〈記憶のランタン〉
その夜、私はいつもより遅くまでテレビの前にいた。
夜空にゆっくりと昇っていく、たくさんのランタン。オレンジ色の光が、まるで星のように輝いているのをプリンセスが見ている場面だった。
風にあおられながら、ふわりと昇っていく光の粒たち。すごくきれい。
「……ああ、懐かしいねえ」
隣の座椅子に座っていたひいばあが、ぽつりと言った。
私は驚いて顔を向ける。
いつもは「あらきれいねえ」とか「最近の映画は難しくてねえ」なんて言うだけなのに。
「懐かしいの?」
「ああ……」
ひいばあは、テレビの向こう側の、もっと遠くを見ているようだった。
「ひいばあ、この映画見たことあるの?」
私が聞くと、パパが教えてくれた。
「台湾のランタンかなぁ……
ひいばあは子供の頃、ひいばあのお父さんの仕事で台湾に住んでいたんだよ。
その頃に見たんだろうね、ランタンを」
私は目を丸くした。ひいばあが台湾に?
同じ家で暮らしているのに、そんな話、聞いたことがなかった。
映画の光景が、急に本物の景色みたいに思える。私は胸がわくわくして、もっと知りたいと思った。
ひいばあは何も言わずに、ただ画面を見つめていた。
──
次の日、私はタブレットで調べてみた。
台湾。地図で見たことはあるけれど、よく知らない場所。
「台湾 ランタン」──検索すると、夜空に舞う光の祭りの写真がたくさん出てきた。お祭りみたいできれいだった。ひいばあが見たのも、こんな景色だったんだろうか。
でもスクロールする指が止まった。
「台湾 昔 日本」と調べていくうちに、私は知らなかったことをたくさん知った。
「……太平洋戦争……?」
関連ページには、戦争、終戦、引き揚げという言葉が並んでいた。
太平洋戦争。日本が台湾を統治していたこと。そして終戦。引き揚げという言葉。着の身着のまま帰ってきた人たちのこと。戦後の食べ物のない暮らし。
学校では習わなかった。いや、習ったのかもしれないけれど、それが自分の家族のことだとは思わなかった。
読んでいると、胸がぎゅっとしめつけられた。 ランタンのある思い出がきれいな分だけ、そのあとにあったものが、余計に重く感じられた。
──
夕方、夜ご飯の支度をしているばあちゃん—ひいばあの娘—に聞いてみた。
「ばあちゃん、ひいばあが台湾から帰ってきた時のこと、知ってる?」
「あら、パパから聞いたの?」
ばあちゃんは少し驚いた顔をしてから、ゆっくりと話してくれた。
「私が生まれたのは、戦争終わってから十年経っていたし、直接は知らないけれど……
お母さんが引き揚げてきた後は大変だったみたいよ。何も持たずに帰ってきて、食べるものもなくて。
あまり昔のことを話さなかったの。つらい思い出だったんでしょうね」
物語のように思っていた「戦争」、身近な人にが体験してたこと。
氷を背中に入れられたように、寒くなる。
「……そんなの、学校じゃ習わないよ」
「そうね。
でもね、家族の中にだけ残っていく歴史もあるのよ」
ばあちゃんの声は静かだった。
私は、ひいばあにそんな“秘密みたいな歴史”があったことに胸がざわついた。
──
夜ご飯のあと、私はひいばあの部屋へ行った。
ひいばあはベッドで横になりながら、ラジオを聴いていた。
「ひいばあ、台湾のこと教えて」
「あらあら、そんな昔のこと」
「イヤだったら話さなくていいよ」
少し考えたあと、ひいばあはよっこいしょと体を起こして、ちょっとずつ話してくれた。
ひいばあのお父さんが台湾の会社で働いていたこと。
暖かい気候のこと。
市場で食べたマンゴーの甘さ。
隣に住んでいた女の子、おさげ髪の佳玲ちゃんのこと。一緒に遊んだ路地。
そして、ランタン祭りの夜。
私は、タブレットで見たランタン祭りの光景を思い浮かべる。
「きれいだった?」
ひいばあはゆっくり目を細めて笑った。
「きれいだったよ。空がね、光の花でいっぱいになるんだよ。
ひとつひとつにね、願いが込められてるんだ」
「ひいばあは、何をお願いしたの?」
問いかけると、ひいばあは天井を見上げて、遠い昔に呼びかけるように言った。
「……家族が無事でありますようにって。
戦争のことが聞こえてきてね、毎日が不安でいっぱいで……だから、そう願ったんだよ」
私は息をのんだ。
ランタンは、ただきれいなだけの光じゃなかった。
ひいばあは、その後のことも話してくれた。
ある日突然、帰国命令が出たこと。
佳玲ちゃんに会えなくなったこと。
船に乗って帰ってきたこと。
日本に着いても、家はなく、食べ物もなく、毎日が必死だったこと。
佳玲ちゃんと別れたときの話で、ひいばあは悲しそうな顔をした。
私もつられて泣きそうになる。
「怖くなっちゃったかね」
あわてて、ひいばあが私の頭をなでる。
「つらいことばかりじゃなかったよ、結婚して子供が生まれて、孫が生まれて。
こんな可愛い幸ちゃんも生まれてきた」
「向こうでの暮らしは、本当に楽しかった。
佳玲ちゃんと遊んだことも、あのランタンの光も、ひいばあの中でいい思い出なんだよ。
忘れたくないこともたくさんある」
「ひいばあ……」
私の目から、涙がこぼれた。
「幸ちゃん」
ひいばあは私の手を取った。
「覚えていてくれる? ひいばあの昔のこと」
私はひいばあの手をそっと握った。しわくちゃで、でもとてもあたたかい手。
「忘れないよ……
ひいばあの思い出を、私が消さないようにする」
そう言ったら、ひいばあは目を細めて笑った。
「ありがとう。
あなたが覚えていてくれるなら、ひいばあの人生も、無駄じゃなかったわね」
ひいばあが見上げたランタンは、消えてしまったわけじゃない。
ひいばあの小さな願いが、空へ昇っていった証だったんだ。
ひいばあの思い出の中で、私の中で受け継がれている。
私は記憶のランタンをひとつ受け取ったような気がした。
──
それから私は決めた。少しずつ、ひいばあの話を書いていこうって。
ひいばあは最初おろおろしてたけど、
「忘れないうちに、幸ちゃんに伝えないとね」
と、色んなことを話してくれるようになった。
そして、教えてもらった地名で検索して、今の画像をタブレットで見る。
「母さんばっかり幸奈に色々教えてもらって」と、ばあちゃんも一緒になって見るようになった。
いつか、その空に、本物のランタンが浮かぶところを見てみたい。ひいばあと一緒に。
ひいばあは「もっと長生きしなくちゃねぇ」と笑ってる。
歴史の教科書には、年号と出来事しか書いていない。でも、その一つ一つに、ひいばあみたいに生きた人がいる。笑って、泣いて、大切な思い出を持っている人が。
私も、ひいばあの大切な思い出を誰かに伝えたい。
記憶という名のランタンを、未来へつないでいくために。
──────
ランタンと言えばあのプリンセスらしいんですが、どうも原作とランタンが結びつかない……(映画未見
おばあちゃんの記憶と言えば、しわしわで柔らかい手です。
〈冬へ〉
進路アンケートって、なんであんなに白紙がまぶしいんだろう。テスト用紙もまぶしいけど。
今日のホームルーム、とりあえず短大とか、専門でいいかーとかみんなサラッと書いてるふりして、実はめっちゃ迷ってるの知ってる。
ウチは名前だけ書いて、時間切れのチャイムが鳴った。
家に帰った瞬間、ママの探知機が作動する。
「まひる、進路の紙、出したんでしょ? 何書いたの?」
「……別に」
「別になんて言わないでよ。来年は三年なんだから、ちゃんと将来を」
はい出ました、“将来”。見えるわけないじゃん。
その言葉のトゲに耐えきれず、ウチは上着だけつかんで家を飛び出した。
玄関を出た瞬間の冷たい空気、もう冬ってヤツ?胸のモヤモヤまで冷やしてくる。
そのままバイト先のコンビニへ行くと、店長がレジ裏でおでん食べてた。
「まひるちゃん、新しい商品試食試食!
若い子の意見聞かせて!」
大学生の先輩はカップ麺。また昼抜きでここで食べてる?
むすっとして、いつもの調子が出ない。店長はその辺に敏感だ。
「まひるちゃん、顔、今日いつもより険しいよ?」
「……親とさ。進路のこと言われて」
店長の声に、つい弱音を吐いてしまった。
「考えられないよ。ウチ、頭悪いし、大学とかムリだし」
言ってから、ちょっと泣きそうになった。自分でもびっくりするくらい。
「あー、あるあるそれ。冬ってそういう季節だし」
先輩はマジで落ち着いてる。カップ麺すすりながら。
「俺なんか、高二の冬で方向転換して、高三の夏休み前までなんも決まってなかったもん」
「え、ウソ。先輩って優等生っぽいのに」
「いや、全然。迷って、逃げて、ギリギリで決めた。担任にはせかされ、親には怒られっぱなしだったよ俺」
カップ麺の汁飲み干して、菓子パンに手を出しながら先輩は言った。
「“冬来たりなば春遠からじ”って知ってる?」
「それポエムっすか?」
「違うって。元はイギリスの詩人」
「へー、中国の故事だとか思ってた。さすが文学部」
店長がちゃかすけど、先輩は続ける。
「冬はしんどいけど、そのあと春が来るんだよ。
今つらくても、必ず越えられるって意味」
“必ず越えられる”。
そんなの簡単に言わないでよ、と思った瞬間、若者ふたりの会話を聞いていた店長が横でうんうん頷いてきた。
「まひるちゃんさ、気が利くじゃん。お年寄りにも人気あるし。向いてる仕事、きっといっぱいあるよ」
「……ウチの“向いてる仕事”って、なんなんですかね」
「それを探す時期なんだよ。進学でも就職でも、自分が何できるか知ってると強いからね」
“自分が何できるか”。
そんなの考えたことなかった。そもそも、考える価値ないと思ってた。
バイト終わりの外は、空気が冷たくて、息が白くて、街路樹のイルミネーションがキラキラしてた。
冬の夜って、なんか全部が透明になっちゃう感じがする。
ごまかせないというか、悩みの形がそのまま空気に溶けるというか。
──冬来たりなば春遠からじ。
先輩の声が、微妙にイケボで頭に残る。
ほんとに来る? 春。
ウチの人生にも?
次のバイトの日。夕方の混雑が落ち着いたころ、常連のおばあちゃんが来た。
「まひるちゃん、今日も元気ねえ」
「まあまあっすよ」
袋を渡すと、おばあちゃんはふわっと笑った。
「あなたね、本当に気が利くわよ。声も明るいし、丁寧だし。こういうお仕事、向いてるんじゃない?」
「え、ウチが……ですか?」
「そうよ。人の話をちゃんと聞ける子って、珍しいのよ。
それとね、あの……ポップっていうの?まひるちゃんが書いたんでしょ?」
おばあちゃんはニコニコ笑って、商品棚のポップを指差す。「若い子感覚で書いて~」と店長に言われて作ったヤツ。
「絵もあっていつもどんな商品なのかわかりやすいし、読むのを楽しみにしてるのよ」
その瞬間、頭ん中で何かがカチッて音を立てた。
凍ってた部分に、ちょっとだけ日が射したみたいな感覚。
もしかして──
ウチにも“向いてる道”ってあるの?
なりたい自分、探せばどこかにあるの?
外に出ると、冬の空気は相変わらず冷たかった。けど、不思議と胸のあたりは軽くなった気がする。
吐いた白い息が広がって、その先で街の光がぼんやり揺れてる。
冬はこれからやってくる。
でも、昨日よりはちょっとだけ、未来の方向が明るい気がした。
「……春、来るんかな。まあ……さっさと来てくれてもいいけど」
そんな小さなつぶやきが、白い息と一緒に夜に溶けていった。
それだけで、今日のウチは少しだけ救われた気がした。
──────
若い子の話し言葉がわからんです……
高二の冬に決めてた進路希望をひっくり返し、ギリギリまで志望校決めなくて怒られたのは私です(真似しちゃいけません
〈君を照らす月〉
駅の改札に立ち、遠ざかっていく背中を見送った。
長年、当たり前のように隣の席にいた彼女が、あと一週間で去っていく。
──
この会社に入社して十五年。
気づけば周りの同期は家庭を持ち、それぞれの人生を歩んでいる。自分だけが会社という場所に留まり続けているような気がしていた。
六年前、俺はまったく勝手の違う部署に異動した。まとめ役としての役割を期待されていたが、実際には右も左も分からず、不安ばかり抱えていた。
そんな新人同然の俺を、根気強く支えてくれたのが三つ年下の岡部さんだった。
書式の癖や過去の経緯、上層部の好む流れまで、彼女は一つひとつ丁寧に教えてくれた。
会議で資料の順番に迷っていると、何も言わずに必要な紙をそっと差し出してくれる。取引先への気遣いのメールも、俺が気づかないうちにフォローしていてくれた。
彼女のきめ細やかな配慮と段取りのおかげで、部署全体の業務は滞りなく回っていた。
だが、それは業績の数字には表れない。
会議で称賛されるのは成果を出した誰かで、彼女の存在がその成果を支えていることを、ほとんどの人は知らなかった。
それでも彼女は不満を言わず、淡々と仕事を整えていた。
そんな彼女から退職を告げられたとき、胸の奥で何かが静かに砕けた。
母の介護という理由に、周囲は一様に頷いていたが、俺にはそれだけではないように思えた。
十二年という年月は、彼女に多くを背負わせ過ぎてきた。
部署を越え、同性でなければ対応できない指導や、微妙な人間関係の調整など、業務とはかけ離れたものも多かった。
本来なら組織が担うべき役割を、上層部は当たり前のように彼女へ押しつけていたのだ。
会議室で資料を整える彼女の指先が、時折わずかに震えることがあった。
笑顔の奥で疲れを隠そうとしていることに、俺は気づいていた。
けれど誰も口にはしなかったし、彼女もまた、気づかれまいと微笑んでいた。
──
今夜は引き継ぎで遅くなった。会社を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
「今日も遅くなりましたね」
声をかけると、岡部さんは少し驚いたように振り向いた。
「引き継ぎで残業まで、すみません」
「謝ることじゃありませんよ。
僕も把握しておかないといけませんから」
並んで駅へ向かう。ビルの谷間を抜けていく風が、季節の変わり目を告げていた。
雲の切れ間から白い月がのぞいている。
「退職のこと、他の部署には話していなかったんですね」
信号の前で尋ねると、彼女は小さくうなずいた。
「ええ。……まだ口にするのが怖くて。
ギリギリまで黙っていようと思っていました」
その気持ちは分かる。
何かを手放す瞬間は、いつだって不安だ。
「僕も、前の部署を異動するとき、何かを失う気がして言えませんでした」
歩く先の信号が赤に変わる。足を停めるとともに、言葉も止まる。
信号の下で、ふたりして夜空を見上げた。
月が街灯より少しだけ強く、けれど刺すようではない光で浮かんでいる。
「……月が、綺麗ですね」
自分の口から漏れた言葉に、少し驚いた。
「ええ。なんだか、今日が終わるのが惜しくなりますね」
彼女の声は、変わらず柔らかかった。
青に変わるのを待ちながら、俺は思った。
この十二年間、彼女はどんな思いを抱えてこの道を歩いてきたのだろう。
どんな夜に、どんな月を見上げてきたのだろう。
「……瀬尾さん」
呼ばれて振り向くと、岡部さんが少し照れたように笑った。
「私、この仕事嫌いじゃなかったです」
その言葉の重さが胸に落ちた。
「……知ってます」
それしか言えなかった。
けれど本当はもっと伝えたかった──あなたがいてくれて良かった。あなたの仕事をずっと尊敬していた。そして、これから先の人生も幸せであってほしい、と。
駅の入口で足が止まる。
「じゃあ、ここで」
「お疲れさまでした。また明日」
彼女が頭を下げる。俺は静かにうなずいた。
彼女が改札へ進んでいく。振り返ったその顔に、軽く手を上げた。
月の光が、彼女の背中をそっと照らしている。
きっと、この光景を忘れない。
月は誰の上にも平等に輝く。
けれど今夜のこの瞬間だけは、彼女の歩き出す道を照らすために輝いているのだと思った。
その光が、これからの彼女の人生を少しでも明るくするようにと祈りながら。
俺は手を下ろし、別の路線へ歩き出した。
月を背に受けながら、自分もまた前へ進まなければならない。
──────
以前書いた「moonlight」、別視点のお話です。
恋愛ものじゃないんだよなぁと思いつつ、書いたり消したりでした。
その辺の細やかな情緒が描ききれないもどかしさよ……(文章力のせい
〈木漏れ日の跡〉
晩秋の午後、プラタナスの街路樹が作る木漏れ日の中を歩く。
斜めに差し込む陽射しは、もう夏のように眩しくはない。枝の隙間から漏れる光がアスファルトにゆらゆらと模様を描き、その上を、前を行く親子連れの少女が軽いステップで踏み越えてゆく。
父親と母親、そして小学生くらいの女の子。三人で何かを話しながら笑っている。女の子が跳ねるように歩くたび、母親が優しく手を引き直す。
──もし違う人生を選んでいたら、私にもこんな光景があったのだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまった。四十二歳の今、私の人生にその選択肢はもうない。いや、正確には、私が選ばなかった道だ。
でも、そんな「もし」は、秋の光のせいでふいに色を帯びて蘇る。
──
十五年前。私は亮と結婚を考えていた。大学時代からの付き合いで、趣味も価値観も合っていると思っていた。
休日は木漏れ日の道を歩いて美術館を巡り、同じ銘柄のコーヒーを気に入る。映画の好みも似ていて、夜遅くまで作品について語り合った。
当然、結婚も自然な流れとして視野に入れていた。この人と共に歩いていくのだと、本気で信じていた。
けれど、あの日。
「そろそろ、結婚しようか」
亮はいつもの穏やかな笑みを浮かべてそう言った。私は嬉しかった。ようやく二人の未来が具体的な形になるのだと。
でも、続く言葉は予想外だった。
「結婚して子供ができたら、仕事は辞めてもいいよな?」
唐突なその言葉で、未来は別々のものになった。
私の仕事は、辞める前提なのか。家庭に入るのが当然なのか。
当時、私は仕事に就いて四年目。ようやくひとりで任される案件も増え、やりがいを感じ始めていた頃だった。
「君には家で子育てに専念してもらいたい。それが家族のためだと思うんだ」
「母さんもそうだったし、それが一番いい形だと思う」
亮の母親は専業主婦だった。それは彼女の選択であり、それ自体を否定するつもりはない。
でも、それを私にも当てはめようとする彼の考え方に、初めて違和感を覚えた。
「家庭はこうあるべき」という固定観念。
男性が外で働き、女性が家を守る。そういう役割分担が当然だという考えを、亮が譲ることはなかった。
話し合いを重ねるたび、私たちの間にある溝は深くなっていった。
──結局、私たちは別れた。
彼は理解できないという顔をしていたが、私も説明することに疲れていた。
そして後悔したことは一度もない。
木漏れ日が、また揺れた。
──
街路樹の先、美術館に入る。好きな画家の回顧展が開かれていると知り、久しぶりに時間を作ってここに来たのだ。
印象派の繊細な光の表現に見入っていると、背後から声がかかった。
「詠美?」
振り返ると、そこに亮がいた。
「亮……」
十五年ぶりの再会だ。少し白髪が混じり、顔に皺も増えたけれど、あの頃の面影は残っている。
「やっぱり君だった。
君がこの画家を好きだったこと、思い出してね。もしかしたら来ているんじゃないかと思って」
亮は少し照れたように笑う。
「少し、話さない?」
彼の左手の薬指には、指輪はなかった。
美術館のカフェで、私たちは庭が見える席に座る。亮と並ぶのはなんとも居心地がよくない。私は運ばれてきた紅茶に口をつける。
「……二回、結婚したんだけどね」
と亮が言った。
「どちらもダメだった。子供も二人いるけど」
私は驚いて彼を見た。
「俺の稼ぎだけで十分なはずなのに、二人ともわからないことを言う。
子供が生まれても仕事を続けたいとか、もっと家事を手伝ってほしいとか──
子育ては母親がするものだろう? 俺は一生懸命働いて、家族を養っていたのに」
彼の言葉を聞きながら、私はゆっくりとティーカップを置いた。
「亮、あなたは何も変わっていないのね」
「え?」
「あなたは自分の考えだけを押し付けているのよ。結婚も子育ても、相手を尊重してこそ成り立つものなの。
お金を稼ぐことだけが夫の役割じゃない。パートナーとして対等に向き合い、一緒に家庭を作っていくという意識がなければ、誰とも上手くいかないわ」
「でも、俺は……」
「あなたは『こうあるべき』という枠に相手をはめようとする。
でも人はそれぞれ違う。あなたの奥さんたちも、きっと自分の人生を大切にしたかっただけよ」
私は言葉を区切り、彼の目をまっすぐに見た。
亮は言葉を失い、ゆっくりコーヒーカップに視線を落とした。
店内の静けさが、ふたりのあいだの十五年の距離を際立たせる。
少しの沈黙の後、亮はぽつりと言った。
「……もしあのとき、俺がもっと違う考え方ができていたらさ……
俺たち、別れずに済んだのかな」
「どうかしらね。
少なくとも私は“私の人生”を大切にしたかった。それは今も変わらない」
そう言った後、小さくため息をつく。
「俺たち、もう一度やり直せないかな」
亮の声には、迷いと期待が入り混じっていた。
けれど、私は首を横に振った。
「私たちは街路樹みたいなものだと思う」
「街路樹?」
「私たちは、あの街路樹みたいなものよ。
道を隔てて平行に立っている。根は絡まないし、枝も交わらない。
その先でも、交わることはないの」
亮は静かに目を伏せた。
その横顔は、痛みというより受け入れに近かった。
私は席を立ち、カフェを出る。亮は呼び止めなかった。
もう、振り返らなかった。
街路樹の下をひとり歩く。風が強くなり、枯れた葉がいくつも舞い落ちてくる。季節は冬へと向かっている。
見上げると、すっかり葉が落ちた枝を透かして夕陽が空を染めている。
「もうあの日の木漏れ日はない」
そう呟きながら、私は前を向いて歩き続けた。 舗道に残る木漏れ日の記憶を踏みしめながら。
それは確かに美しかった。でも、もう戻れない過去だ。
私には私の道がある。それでいいのだと、今なら言える。
〈ささやかな約束〉
すっかり秋の空気になった土曜日の午後。
縁側のガラス戸越しに、直人と花菜が庭を駆け回る姿が見える。マンション暮らしの孫たちにとって、この庭は格好の遊び場だ。
二人とも汗ばんだ顔で、バケツとスコップを手に何やら真剣な表情で穴を掘っている。
「お母さん、これでお茶にしよう」
娘の菜穂子が洋菓子店の紙袋から焼き菓子を取り出した。
週末の午後、娘と孫たちが遊びに来るのはもう習慣のようなものだ。
キッチンで湯を沸かしながら、居間から聞こえてくる菜穂子のため息が気になった。
庭を走り回る子どもたちの声が窓越しに聞こえてくる。その賑やかさに紛れて、菜穂子はぽつりと口を開いた。
「……ねえ、お母さん。智人のことなんだけど」
私は湯飲みにお茶を注ぎながら娘を見た。
菜穂子は、子どもたちがいないのを確認してから、少し困り顔で言葉を続けた。
「週に一度くらい、一緒に買い物に行きたいんだけどね。
なんだか最近、夜は遅いし休みの日になるともうぐったりしたみたいに寝てばかりで。家族の時間って、どう作ればいいんだろうって」
「智人さん、仕事忙しいのね」
娘婿の智人は真面目な人だ。それだけに、仕事の負担も大きいのだろう。
「週に一度でいいから、家族みんなで買い物に行きたいのよ。
子供たちも、お父さんと一緒に出かけるの楽しみにしてるのに」
菜穂子の声には疲れが滲んでいた。
「仕事が忙しいのはもちろんわかってる。無理させたいわけじゃないし。
だけど…何か“家族の時間”ってものがほしいの。子どもたちだって、パパとどこか行きたいって思ってるはずだし」
娘の声が、少しだけ震えた。
私はどう返せば良いのか迷った。
「そうね……」
どう言葉をかけたものか。働き盛りの男性が疲れているのも理解できる。
でも、娘の気持ちもわかる。子供たちと過ごす時間は、あっという間に過ぎていくものだから。
ただ慰めるだけでは足りない。でも、具体的な解決策なんて簡単に思い当たらない。
ふと、自分の子供時代が頭をよぎった。
──
父は小さな印刷工場を営んでいた。母も一緒に働いていて、二人とも毎日遅くまで機械の音に囲まれていた。
休日といえば、父は居間の布団で昼過ぎまで寝ていた。母は溜まった家事に追われていた。友達の家のように、毎週どこかへ出かけることなんてなかった。
でも。
月に一度だけは、必ず家族で出かけた。動物園だったり、デパートだったり。
それが我が家の約束事だった。
帰り道、駅前のフルーツパーラーへ行く。
あの店の、ショーケースに並ぶ色とりどりの食品サンプル。
レモン、オレンジ、メロン、いちご……どれにしようか迷う時間さえ、特別だった。
冷たいシャーベットが口の中で溶けるたび、私は幸せだと思った。父と母の優しい笑顔。
三人でテーブルを囲む、あの静かな時間。普段は忙しくて構ってもらえなくても、あのささやかな約束事があったから、私は愛されていると信じることができた。寂しくなかったのだと、大人になってわかった。
──
「菜穂子、あのね……」
私が口を開きかけたとき、庭から子供たちの声が聞こえた。
「おばあちゃん、のど乾いたー」
「お茶ちょうだい!」
縁側の戸が勢いよく開いて、直人と花菜が駆け込んできた。二人とも顔を真っ赤にして、息を弾ませている。
「はいはい、今持ってくるわ。手を洗っておいで」
私は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。二人はそれを一気に飲み干す。
「ねえ、おばあちゃん」と、花菜が言った。「パパ、何時に来るの?」
「パパは今日は来ないでしょう」と菜穂子が答える。
「疲れてるから、お家で休んでるのよ」
直人がテーブルのお菓子をつまみながら、思い出したように言った。
「そういえばさ、パパとの“アイスの日”って、いつにするの?」
菜穂子の手がぴたりと止まった。
「……え? なに、それ」
花菜が口の周りにクッキーの粉砂糖をつけながら続けた。
「この前、パパにお願いしたの。パパ、ちょっと考えてたよ?」
直人もうなずき、得意げに説明を始めた。
「この前ね、パパが休みの日にずっと寝てたでしょ?
で、ママがちょっとさみしそうだったからさ。パパに言ったんだよ。
『休みの日に何するか、決めればいいんじゃない?』って」
「そしたらね!」
花菜が身を乗り出す。
「“月に一度なら、公園のベンチでアイスくらい食べに行けるかも”って言ったんだよ!」
私は思わず微笑んでしまった。
なんて無理のない、かわいらしい提案だろう。
そして何より──子どもたちが、自分たちなりに家族のことを考えていることに胸を打たれた。
菜穂子は驚いたように二人を見つめ、それから小さく息を呑んだ。
「……そんな話、してたの?」
「うん!」
直人が胸を張る。
花菜が続ける。
「“アイスの日”って名前つけるの。
月に一回だけの、特別な日!」
菜穂子は言葉を失ったまま、二人の頭をなでた。
その目は少し潤んでいるように見えた。
私は静かに言った。
「良かったじゃない。無理しなくていい、小さな約束。
そういうものがね、一番長く続くのよ」
菜穂子はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
「……うん。そうだね。アイスの日、いいね」
二人は庭に戻っていった。残された居間で、菜穂子と私は顔を見合わせた。
「……あの人、子どもたちと約束してたのね」
菜穂子が小さく呟く。
「智人さんなりに、考えてくれてるんじゃないかしら」
私は娘の肩にそっと手を置いた。
「毎週じゃなくても、月に一度の約束事。
それだけで、子供の心には残るものよ。私もそうだった」
菜穂子の目に、じんわりと涙が浮かんでいた。
「お母さん……」
「きっと智人さんも、精一杯やろうとしてるのよ。
ただ疲れてるだけで」
湯呑みを持つ手に、少し力を込める。
「たとえささやかでも、約束があるということ。
それが子供にとっては、愛されている証になるの」
庭では、孫たちの笑い声が響いている。
「そっか……」
菜穂子が窓の外を見て、小さく笑った。
「毎週じゃなくても、いいのかもね。
月に一度でも、確かな約束があれば」
「そう。あなたたち親子にとっての、約束ができればいいのよ」
菜穂子は深く息を吐いて、ようやく穏やかな表情になった。
「ありがとう、お母さん。今夜、智人とちゃんと話してみる」
私は頷いて、もう一度お茶を注いだ。庭からは、また子供たちの元気な声が聞こえてくる。
ささやかな約束事は、時を超えて、親から子へ、子から孫へと受け継がれていく。それは決して大げさなものでなくていい。ただ確かに、そこにあり続けることが大切なのだ。
秋の午後の陽射しが、居間を優しく照らしていた。
──────
うちも週末家族でお出かけというのはない家庭でした。
私の思い出は、某パーラーのメロンシャーベットです。