそうな表情を見せた。でもすぐに「そうだね」と頷いて、立ち上がる。
二人で資料を片付け、研究室の電気を消す。廊下を並んで歩きながら、私は努めて明るい声で言った。
「今日の議論、すごく面白かった。
また明日、続き聞かせてね」
彼は少し驚いたように私を見て、それから、いつもの笑顔を浮かべた。
「うん、また明日」
これでいい。
この境界線を、今は越えない。越えたくない。それが彼を傷つけることになったとしても、私は今、この関係を守りたい。
建物を出て、夜風に吹かれながら、私は振り返った。暗くなった研究室の窓を見上げる。あそこで過ごす時間が、議論に没頭する時間が、私は好きだ。
この気持ちを、恋だと呼ばなくてもいい。
今はただ、学ぶことが楽しい。彼と語り合うことが楽しい。それを恋愛という形に変えてしまったら、きっと何かが失われる。
私は自分の選択を信じることにした。この心の境界線の、こちら側に留まることを。
いつの間にか暮れた空を見上げると、星が瞬いていた。
──────
瀬川くんサイドから書いたらどうなるんでしょうねぇ、これ。