〈霜降る朝〉
「霜が降りてるから気をつけなさいよ」
玄関で靴を履いていると、母の声が背中に届いた。振り返ると、母は庭に面した窓際に立って、外に出しっぱなしにしていた鉢植えを心配そうに眺めている。シクラメンだったか、それともパンジーだったか。母が大事にしている冬の花だ。
「大丈夫だよ」
適当に返事をして外に出ると、確かに霜が降りていた。駐輪場に停めてあるバイクのシートは、薄く白い粉を吹いたようだ。息は白く、手がかじかむ。
エンジンをかけ、暖気しているあいだにシートの霜を手で払う。濡れた手袋が冷たい。
ヘルメットをかぶりながら、高校時代の国語の授業をふと思い出した。
霜降——しもふり、じゃない。そうこう。二十四節気のひとつだと、あの頃の国語教師が黒板に書いていた。「霜が降り始める頃」という意味らしい。
「肉かよ」とクラスの誰かが言って、みんなで笑ったことを覚えている。
暦では十月下旬頃で、旧暦と今の暦では季節が少しずれているのだと先生は真面目な顔で説明していた。
あの先生は、季節を表す言葉をよく授業中に紹介してくれた。なんの話の流れだったかと「枕草子」を思い出す。
「冬はつとめて」。
冬は早朝がよい、という意味だ。つとめて、という一節を「勤めて」だと思っていた俺は、冬は仕事するのがいいのか?と首を傾げた。
違う、明け方という意味だと先生に訂正されて、「なんだそりゃ」と思ったのを覚えている。
雪の降り積もった朝、炭火の白く消えかかっているのもよい——そんな内容だったか。正直、当時の俺にはピンと来なかった。試験のために暗記しただけで、清少納言が何を感じていたのか、まるで分からなかった。
バイクにまたがり、ゆっくりとアクセルを開ける。住宅街の狭い道を抜けて大通りに出ると、風が頬を叩き、鼻の奥につんとした冷たさが染み込んでくる。凍てついた空気が肺に入り込む感触。
ああ、これか。
信号待ちで止まりながら、ぼんやりと思った。
冬の早朝の、この張り詰めた空気。白く息が凍る感覚。世界が一瞬、静止したような静けさ。清少納言が言いたかったのは、こういうことだったのかもしれない。
あの頃には分からなかった。教室の中で、暖房の効いた空気に守られながら教科書を眺めていただけでは。
外に出て、冷たい風に身を晒して、初めて知る感覚がある。
信号が青に変わる。アクセルを開けて走り出しながら、俺は少しだけ笑った。
あの頃の自分に教えてやりたい。お前が暗記している言葉は、ただの文字じゃない。いつか分かる日が来るから、と。
でも、きっとあの頃の俺は信じなかっただろう。試験が終われば忘れる古文の一節が、何年も後の冬の朝に、こんなふうに蘇るなんて。
会社までの道のりは、いつもと変わらない。それでも今朝は、ほんの少しだけ違って見えた。霜の降りた屋根、吐く息の白さ。二十代も終わりに近づいて、ようやく知ることがある。時間をかけて、ゆっくりと分かっていくことがある。
バイクは冷たい風を切って、朝の街を走り抜けていく。
冬はつとめて。
声に出して呟いてみる。ヘルメットの中で、言葉が小さく響いた。
──────
こちらはまだ霜は降りてません。
そろそろ多肉植物の鉢を室内に入れないと思いつつ、実際に霜が降りるまで放置しそう……
〈心の深呼吸〉
会議室の空気は、いつもより冷たく張りつめていた。
プロジェクターが放つ青白い光が、私の膝の上で揺れている。メモを握った手のひらには、じっとり汗が滲んでいた。
「……森さん、聞こえないよ」
部長の声に肩が跳ねた。私は喉に力を込めて、もう一度報告書の説明を試みる。自分では精一杯声を張っているつもりなのに、どうしても声が通らない。
喉の奥が急に細くなったようで、声が出ない。いや、出そうとしているのに、空気が少しも動かない。唇だけが空回りする。
「声が小さいんだよ、いつも。
ささやいてる場合じゃないだろ」
会議室の空気が重くなる。十数人の視線が私に集中している。頭の中が真っ白になった。
「部長、私から補足しますね」
右隣から柔らかい声が上がった。大林先輩だ。
落ち着いた口調のまま、私の代わりに説明を続けてくれる。その声を聞いて、張りつめていた空気がほんの少し緩むのがわかった。
部長は満足げに頷いたが、私の息苦しさは変わらないままだった。
──
昼休み、社員食堂で先輩と向かい合って座った。お茶の湯気がぼんやりと立ちのぼる。
「……さっきは、本当にありがとうございました」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「いいのよ。
むしろ、あなた少し休んだほうがいいんじゃない?」
先輩の言葉に、また息が浅くなる。
休む、なんて。仕事が山のように残っているのに?プロジェクトの締め切りも迫っている。
「……大丈夫だと思います。
ちょっと緊張しただけで」
そう言うと、先輩はじっと私を見つめた。目は優しいのに、どこか見透かされているような感じがする。
「このごろ、眠れてないでしょ?」
「え……」
図星だった。ここ数週間、布団に入っても目が冴えて、眠りについても夜中に何度も目が覚める。朝起きても体が重くて、疲れが取れない。
「わかります?」
「わかるわよ。顔色も悪いし、目の下にクマもできてる。それに」
先輩は自分の胸に手を当てた。
「呼吸、浅くなってない?」
そういえば、いつも胸のあたりだけで息をしている。深く吸おうとしても、空気が肺の奥まで届かない感じがする。
「自律神経が乱れると呼吸が浅くなるのよ。
私も前にそうだったから。無意識に体が緊張しちゃうの」
その言葉で、ようやく気づいた。私は今、ずっと息を止めていたのだ。
仕事のこと、明日のこと、失敗のこと。そんなもので胸をいっぱいにして、息を吸うタイミングをなくしていたのかもしれない。
「深呼吸ってね、心にも効くんだよ。体だけじゃなくて」
「心の……深呼吸、ですか?」
「そう。
それにね、休むって悪いことじゃないから」
ふっと笑う先輩の顔を見ているだけで、少し楽になる。
「お隣、いいですか?」
後輩の小木谷さんがトレーを持って近づいてきた。
彼女は先輩と私の会話を聞いていたらしく、席に着くなり言った。
「リラックスって大事ですよね。
そうだ、私のリラクゼーション法、聞きます?」
「何してるの?」と先輩。
「一日ひとつ、きれいだと思ったものを写真に撮るんです。ほら」
小木谷さんはスマホを取り出して、カメラロールを見せてくれた。
朝の光を受けた街路樹、コンビニのカップスイーツ、おしゃれな看板。カフェのラテアート、夕焼けに染まるビルの窓。どれも日常の何気ない風景だけど、確かにきれいだった。
「何でもいいんですよ。あ、森さんのそのイヤリング、素敵ですね。撮ってもいいですか?」
「え、これ?」
私が耳元を指すと、小木谷さんは笑顔でスマホを向けた。シャッター音が響く。
「はい、イヤリング、きれい! これも今日の一枚にしまーす」
小木谷さんは撮った画像を見せてくれる。私の耳元でゆれるチャームが実物よりきれいに撮れている気がする。
「何でもいいんですよ。
きれいなものコレクション眺めて“あー、きれい……”って思うと、いい夢見られそうで」
「へぇ……そんなのでも、変わるものなんだね」
「変わりますよ!
だって見てる間は、ちょっとだけ嫌なこと忘れられる気がしません?」
その言葉に、凝り固まったほどける気がした。忘れる。手放す。そんなことを考えたのは、いつ以来だろう。
「まあ、プロジェクト終わったら有休とってのんびりして。
それまでは気持ちのオンオフうまく切り替えてね」
先輩の言葉に頷いた。
──
仕事を終えて外に出ると、冬の気配が漂う風が頬を撫でた。歩きながら、小木谷さんの言った「きれいなもの」について考える。私にとってのそれは何だろう。
空の色? お気に入りのマグカップ? 道端の花?
それとも、誰かの言葉?
考えながら家に着いて、いつものようにテレビをつけようとして、手を止めた。スマホも机の上に置いたまま、ソファに横になる。
天井を見つめながら、ゆっくりと息を吸った。お腹に空気を入れるように、深く、深く。そして、ゆっくりと吐く。もう一度。また一度。
肺に空気が満ちていく感覚が、こんなにも心地良いなんて忘れていた。
体を伸ばしてみる。肩が、背中が、こんなに凝り固まっていたんだ。少しずつ、ほぐれていく感覚がある。
「……心の深呼吸、か」
誰に聞かせるでもなくつぶやいてみる。
何も考えずにぼんやりすることなんて、久しぶりだ。
目を閉じて、次の休みのことを思い浮かべる。美術館、久しぶりに行ってみようかな。静かな展示室で、色と光が作る世界に身を浸すのも悪くない。きっと、きれいなものがたくさんある。
その後、あのカフェに行こうかな。
そんなことを考えながら、また深呼吸をする。今度は少し楽に、空気が肺の奥まで入っていく気がした。
──心の深呼吸も忘れずに。
先輩の言葉が頭に浮かぶ。
そうだ、体だけじゃない。心も深呼吸が必要なんだ。焦らず、急がず、ゆっくりと。
そう思いながら、私は静かに目を閉じた。
──────
ざっくりとしたストーリーを考えるとき、頭の中で勝手に俳優さんをキャスティングするときがあります。
今回は、大林先輩役で松下由樹さんをキャスティング。「あ~さ~く~ら~~~~」時代の松下さん。何年前だ、って話です。
てゆーか、声出なくなるのはよろしくないので、みんなしっかり休もうね(´・ω・`)←オンオフ下手で仕事の夢見る奴
〈時を繋ぐ糸〉
編み針を動かすたび、糸が指先から小さく震え、その余韻が胸の奥へとしみ込んでいく。思いを込め、ひと針ひと針編んでいく。
編み物作家になった今でも、私はときどき思う。
──糸は時を繋ぐ、と。
──
子どものころ、私は「おばあちゃんに可愛がられた」という記憶をほとんど持っていなかった。
父方の孝江おばあちゃんは遠方に住んでいて、父には五人の兄弟がいる。
孫も多く、会えるのは年に一度あるかどうか。会っても私は大勢の中のひとりで、友達が言うような「特別に可愛がられた」という実感はなかった。
母方のヒロおばあちゃんは、私が生まれた頃に亡くなっている。
だから私は、運動会や発表会に祖母が来てくれる姿を知らない。
ある休日、そんな話をふと思い出して母につぶやいた。
「……おばあちゃんって、運動会に来てくれたことなかったよね。
奈央ちゃんちのおばあちゃんみたく、おはじきとかお手玉とか教えてほしかったなぁ」
母のゆりえは少し黙って聞いていたあと、押し入れから一冊のアルバムを取り出した。
「かんなにヒロおばあちゃんのこと、ちゃんと話してなかったね」
アルバムを開くと、知らない写真が並んでいた。
小さな私を抱き、優しく笑う女性。
編み目のそろったショールにくるまれた赤ん坊の私。
揃いの色の小さな帽子や靴下。
「体が弱かったんだけどね、あなたが生まれた時ひと月もこっちに来てくれたの。
これは全部、おばあちゃんが編んだのよ」
母は指先でショールの写真をそっとなぞった。
「帰ってからすぐ亡くなってしまったけど……
おばあちゃんの家には、あなたへの贈り物がたくさん遺されていたの。
あなたのお気に入りのマフラーも」
私は目を丸くした。
あの、くすんだオレンジ色の、ふんわりあたたかいマフラー。
「ヒロおばあちゃんが?」
母は静かに頷いた。
「あなたが大きくなっても使えるように、セーターやカーディガンもサイズを大きくしたのを何枚も。
箱がいくつも出てきてびっくりしたわ」
見つけたときを思い出したのか、少し大げさに母が話す。
そして優しく、少し切なそうに話す。
「あなたには記憶がないかもしれない。
でも、おばあちゃんはあなたのために、たくさん想いを残してくれたのよ」
アルバムの中で私を抱いて笑うその人を見つめた。
胸の奥で、途切れていた糸がそっと結ばれるような気がした。
「……お母さん、編み物、教えて」
その日から、私は夢中で編み針を動かすようになった。
──
半年後、私は孝江おばあちゃんへモチーフ編みの膝掛けを送った。
届いたという電話で、受話器の向こうから孝枝おばあちゃんの弾む声が伝わってくる。
『これ、かんなちゃんが編んでくれたの?
かわいいねぇ。毎日ひざに掛けてるよ』
数日後、孝江おばあちゃんから手軽が届いた。
中には、膝掛けを掛けて笑う孝江おばあちゃんの写真が入っていた。
その笑顔を見た瞬間、遠くても気持ちは届くのだと、初めて強く感じた。
やがて時代が進み、孝江おばあちゃんは携帯電話でメールを送ってくれるようになった。
「今日も使ってるよ」と、私が編んだ帽子をかぶった画像付きで。
晩年には、いとこが用意したタブレットでビデオ通話もできるようになった。
画面越しに、柔らかく目を細めて私の作品を身につけてくれる姿を見ると、胸があたたかくなった。
──
孝江おばあちゃんも、今はもういない。
けれど、私の編んだストールや帽子を身につけたおばあちゃんの写真が、何枚も残っている。
それらは、私が糸で繋いだ時間の証だった。
想いを込めて編む気持ち──その源は、きっとヒロおばあちゃんが残してくれた糸の記憶だ。
記憶がなくても、想いは形として受け取れる。
そのことを教えてくれたのは、二人のおばあちゃんだった。
私は机に並べた毛糸玉を見つめ、そっと手を伸ばす。
さて、次は誰のために編もうか。
この糸で、また誰かの時間をあたためるために。
──────
またおばあちゃんのお話(´・ω・`)
私もおばあちゃんの記憶が皆無です。
こうありたかった物語を書いているのかもしれません。
〈落ち葉の道〉
外回りの途中で立ち寄った小さな公園は、平日の昼下がりらしく静かだった。
ベンチの上にコンビニの袋を置き、ため息をついたのは何度目だろう。おむすびのパッケージを外しながら考える。
最近は、仕事そのものよりも、部下の教育や社内の雑事に気力を持っていかれている気がする。どうでもいい資料の体裁だの、誰が会議室を使っただの、正直くだらないことであちこち振り回され、胸の奥にじんわりとした疲れが溜まっていた。
食べ終えて、ぼんやりと前を眺める。
少し下の広場のようになった場所で、学生らしい十人ぐらいのグループが落ち葉をかき集めてはしゃいでいた。
黄色いジャージ姿の子もいれば、黒いパーカーにイヤホンを引っかけた子もいる。年の頃は高校か大学か、そのあたりだろう。
「もっと濃い色のやつ、そっちにあるよ」
「こっちは薄いの。境目どうする?」
「もうちょい丸くしないとらしくならない?」
そんな声が風にのって届いてくる。落ち葉で遊んでいるのかと思ったが、どうやら違う。
何かを“描いて”いる。
しばらく眺めていると、彼らが地面に並べた葉の輪郭が、だんだんとある形を成していった。
気づけば、そこにはアニメのキャラクターが浮かび上がっていた。
よく見れば、ただ黄色の葉を集めただけじゃない。枯れ色の濃いもの、まだ緑が残っているもの、カサついた淡い色のもの──それらを役割分担するように使い分け、影や輪郭まで表現している。落ち葉アート、というものだろう。
「赤いの落ちてない?ほっぺたに」
「あ、上にある! 拾ってくるよ」
俺の後ろに色づいた楓がある。ちょうどいい具合の赤だ。
拾ってくると言った女の子が上ってきた。俺が見ていることに気づいたようだ。
「すみません、うるさくて」
「いいや、見てて面白いよ」
「去年SNSで見たときに、私たちもやりたいなって思って……
いい色になるまで待ってました」
ニコニコと笑いながら、赤い葉を拾って降りて行った。
待っていた色の葉が来て、彼らは嬉しそうに仕上げる。
驚くほどの出来栄えに、思わず見入ってしまった。
「できたー! ちょっと上から見たい!」
「あ、上のベンチからだとよく見えたよ」
そう言いながら、さっきの女の子と何人かが俺のいるベンチの方へ駆け上がってきた。
「すみませーん」と頭を下げられる。
彼らはスマホを掲げ、ああだこうだと角度を変えながら写真を撮っている。
「やば、めっちゃ映えてる!」
「これ、誰かに見つかったら絶対バズるって」
こどもかよ……と思ったが、心の中で言葉を飲み込む。
学生だからこその熱量だし、俺にも昔はこういう無茶な行動力があった気がする。いつからだろうな、落ち葉をただのゴミみたいに見て、踏みつけて歩くだけになってしまったのは。
彼らの作り上げた熱意を形に残したくなった。スマホを取り出し、カメラを立ち上げる。
「おじさんも撮っていいかい?」
「いいですよー」
「俺らの顔写さないでくださいね」
「SNSに上げるならハッシュタグつけて!」
笑いながら言う彼らの顔がまぶしかった。
しばらくして彼らは満足そうに広場へ戻り、完成したアートの周囲でもう一度歓声を上げていた。俺の近くでも、子ども連れの親子が、はしゃぎながら眺めている。
俺は立ち上がり、スーツの皺を軽く伸ばして公園を後にした。
帰り道、足元でカサッと音を立てる落ち葉にふと目を落とした。
黄色、茶色、赤茶色……よく見れば、同じようで全然違う色をしている。それぞれを丁寧に拾い上げていた彼らの姿が頭に浮かぶ。
「同じ落ち葉でも、色は色々なんだよな……」
独りごちて、思わず苦笑する。
仕事だって、部下だって、同じように見えてしまっていた。どうせまた面倒なことを言ってくる、とか。どうせ大して変わらない日々だ、とか。自分の視野が狭くなっていたのは、もしかするとそのせいかもしれない。
風が吹き、落ち葉がひらりと舞い上がる。舞った葉の一枚が、俺の足元に落ちた。拾い上げてみると、思ったよりも鮮やかな金色をしていた。
「……戻ったら、あの新人にももう少し丁寧に話すか」
そんな独り言が自然と出た。仕事そのものが急に変わるわけじゃない。けれど、見方を少し変えれば、違う色が見えることだってある。
落ち葉の道を踏みしめながら、俺は会社へと歩き出した。背中に、さっきの学生たちの明るい声がまだ残っているような気がしていた。
──────
毎年、ついったなどに上がる落ち葉アートを楽しみにしてます。
ああ、紅葉見に行きたいなぁ……
※「君の隠した鍵」、書き上げました。
長いですけど、お読みいただければ。
〈君の隠した鍵〉
結婚式を三か月後に控えた春のある日、私は母の恵美子と婚姻届を囲んでいた。
証人欄の名前を書かずにいる私に、母がふと尋ねる。
「恵夢(えむ)、証人って誰に頼むの?」
「……めぐちゃんがいい。
ずっと相談に乗ってもらってたし」
ペンを置き、私は息をつく。
「めぐちゃん、退院いつかな……
式には出席してほしいんだけど」
私がそう言った瞬間、母の表情がわずかに強張った。
その表情に何かいやな気配がして、私も息を呑む。
「めぐみ……
もう、先が長くないのよ」
「……え?」
母か苦しそうに目を伏せる。
「ずっと隠していたけれどね……
あなたが悲しむと思って言えなかった」
その言葉が耳の奥で何度も反響した。
めぐみ姉さんが、先が長くない。
私は震える手を膝の上に置いた。
──会わなきゃ。
会って、伝えなきゃ。
──
めぐみ姉さんは、私が物心つく前から姉のように接してくれていた。
ずっと「めぐちゃん」って呼んでいた、十六歳年上の従姉。だけど、歳の差なんて関係ないくらい近かった。
幼い頃、私はよく名前をからかわれた。女の子の友だちは「えむちゃん」とかわいく呼んでくれるけど、男子は「えむってヘンな名前」「Mサイズのえむ~」なんてふざけて呼ぶ。
「どうしたの、恵夢ちゃん」
泣いて帰った私を、遊びに来ていためぐみ姉さんは膝に抱き上げてくれた。
「名前がヘンだって言われたぁ……」と泣きながら訴えると、彼女は私を抱きしめて、カバンからメモ帳とペンを取り出した。
「見て。えむちゃんの『恵夢』って、こう書くでしょう」
大きく、丁寧に二つの漢字を書いた。
「“すてきな夢に恵まれるように”ってお名前でしょ?
とっても素敵だと思うよ」
めぐみ姉さんは、私の頭をなでながら言う。
「……ほんとに?」
「うん。ね、恵美子おばさんも“恵”って字が入ってるでしょ?」
母もその場にいて、笑いながら言った。
「私の“恵美子”の“恵”ね。めぐちゃんの“恵”と同じ漢字よ」
「めぐちゃんと一緒?」
私が顔を上げると、めぐみ姉さんは嬉しそうに頷いた。
「そう。一緒だよ」
めぐみ姉さんは、三人の名前を並べて書く。
──恵夢。恵美子。恵。
そのとき胸に広がった温かさを、優しげなめぐみ姉さんのまなざしを、今でも覚えている。
ほんの一瞬、何か言いたげな光が宿ったことも。
母が仕事で忙しい時は、めぐみ姉さんが私を預かってくれた。
めぐみ姉さんの家で一緒にご飯を作って食べ、一緒にお風呂に入り、一緒に眠った。
休日には映画館や動物園に行き、ちょっと高いパフェを食べさせてくれたのもめぐみ姉さんだ。
私は、中学、高校、大学……恋愛のことも進路のことも、誰より先にめぐみ姉さんに話した。
年の差なんて気にならないほど、彼女は私の人生の波長にいつもぴたりとはまる存在だった。
──
私が自分の生まれに疑問を抱くきっかけは、高校二年の冬だった。
親戚が集まった母方の法事の席のこと。
めぐみ姉さんと二人で、手伝いから戻ろうと廊下を歩いていたときに、その会話が聞こえてきた。
「恵美子さん、もう体はいいの?
あの頃は大変だったのよね、子宮を取っちゃうほどの大病をして……もう20年近くになるの?」
「いやもう大分前のことですから」という母の声を遮るように会話が続く。
「それでもね、あの子を立派に育ててる。
生さぬ仲なのに、愛情は本物よ」
私の足はそこで止まった。
母は子供を産めない体になった?
20年前?
生さぬ仲って誰のこと?
“あの子”という言葉が、頭の中に反響している。
固まっている私の横で、めぐみ姉さんはわざと大きな音を立てて障子を開けた。
「失礼しまーす、片づけるものまだあります?」
にこやかにしているが、目は笑っていない。
親戚のおばさん達が一気に静かになる中、めぐみ姉さんは手早くテーブルの上を片付けていく。
私も黙ってテーブルをふきながら、さっき聞こえてきた言葉を反芻していた。
その日の集合写真を後で見たとき、私は愕然とした。
めぐみ姉さんと並んで写っている私。目元、頬の線、笑ったときの表情。
──あまりにも似すぎている。
父や母と私は似ていない。
なら私は誰の──
疑問は、消えないどころか膨らんでいった。
──
大学に入ってから、私は図書館で“特別養子縁組”の項目を読んだ。
出生から六歳未満。
戸籍上、実子と同じ。
親子の法的なつながり以外は、すべて新しい家族として再構築される。
ページをめくる手が止まり、私はゆっくり息を吸った。
──私、そうなんだ。
その確信は不思議と冷静で、痛みでも怒りでもなかった。
ただ、ひとつの鍵が音を立ててはまった感覚だけがあった。
私の名は、めぐみ姉さんが名付けたのではないか。「恵の夢」──めぐみ姉さんの夢。
めぐみ姉さんは結婚しなかった。恋愛の話も聞いたことがない。
ときどき、私を見つめる眼差しに、言葉にできない何かが宿っているように感じた。愛情、そして少しの寂しさ。
でも、答え合わせをしようとは思わなかった。聞いたら壊れてしまう気がした。
私と母とめぐみ姉さんの関係が。
だから胸の奥にそっと鍵をしまい、大学生活を過ごし、恋をし、二十四歳になった。
──
それから、私は仕事や式の準備の合間に、こまめにめぐみ姉さんを見舞った。
めぐみ姉さんは痩せていたけれど、相変わらず穏やかな目をしていた。
「恵夢ちゃん……」
そっと体を起こす。日に日に、細くなっていくのがわかる。
「……前撮り写真できたんだ。めぐちゃんに、一番に見せたかった」
婚約者の雅人に事情を話して、急いで撮影したウェディング写真。
少し写真の表情は硬かったけど、めぐみ姉さんはどれも嬉しそうに眺めている。
「ふふ……本番はもっときれいよね」
そう笑う顔はどこか懐かしくて、胸が締めつけられる。
私は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
──
めぐみ姉さんの容態は日に日に悪化した。意識が朦朧とする時間が増えていった。
そして今日、伯母─めぐみ姉さんの母から「今日が峠かも」と連絡が入った。
病室に駆けつけると、めぐみ姉さんは目を閉じていた。呼吸は浅く、不規則だった。母や伯母も駆けつけていた。みんな泣いていた。
私はベッドに近づき、めぐみ姉さんの手を握る。すると、めぐみ姉さんがゆっくりと目を開け、焦点の定まらない目が私を探すように動いた。
「えむ……?」
「ここにいるよ」
私はめぐみ姉さんの耳元に顔を近づけた。もう時間がない。そう直感した。
私は小さく、でもはっきりと囁いた。
「……ねえ、めぐちゃん」
言葉が震える。
「ずっと、言いたかったんだ……ありがとう」
それでも足りない。
二十四年間、隠してくれた鍵。でも、その鍵はずっとそこにあった。「恵夢」という名前に。
あの日、紙に書いてくれた「恵」の文字に。そっくりな容姿に。特別な愛情に。
胸の奥にしまってきた鍵が、もう扉を開けたがっている。
「……お母さん」
めぐみ姉さんの目が、一瞬大きく開いた。そして、これまで見たことのないほど穏やかな、満ち足りた表情が浮かんだ。
──ああ、この人は、この言葉をずっと待っていてくれたんだ。
唇が微かに動いた。声にはならなかったけれど、その形は「ありがとう」と言っているようだった。
めぐみ姉さんは私の手をぎゅっと握り返し、静かに目を閉じる。
永遠にも思えた時間、私はその力が少しずつ消えていくのを感じていた。
心音モニターの音が一定のトーンに変わった。
医師が臨終を告げる声も、はるか遠くに聞こえる。
私はめぐみ姉さんの手を握ったまま、しばらく動けなかった。
──
母がそっと肩に手を置いた。私は振り返り、母の目を見た。
母は何も言わない。けれど、その沈黙がすべてを物語っていた。
──私はこれからも、あなたの母でいる。と。
私もまた、言葉にはしなかった。
鍵は開けないままでいい。
胸の奥でそっと光るその鍵は、これから先も私を導き続けてくれる。
この胸の奥にしまっておけば、きっとめぐみ姉さんはこれからも私の中で生き続ける。
結婚しても、子どもを授かっても、私はきっとあの人の面影を探してしまうだろう。
だけど、それでいい。
めぐみ姉さんが夢見た人生を、私はこれから歩いていく。
そしていつか、私にも子どもが生まれたら──名前に“恵”の字を入れよう。
その子が幸せな夢を見られるように。
めぐみ姉さんが私につけてくれた“鍵”は、今、私の胸の奥で静かに光っている。
──────
前日の分を夜中にこっそり貼り付けます(
短編のつもりが、何故いつも長くなるんですかねぇ……
このお話を考えるうちに、めぐみさん視点・恵美子さん視点だとどうなる?と思考がとっちらかります。
3部構成……何かの機会に書こうかしらねぇ。