〈手放した時間〉
「パパ、誕生日プレゼント、試合のチケットじゃだめ?」
息子の大輝がそう言ったとき、俺は思わず妻の顔を見た。妻は微笑んで頷いた。
──
六年以上前、結婚して子供ができたとわかった日から、俺は球場から遠ざかっていた。
学生時代、毎週のように通った地元プロ野球球団の試合。あの熱狂、歓声、連帯感。それらすべてを、俺は手放したのだ。
息子が生まれ、娘が生まれ、週末は家族の予定で埋まり、気づけばもう何年も足を運んでいない。
妻は言ってくれる。「ひとりで行ってきなよ。たまには息抜きしてきなって」。
その優しさがありがたい反面、どうしても踏み出せなかった。
自分ひとりが楽しんでいいのか。昔と同じ気持ちで観戦ができる自信がなかった。
そのうち、SNSでフォロワーが親子連れで観戦している様子が流れてくるようになった。
親子連れで楽しむ様子がとてもうらやましく、「子連れ 野球観戦」などと検索してみる。
地元球団の公式アカウント、ファンの投稿、フォロワーの体験談……そこには、知らない間に進化していた球場の姿が広がっていた。敷地内に遊具が増え、キッズスペースが充実し、親子観戦専用のエリアまであるという。
「前と違って、子連れでも全然観戦しやすくなってるよ」
フォロワーのひとりがそうコメントしてくれた。
ただ、俺には一つひっかかっていた記憶があった。
学生時代、まだ若かった頃。
飽きてぐずっている子どもをあやす親。酔った客が向かって「飽きてきてるならスタンドから連れ出せよ」「声出させるなよ」と厳しく怒鳴ったり舌打ちする場面を見た。ぐずる子どもを抱いた親はすまなそうにスタンドを去り、ゲームセットまで戻ることはなかった。
子どもにあんな思いをさせたくない……あの空気に自分の子どもを連れて行く勇気が、どうしても出なかった。
──だから、俺は心に決めた。
大輝が野球を理解できるようになってから、一軍の試合を見せようと。
最初に連れて行ったのは、二軍の試合だった。観客もほどよく、スタンドの雰囲気も柔らかい。
球団の寮が併設されているこの球場は、選手との距離も近い。選手が近くを通ると、息子は小さな声で「こんにちは……」とつぶやき、選手がお辞儀してくれるだけで飛び跳ねて喜んだ。
何度か通ううち、ある若手選手が丁寧にサインをくれた日があり、そこから息子は一気に球団の大ファンになった。
家でもテレビの前に正座して、選手名鑑を片手に真剣な表情で試合を見るようになった。
──
誕生日プレゼントに試合のチケットがほしい──
大輝の言葉に驚いたが、嬉しかった。ようやく、この日が来たのだ。
妻は「行っておいでよ。せっかくだし、二人で行ってきなよ」と笑ってくれた。
娘はまだ二歳で長時間は難しいから、娘は妻と留守番。息子と二人、誕生日観戦デビューだ。
そして今日、大輝の六歳の誕生日。満を持しての観戦デビューだ。
試合はナイターだというのに、朝からレプリカユニフォームを着ている。背中にサインが入った、大輝のお気に入りだ。
球場に着くと、大輝のテンションは高くなる。二軍の球場とは段違いの賑やかさに、興奮を抑えきれない。
大輝が前から欲しいと言っていた、ユニのサインの主──桐山選手のタオルを買う。この球団は、とにかく選手グッズが多い。特に名前入りタオルは、全選手が揃っている。
「おお、隆さん久しぶり!
って、これが息子さん? こんなに大きくなったのか」
偶然会った応援仲間、坂本さんが感嘆の声を上げる。
学生時代からの知り合いにそう言われ、俺は照れくさくて頭をかいた。
「いいの着てるなぁ、桐山のサインか!
そういや今日、一軍登録されたぜ」
大輝の背中を見て、坂本さんが言う。大輝は目を丸くし、体を震わせる。
「パパ! 桐山くん、 一軍デビューだって!!」
「ハハハ、桐山も坊主と同じ初めての一軍だ。活躍するといいなぁ」
そのうち外野にも来いよ、と坂本さんが手を振る。
外野席の雰囲気も懐かしいが、今日は大輝の観戦がメインだ。
今日は落ち着いて観戦できるよう、内野席を選んだ。
席に着くと、隣には見覚えのある老夫婦が座っていて驚いた。二軍の球場で何度か顔を合わせている。
息子が桐山選手からサインをもらった日、彼が活躍したときには「この子、ラッキーボーイだねえ」と笑ってくれた人たちだ。
「うちの孫はサッカーの方がいいって、付き合ってくれないのよ。パパと一緒でいいわねぇ」
大輝は照れくさそうに身体を揺らした。
試合が進むと、桐山選手がついに一軍初出場で代走として送り出された。息子は立ち上がりそうになるのを必死でこらえ、目を輝かせてグラウンドを見つめる。
「パパ、桐山くんとコーチがなにか話してたよね。
あれ、ピッチャーのくせを見てるんだよ」
テレビで解説者が言ってたのを覚えているのだろう。
「次に走るよ!」
大輝が言ったのと同時に、桐山選手がスタートを切る。
そして──盗塁成功。
「やった!!」
息子は声を押し殺しながらも拳を握りしめ、俺も思わず立ち上がりそうになった。
「すごいなぁ、よく見てる」
「解説者も顔負けよね」
老夫婦が大輝に向けて拍手する。
その後、タイムリーヒットが出て、桐山選手がホームイン。初めての一軍で、初盗塁初得点となった。
ベンチに帰ってきたとき、大輝はびっくりするほど大きな声で
「桐山選手、いいぞー!」
と叫ぶ。聞こえたのか、こちらを向いて手を降ってくれた。
しかし、試合は先発が追いつかれ、逆転を許し、追いつけないままゲームセットを迎えた。
球場を包むため息。それが息子には重かったのだろう、座席でうずくまり、小さく泣き始めた。
「あんなにがんばってたのに負けちゃった……」
かける言葉が見つからない。俺がどうなぐさめるか戸惑っていると、隣の老夫婦が優しく話しかけた。
「惜しかったね、でもずっと勝つわけじゃないんだよ。向こうもプロなんだから。
惜しい試合って、全力で戦った証拠だよ」
「私ら、ずっと見てきたけど、勝って満足できた日なんて本当に数えるほどよ」
二人は相当試合を見てきたのだろう。一言ひとことに重みを感じる。
「でもね、負けてもまた“次こそは”って思って来ちゃうの。
それが野球なのよ」
息子は涙をぬぐい、ぐすっと鼻を鳴らした。その横顔を見ながら、俺の胸の奥もじんわり熱くなる。
──ああ、そうだ。これだ。
勝っても負けても、ここに来ると心が震えた。そんな時間を、俺はいつの間にか置き去りにしていたのだ。
「また会おうねぇ」と、老夫婦は帰っていった。
大輝の涙もすっかり乾き、二人に手を振っていた。
球場をあとにする帰り道、大輝は悔しさをかみしめるように話し出した。
「今日負けたのってさ、先発の替えどき、まちがえてたよね。
投手、ひっぱりすぎだよ……」
まだ幼いのに、小さな体をめいっぱい使って、悔しさも興奮も全部言葉にしている。
その様子を見ながら、ふと思った。
自分が楽しい、悔しい、嬉しいと思えることを、息子と共有できる。
じわじわと、心の底に湧き起こる感情。
──父さんも、こんな気持ちだったのかな。
手をつないで歩く大輝の掌は、小さくて、温かかった。
その温もりに、昔の記憶が重なる。
父に引かれて歩いた球場帰りの道、悔しくて泣いた日のこと、うれしくて眠れなかった夜のこと。
手放してしまったと思っていた時間が、再びこの手に帰ってきた──
そう実感しながら、俺たちは家路へと向かった。
──────
登場する球団や選手に特定のモデルはありません。ありませんてば。
うちの子どもたちを球場に連れて行った頃は、土日でも当日券が買えるぐらいガラガラでした。
あの球団、親会社変わってからホントに観戦しやすくなりましたよねぇ……トイレがすごくきれいになってびっくりしました。
動員数が爆発的に増えたのも頷けます。チケット取るの大変ですけどね。
〈紅の記憶〉
通夜の夜、私は斎場の広間で独り座っている。喪主として、独り寝ずの番だ。
線香の煙がゆるやかに天井へと溶けていく。ずいぶん長いこと、こんな静かな夜を過ごしていなかったように思う。
物言わぬ母の横で、息子としての最後の夜を過ごす。
母が亡くなったのは、ほんの数日前。風邪をこじらせ、あっという間のことだった。
葬儀の段取りで役所や斎場を回ったとき、妻が「大丈夫?」と何度も気遣ってくれた。
その車の中で、私はふと口にしていた。
「お前にもずっと苦労をかけたな。
母さんを家で見ていた頃、デイサービスの手続きもお前がほとんどやってくれて……」
妻はハンドルを握りながら、少しだけ肩をすくめた。
「……正直、大変だったわね。パートの時間を調整したり、急に呼び出されたり。
でもね、お義母さん、私の顔は最後まで覚えていてくれたの。あれだけでも救われた気がする」
その言葉に胸が熱くなった。
母は、私の名前を忘れても、妻のことは覚えていた。
きっと、妻に世話になっている自覚がどこかに残っていたのだろう。
「本当に、ありがとうな」
「今さら。本番はこれからよ」
私の言葉に、妻は少し目を赤くして笑った。
──
母は父が亡くなったあたりから少しずつ記憶を取りこぼし、赤子に返っていた。
ここ数年はもう、私の名前も存在も思い出せなくなっていた。施設に預けてからは毎週末顔を見に行ったが、行くたびに表情の輪郭が消えていく。
それでも、私の手を握ろうとする仕草だけはどこかで覚えているようで、そのたび胸が締めつけられた。
ある週、美容ボランティアの人が来て、母に化粧をしてくれたことがあった。
母は手鏡をのぞき込んではにこやかに笑っていた。
明るい色をのせると気持ちが上向くんですよ、と説明されたが、ピンクの口紅はどこか母らしくなかった。
帰り道に妻に話すと、「可愛いじゃない、年配の方はああいう色が似合うのよ」と笑われた。
──けれど、どうしても違和感があった。
私の記憶に残る母の口紅は、もっと強い、真紅の色だ。
──
あの記憶がいつだったのか、はっきりしない。
今日こうして棺に眠る母を前にしても思い出せず、まぶたを閉じても霧のように散ってしまう。
──真っ赤な口紅。
母の唇が、あんな色をしていた日があっただろうか。
広間の灯りに照らされた棺に目をやる。死化粧は上品で控えめな色だ。
スタッフの人に「もう少し赤い口紅を」と頼んだとき、「最後に見るお顔は、派手にしないほうが印象が穏やかですよ」と諭された。
私が食い下がると、妻にも「お母さんに合う綺麗な色を選んでくださったんだから」とたしなめられた。
確かに、その通りなのだろう。けれど、どうしても胸の奥に引っかかる。
私が覚えている母は、あんな優しい色の人ではなかった気がする。もっと強い、凛とした紅をまとっていた。
……いつだ。あれは、いつの母だ。
横になって考えるうちに、ゆっくりと夜が明けはじめる。窓から淡い朱色の光が差し込んできた。光は部屋を染め、ぼんやりと母の顔を照らす。
死化粧の薄い色が、朝焼けに染められてほんのり赤く見えた。
あの日、鏡台の前で見た紅のように。
体を起こして遠い記憶を手繰り寄せた瞬間、ふと胸の奥に風が通った。
──幼い頃の、ある朝。
私はまだ夜と朝の境目がわからない時間に目を覚まし、横で寝ているはずの母がいないことに気づく。
母を探してまだ廊下に出ると、襖の隙間から小さな灯の揺れを感じた。覗き込むと、鏡台の前で口紅を引いていた母の姿があった。
真っ赤な、私が見たこともないような色だった。
母は気づかず、鏡に向かってただじっとしていた。目元がわずかに濡れていて、口紅をもつ手が小さく震えていた。
その時、障子の向こうがふいに赤く染まり、朝焼けの光が鏡台に跳ね返って、母の横顔を照らした。
──赤い唇。
ひどく綺麗で、まるで別人のように見えた。
私は怖くなって部屋に戻り、布団にもぐり込んだ。そのあとの記憶はない。
けれどもうひとつ、思い出した光景がある。
買い物帰りに、母が知らない男の人と再会した日もあった。
母は私の手を握りながらどこかぎこちなく、けれど少し嬉しそうに言葉を交わしていた。
胸の奥で、静かに何かがほどけていく。
今思えば、あの口紅と繋がる何かがあったのかもしれない。
母は、母であろうとしながら、きっと女としての時間もどこかで生きていたのだ。
私はそのすべてを知らずに、母をただ“母”とだけ呼んできた。
施設で口紅を引いてもらい、何度も手鏡に笑いかけていた母の笑顔が再び目に浮かぶ。
誰も干渉しない母だけの世界で、恋する少女になっていたのかもしれない。
──
朝になり、妻が家から着替えと朝食の握り飯を持ってきた。
「眠れた? 目が真っ赤よ」
「いいや」
温かい茶を飲み、ため息をつく。
「そういえば、昨日お焼香だけで帰られた方いらっしゃったよね。
結局誰かわかった?」
そうだ。弔問客とのやりとりに気を取られていたが、受付を締めた後の遅い時間に年配の男性が焼香して帰った。通夜ぶるまいも断られたと葬儀社の担当者が言っていた。
顔も思い出せない、父の知り合いかと思っていた。
「記帳していただかなかったし、お香典にも住所書かれてなかったし。
誰に訊けばわかるかしら……」
母の友人に名前を言えば、誰かわかるのかもしれない。
けれど、その影を深追いするのはやめた。これは母の人生で、母の物語なのだから。
朝の光が強まり、棺の中の母の唇がいっそう赤くかすんで見えた。
私はそっと手を合わせる。
──母さん。
その紅の記憶だけは、きっと忘れない。
──────
主人公、淡々と語りますけど奥さんがしっかりサポートしたおかげでは🤔(セルフツッコミ
近頃の斎場って、ホテルと思うような豪華さの客室があるんですよ。しかも朝食付。設備近隣のファミレスの朝食券ですけどね。
〈夢の断片(かけら)〉
夫が逝って半年ほど経った頃、私は自分の終活を始めることにした。
五歳年上だった夫は几帳面な人で、自分の死後の書類や手続きもきちんと整理していた。その姿をそばで見ていたから、私も同じようにしなければと思ったのだ。
けれど、押し入れの奥から取り出した古いノートを開いた瞬間、私は手を止めた。
表紙には「レシピ帳」と書かれている。中学生の頃の、少し背伸びした丸文字だ。
ページをめくると、ショートケーキ、モンブラン、シュークリーム。黄ばんでしまった雑誌の切り抜きの横に、丁寧に書き写したレシピが並んでいる。
高校生になると、ミルフィーユなど新しめの名前も出てくる。雑誌でしか見たことがないケーキでも、材料や作り方を推測して書いている。
定番のレシピにも自分なりのアレンジが加わっていた。
「レモンの皮を入れたら爽やかになるかも」
「クリームにラム酒を少し」
──その頃の私の声が、そのまま閉じ込められていた。
大学ノートに変わったページには、製菓学校の資料請求先がメモされている。その下に、小さな文字で「無理だよね」とあった。
「おばあちゃん、何見てるの?」
振り返ると、部屋の入り口から孫の由真がのぞき込んでいる。高校二年生の彼女は、スマートフォンを手に私の隣へとやって来た。
「昔のレシピノートを見てたのよ。懐かしくてね」
「すごい……おばあちゃん、こんなにいっぱい」
由真が珍しそうに古びたページをめくる。
「若い頃はね。ケーキ屋さんになりたかったの」
「え、本当に?
パパが冗談で言ってたけど、あれ本当だったんだ」
私は笑って首を振った。
「冗談よ。ただの夢。
でもね、七歳の誕生日に叔母が都会のお店で生クリームのケーキを買ってきてくれて……
あの頃はバタークリームが普通だったから、あの味は魔法みたいだったの」
「それで、ケーキ屋さんになりたいって?」
「ええ。でも高校を卒業する頃には家計が厳しくてね。弟たちもいたし……
製菓学校なんて夢のまた夢だったわ」
由真はノートを愛おしそうに撫でた。
「でも、おばあちゃんのケーキ、プロ級だよ。
この前焼いてくれたパウンドケーキ、友達と食べたら“どこのお店の?”って聞かれたくらい」
「お世辞でしょう」
「本当だよ。
小さい頃からパパがずっと「おばあちゃんはケーキ屋さんだった」って言ってたの、ずっと信じていたもん」
息子の優しい嘘が、こんなふうに由真の中で育っていたなんて。
胸が少しあたたかくなった。
そこへ、買い物から帰ってきた由香さんが紙袋を抱えて入ってきた。
「由真、進路調査のプリント書いたの?」
「まだだよ。そんなに早く決められないって」
「面談までには決めなさいよ」
由真は、わかってるよとでも言いたげに唇を尖らせた。
「お義母さん、駅前でモンブラン買ってきたので、お茶にしましょう」
「あら、アベなんとかってお店?」
「『アヴェニール ラディユー』ですよ」
私と由香さんは、よく一緒に新しい店のスイーツを味わっては感想を言い合っていた。
由香さんは私のお菓子作りをいつも喜んでくれる、気の合う嫁だ。
「これ、栗の風味が濃厚ね」
「本当ですね。でも私、お義母さんのモンブランも大好きですよ」
「栗の初物も出てきたし、作ろうかしら」
モンブランを見つめていた由真が、ふいに顔を上げた。
「ねえ、おばあちゃん。一緒に動画作ろうよ」
「動画?」
「そのノートのレシピでケーキ作って、動画サイトにあげるの。
絶対ウケるって」
由真がスマホでケーキ動画を見せてくれる。画面の中では、様々なケーキがきびきびと作り上げられていく。
「そんな、私なんか……」
「やろう? お願い」
由真のまっすぐな瞳に押されて、私は小さく頷いていた。
翌週、撮影を始める。
「はい、じゃあ始めます。ともえです」
「ゆまぴーです!」
カメラに向かって手を振るなんて初めてで、私は少し恥ずかしかった。
「今日は、昔のレシピノートから、いちごのショートケーキを作ります」
私はゆっくりとスポンジを焼き、生クリームを泡立てた。手が震えてデコレーションに時間がかかると、由真が笑いながら言う。
「焦らなくて大丈夫だよ。ゆっくりでいいし、失敗しても編集しちゃうから」
最後に、由香さんがマジパンで作ってくれた“私”と「チャンネル登録してね」のプレートを飾ると、画面越しでも嬉しくなるような一皿になった。
「美味しそう!」
撮影を終え、由真が親指を立てる。
私たちは紅茶でささやかな打ち上げをした。
「動画、編集できたよ。アップしていい?」
「え、もう?」
「うん。絶対、みんな喜んでくれるよ」
数日後、最初の動画は千回再生を超え、コメント欄は優しさでいっぱいになった。
「おばあちゃんの手つきが丁寧で癒されます」
「レシピ、真似して作ってみます!」
由真は撮影の角度を研究し、BGMを選び、編集の技術をどんどん磨いていった。
私は、忘れていた記憶を拾い集めるようにレシピ帳をめくり続けた。
三ヶ月後、チャンネル登録者数は一万人を突破した。
相変わらず、コメント欄は優しい。
「ともえさんケーキ、どこに行けば食べられますか!w」
「ゆまぴー、ウラヤマシス」
一つ一つ読むたびに、頬が緩む。
動画サイトを見ている私の横で、由真がぽつりと呟く。
「私、勉強したいことが見えてきた気がする」
「えっ?」
「フードコーディネーターっていうのかな。
それだけ目指すのも難しいけどさ」
由真は、色んな学校の資料をテーブルの上に並べる。
「ケーキをどう撮るか、どう見せるかを考えるの、すっごく楽しくて……
最初はただバズらせたいだけだったけど、色々研究するうちにやりたいことが見えてきたっていうか」
私は驚きながらも、胸の奥が熱くなった。
「おばあちゃんが夢を完全には捨ててなかったから、私も気づけたの。
ありがとう」
照れながら笑う由真の瞳は、未来に向けて輝いていた。
画面の向こうで、誰かが私のレシピで笑顔になっている。
私はケーキ屋にはならなかった。けれど、私の夢のかけらが由真の道しるべになり、ケーキで誰かを幸せにできた──
それは、七歳の私が思い描いた夢よりも、ずっと大きな幸せだった。
世の中は、新しいケーキが増え続けている。私もまた、新しくレシピノートを作ろう。
ノートの最初のページに、私は万年筆を走らせた。
「夢は、かけらのままでも光を放つことができる」
──────
またおばあちゃんと孫です。同居してお嫁さんと仲がいいシリーズです。
ファンタジー()でいいの、私が読みたいんだから(
つーか、こういうの書くとケーキ食べたくなるのよねぇ……
〈見えない未来へ〉
離婚届を折らないように透明なクリアファイルへ滑り込ませ、カバンにしまう。
役所を出た瞬間、ひんやりとした風が頬を刺した。深い呼吸が喉の奥で震え、長く重たかった時間がようやくほどけ始める。
結婚してから住んだのは、私の実家から二十分程度のところだった。
子どもが生まれたら母に手を貸してもらえるように──“そうなるはずの未来”を疑いもせずに描いていた。
でも未来は一度も私たちのほうを向いてはくれなかった。
──
夫への違和感は、些細な日常の継ぎ目から漏れた。
遅くなることが増えた帰宅。増えていく「今日は出張で泊まる」という連絡。帰宅後すぐに浴室へ向かう足早な背中。浴室から聞こえてくる、ひそやかに返信する気配。
問いただす前に、確かな形を集めようと私は静かに動いた。
夫が無防備にごみ箱に捨てていたクレジット明細。見覚えのないレストランの名前。日付も時間も、夫の言う出張と一致しない。
出張の夜のスマホの位置情報は、県外にも職場にもない場所に灯りをともしていた。
そして深夜、夫が寝たあとに画面に残っていた短い通知。「早く会いたい」。
そこまで揃えば、もう見なかったことにはできない。私はもう目をそらさず、スマホで探偵事務所を検索した。
──
対峙したのは、雨の音が強くなり始めた土曜の夕方だった。不倫相手のところにも、内容証明が届いている頃だ。
夫がリビングでTVをつけたままぼんやりしていたので、私は窓際のテーブルに探偵事務所からの報告書やクレジット明細、夫のスマホ画面を撮影した画像を静かに並べた。
「話したいことがあるの」
その言い方だけで、夫は何かを察したのだろう。リモコンを置き、姿勢を正すでもなく、ただ少しだけ眉が動いた。
「これ、見てくれる?」
私が証拠を差し出すと、夫は一枚ずつ目を通した。
表情は、変わらなかった。驚きも、言い訳の気配も見せなかった。ただ、逃げ場を探すように視線だけが揺れた。
「……誰?」
静かに問いかけると、ほんの一拍ののち、夫は小さな声で言った。
「……会社の人だ」
報告書に書かれていることとは違う。ため息が出る。
「その“会社の人”と、この店に行ったんだよね。それから──ここ。」
私はスマホの画面を示した。
不倫相手の住所に夫の位置情報の点が記された地図、そして短い通知の文。夫は視線を逸らし、両手を膝の上で組んだ。
「いつから?」
「……去年の秋くらい」
あまりにも淡々とした声だった。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに切れた気がした。もう戻れないところまで来ているのだと腑に落ちた。
「妊活を始めた頃だよね」
泣きそうになるのを懸命にこらえ、夫の表情を伺いながら尋ねる。
「私たち、子どものこと、ずっと頑張ってたよね。
あなたも“欲しい”って言ってたよね」
夫は黙ったまま俯き、答えは返ってこなかった。
その沈黙こそが、私たちの関係の終点を告げていた。
「……離婚しよう。
何をどう取り繕われても、もう一緒には歩けない」
ふたりの間に、雨の音が落ちていく。
夫はほんの少し肩を震わせ、そしてあきらめたように目を閉じた。
「……悪かった」
その謝罪は、不思議なほど軽かった。
軽さが悪いのではなく、そこに“戻りたい”という意思が一つも含まれていなかった。その事実を、私は静かに受け入れた。
──
役所を出たあと、気がつけば私は川のそばまで歩いていた。
ここは子どものころ、友達と石を投げ、水切りをして遊んだ場所だ。夕暮れの光に照らされる水面が、懐かしい記憶を鮮やかに呼び起こす。
あの頃の私は、未来は無限に続いていると思っていた。結婚して、家族が増えて、笑い声に満ちた生活を築くと疑いもしていなかった。
“幸せな未来”を当然のように描いていた自分が、今の私を見たらどう言うだろう。
「よく頑張ったね」か。「早く逃げて」か。それとも、黙って抱きしめるだけか。
どれでもいい。どれも正しい気がした。
川面に視線を落としていたときだった。
「……薫、だよな?」
ふり返ると、そこには修平が立っていた。小学校の同級生。
互いに距離を保ちながら、軽い挨拶を交わす。
「久しぶり。こんなとこ来るんだな」
「修平こそ」
沈黙が気まずくなく、むしろ落ち着いた。
私はふと、今の自分を隠す気になれなくなっていた。
「……離婚するのよ。今、届けもらってきたところ」
修平は驚きすぎず、同情しすぎず、ただ受け止めるように頷いた。
「大変だったな」
その一言に、肩の力が抜けた。
「俺も最近、会社辞めたところ。
ブラックな会社で消耗してて、未来なんて全然見えないよ」
「そうなんだ」
「まあ……そういう時もあるよな」
互いに踏み込みすぎない距離。けれど十分に温度のある言葉。
夕陽が沈みきるころ、修平がふと空を見上げて言った。
「薫。落ち着いたらでいいけど……どっかでコーヒーでも飲もうか。話したくなったらでいい」
「この辺に住んでる奴らを誘って、飲み明かすんでもいい」
期待も圧もない、静かな提案だった。
「……うん。落ち着いたら」
そう返すと、修平は一度だけ頷き、去っていった。
残された私は、カバンの中のクリアファイルが鳴る音を聞きながら歩き出す。
未来はまだ見えない。でも、見えないからこそ選び直せる。
夫の不倫相手との”バトル”も待っているから、立ち止まっている場合ではない。むしろ、その事実が私の背筋を伸ばす。
“見えない未来へ”。
その言葉が、少しだけ前向きに胸の中で灯った。
──────
もっとドロドロしたり長期化するかもしれないけど、ほら読後感すっきりするために、淡々としないと。
(表現力のなさを露呈する
〈吹き抜ける風〉
風が冷たい。三月の終わりとはいえ、山あいの町はまだ冬を手放しきれずにいる。
私は古びた校門の前で立ち止まり、ゆっくり息を吸った。かつて朝の声が満ちていた場所。
今はただ、吹き抜ける風だけが通り過ぎていく。三十五年前、初めてこの学校に赴任したときと同じように。あの日も、こんな風が吹いていただろうか。
明日、この校舎は取り壊される。
「清原先生、鍵、開けますね」
隣には元木──私がこの中学校に初めて赴任した年、初めて担任したクラスにいた教え子が立っている。
今では立派な中年男性になって、市役所に勤めている。管理課の職員として、この廃校の最期を見届ける。
「忙しいのに、すまんな」
「いえ。先生の初任校ですから。
俺もやることあるんで」
しばらく開け閉めしていなかったせいか、少し錆びた鍵が重い音を立てて回る。扉が開き、冷えた校舎の空気が押し寄せてきた。
薄暗い校舎はかつての喧騒を失い、時を止めていた。
「少子化の影響もあるんですが、校舎自体がもう古くて耐震基準に見合わないんですわ。
再利用も検討したんですが」
市内の人口も減っている。時代の流れだ、仕方ない。
「先生はゆっくり回ってきてください。俺は設備の最終確認してきます」
そう言って、元木は事務室へ消えていく。
私は、ひとりになった廊下を歩き出した。埃と共に、ここでの記憶も舞い上がってくる。
最初に立ち寄ったのは、理科室。窓際に並んだ人体模型が、私を見下ろしている。
ここで若い理科教師と夜遅くまで教材研究をした。教科書だけでは学べない、興味から学びへ結びつけるためのアイデアを出し合った。
彼は今、どこで何をしているだろう。
音楽室。ピアノは撤去されたが、壁に貼られた作曲家の肖像画はそのままでひっそりと見守っている。
合唱コンクールの練習で、クラスが思うようにまとまらず指揮者の女子生徒が泣いていた。茶化していた男子生徒たちは彼女の涙に動じることはなかったが、最終的には女子たちにやりこめられ、まとまっていた。
コンクールで見事に歌い上げたあとには、達成感から感極まって泣く男子もいたくらいだ。
放課後の家庭科室では、思春期の女子たちがいつも小さく固まっておしゃべりをしていた。
テレビやドラマ、アイドルの話。人間関係、家族との付き合い方、秘密の恋……
もちろん、トラブルもあった。彼ら彼女らのキャパシティを超え、どうにもならなくて仲裁に入ったことも多かった。
「人を傷つける言葉は、思っているより長く残る。大人でも忘れられないことがある。
君たちは、それを知ったうえで選べる人になってほしい」
思春期の心の揺れは厄介だが、その分だけまっすぐだった。
若さの揺らぎ、その真っ只中で、不安や恥ずかしさと闘っている姿が愛おしかった。
階段を上がる。手すりは冷たく、滑らかだ。何千人もの子どもたちが、ここを駆け上がり、駆け下りた。
元木がどこかの窓を開けたのだろう、吹き抜ける風が廊下を渡り、私の頬をなでる。
私もまた、様々な学校を渡り歩いた。風のように、一つの場所に留まることなく。
この学校で過ごした数年間が、教師としての私を形作った。
風に流されるように、けれど確かに自分の足で歩きながら、いくつもの中学校を巡ってきた。
そのたび生徒たちと衝突し、笑い、泣き、また次の学校へ旅立っていった。
そんなことを思い出しながら、最後の教室の前に立った。
初めて担任を持ったクラス。元木もこの部屋で机を並べていた。
ドアに手をかけた瞬間、胸が強く締めつけられた。
だが、ゆっくりと開けると──
「せんせー、遅いよ!」
声が弾けた。
私は固まった。
整えられた机のほとんどに、大人になった教え子たちが座っていた。
卒業した年の生徒だけでなく、私がこの学校にいた数年の間の下級生たちまでいる。十数人、二十人……いや、それ以上だ。
最前列には元木が立っていた。どこか誇らしげに。
「三日前に先生から電話もらったとき、集まれるやつに声かけたんです。
来られないやつもいるけど……ほら」
何人かが、スマホやタブレットを持っている。ビデオ通話や会議システムの向こうで、何人もの顔が笑っていた。
「先生ぇ、聞こえる?」
「おーい、清原先生!」
「遅刻したら怒られるの、先生の方だな!」
思春期の頃と変わらない軽口が飛び交う。
笑い声が、風と一緒に胸の奥まで入り込んできて、言葉を奪った。
「……お前ら」
やっと出た言葉はそれだけ。
だが彼らは、あの頃と同じように嬉しそうに笑った。
私は教卓の前に立った。かつて何千回も立った場所。長い教師人生で、何度もした姿勢が自然と体に戻る。
黒板には、誰かが書いたのだろう、「最後の授業」という文字があった。
「最後の授業をしよう」
静まり返る教室。
胸が熱くなり、目が滲む。
「──私は教師として、君たちに何かを教えてきたつもりだった。
けれど、思春期の揺れる心と向き合い、学ばせてもらったのは、私の方だった。
ぶつかり、悩み、励まし合い……私がここまで来られたのは、君たちがいたからだ」
風がまた窓から吹き抜ける。
まるで私の言葉に応えるように、優しく、とてもあたたかく。
「ありがとう。私は幸せな教師だったよ。
今日まで歩いてこられたのは、間違いなく君たちのおかげだ」
拍手が、波のように広がった。
画面の向こうからも、遠い街からも、同じ音が響いた。
「先生、最後に一つだけ、いいですか」
元木が言った。
「この学校は明日なくなります。
でも、先生がここで教えてくれたことは、俺たちの中に残ってる。それって、すごいことですよね」
そうだそうだと、生徒たちが皆思い出を語り始める。忘れがたい、セピア色に変わり始めている思い出たち──
私はそっと目を閉じる。
吹き抜ける風の中に、自分の歩いてきたすべての季節があった。
私は風だった。一つの場所に留まらず、様々な学校を巡った。
でも今、改めて認識する。
風として私が運んでいたのは、ここで学んだすべてだったのだと。この教室で初めて「先生」と呼ばれたときの、あの感動だったのだと。
そして今、この教室いっぱいの笑顔が、私の最後の授業を照らしていた。
吹き抜ける風の中で、私は最後の礼をした。
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夢路行氏「あの山越えて」という作品があります。
リアルでもあるし、現代の学校ものとしてはある意味ファンタジーなのかもしれない作品です。
でも、親身になってくれる教師が奮闘するお話は、読んだあと自分の子供の頃の担任を思い出してしんみりします。
今は先生の負担が大きすぎますよね……