〈冬の足音〉
コンビニで弁当を手に取ったとき、ふと思った。
──家に着くまでに冷めるな、これ。
十一月も半ば、夜の冷え込みが日ごとに増している。店を出ると、吐く息が白く染まった。
弁当の温もりがビニール袋越しに手のひらに伝わってくるけれど、このぬるい熱はマンションまで持たないだろう。
「冬だな」
小さくつぶやく。誰に聞かせるでもない独り言だ。
歩きながら、ふと気づく。つい最近まで夏だったような気がするのに、もう冬の入り口だ。
年々、季節が過ぎるスピードが速くなっている。子どもの頃は一年が途方もなく長かったのに、今じゃあっという間だ。
それだけ年を取ったということだろう。
四十代も半ば。独身。結婚願望があるわけでもない。いや、正確には「ない」と思い込んでいる、のかもしれない。
けれど、この季節だけは妙に寂しさが胸に沁みる。冷たい空気が肺に入るたび、心まで冷えていくような感覚がある。
マンションの前に着くと、一階に住んでる大家の内堀さんが玄関前で段ボール箱を持ち上げようとしていた。
「内堀さん、それ重いでしょう」
声をかけると、内堀さんが顔を上げた。
「あら、田倉さん。ちょうどよかったわ」
箱には「天然水 2L×6本」と印刷されている。小柄の内堀さんは七十過ぎの一人暮らし。腰が悪いと聞いている。
「俺が運びますよ」
俺は荷物を持ち上げた。ずっしりと重い。これは無理だろう。
「ありがとうね。
対面でお願いしてたのに、置き配にされちゃって困ってたのよ」
内堀さんは申し訳なさそうに笑う。
ドアを開けてくれたので、俺は玄関の上がったところまで運んだ。
「いつもと違ったところで頼んだら、あそこは置き配にされちゃうのよね。
年寄りには重いのに」
「これからもっと寒くなりますからね。また置いてあったら声かけてください」
「ありがとうね。あ、ちょっと待ってて」
内堀さんは奥の部屋に消え、すぐに戻ってきた。手には小さなビニール袋。
「これ、田舎の親戚が送ってくれたミカンなの。
たくさんあるから、よかったら持っていって」
「え、いいんですか?」
「一人じゃ食べきれないのよ。
若い人に食べてもらった方が嬉しいわ」
断る理由もない。俺は素直に受け取った。
「ありがとうございます。じゃあ、また」
「気をつけてね。
寒いから風邪ひかないようにね」
内堀さんの言葉に、なぜかほっとした。
自分の部屋に戻り、電気を点ける。
いつもの静かなワンルーム。テーブルに弁当とミカンの袋を置いた。予想通り、弁当は冷めている。
スマホを見ると、姉からメールが届いていた。
『最近寒くなってきたけど、ちゃんと健康管理してる?』
思わず苦笑する。姉は昔から心配性だ。
遠方に嫁いで、自分の家庭を持っているのに、こうして時々メールをくれる。
返信しようとして、ふと手を止めた。
冷めた弁当と、内堀さんからもらったミカン。姉からの心配のメール。
一人暮らしで、結婚もしていない。友達と呼べる人間も、正直そんなにいない。
けれど、完全に独りじゃないんだな、と思う。
俺は弁当を電子レンジに入れ、その間にミカンを一つ剥いた。皮を剥くと、部屋に甘酸っぱい香りが広がる。一房を口に入れると、果汁が弾けた。
冬の夜の冷たさと、ミカンの温もり。
窓を見ると、白く曇ったガラスに外の街灯がにじんで見える。
冬はもうすぐそこまで来ている。
──────
前に書いた「誰か」の続編?です。
健康管理、してますかねぇ。(姉視点
〈 贈り物の中身〉
窓の外では、みぞれまじりの雨が降っている。
十二月に入って最初の週末。いつものカフェは、クリスマスの飾りつけで華やいでいた。
四人がテーブルを囲むと、南月が両手をこすり合わせながら言った。
「さっむ! もうホットココア一択!」
「もう完全に冬だね」
遥香がマフラーを外しながら微笑む。首元には、小さなペンダントが揺れていた。
「それ、新しいの?」
晶穂が目ざとく気づく。
「あ、これ?この前の誕生日に、あの人が……」
遥香の頬がほんのり赤くなる。どうやら例の上司と付き合い始めたらしい。
「いいなあ、プレゼント!」
南月が身を乗り出した。
「でもさ、もらった贈り物ってどうしてる?みんな全部持ってる?」
「急にどうしたの」
芙優が不思議そうに尋ねる。
「いやね、この前引っ越しの準備してたら、元カレからもらったものがいっぱい出てきちゃって。
どうしようかなって」
南月の声に、いつもの明るさとは少し違う、困惑が混じっていた。
「捨てられないの?」
晶穂が冷静に聞く。
「それが……。アクセサリーとか、本とか、CDとか。全部に思い出があるんだよね。別れた今となっては、ちょっと複雑な思い出だけど」
「わかる」
遥香が静かに頷いた。
「私も昔の彼からもらったマグカップ、まだ使ってる。可愛いし気に入ってるから捨てられなくて。
でもたまに、これ使うたびに思い出すのってどうなのかなって思うことある」
「物に罪はないって考え方もあるけどね」
晶穂がカップを両手で包みながら言った。
「でも、新しい恋をするときに、過去の贈り物が部屋にあるのって、なんとなく申し訳ない気もするよね」
「そう!それ!」
南月が大きく頷く。
「次に誰か部屋に来たときに、"それ誰からもらったの?"とか聞かれたらどうしようって」
「聞くかなぁ、そこまでチェック入る?」
遥香が苦笑する。
しばらく沈黙が流れた。窓の外の雪は、少しずつ本格的になってきている。
「私ね」
芙優がゆっくりと口を開いた。
「昔もらった手紙は、全部箱に入れて押し入れの奥にしまってある。見返すことはないけど、捨てることもできない」
「手紙かあ……」
南月がしみじみと言う。
「最近って、手書きのものもらうことないよね。データで残るメッセージばかりで」
「そう考えると、物としての贈り物って、重みがあるのかもしれない」
晶穂の言葉に、三人が顔を上げた。
「重み?」
「うん。形があるものは、捨てるという選択を迫られる。でもデータは、放置できる。スマホの中に思い出が眠っていても、日常では目に入らない」
「なるほど……理論派」
南月がクスッと笑った。
「でもそれって、逆に言えば」
芙優が続ける。
「形あるものは、ちゃんと向き合わないといけないってことだよね。
持ち続けるか、手放すか」
四人の視線が、遥香のペンダントへと自然に集まった。
「私は……このペンダント、大事にしたいと思ってる」
うつむきながら、遥香が胸元に手を当てる。
「たとえこの恋が叶わなくても、この気持ちを持っていた自分を忘れたくないから」
「素敵」
芙優が微笑んだ。
「でもそれって、今進行形の恋だからじゃない?」
南月が少し寂しそうに言う。
「過去になった恋の贈り物は、どうすればいいのかな」
晶穂がゆっくりとココアを飲み干して、言った。
「無理に答えを出さなくてもいいんじゃない?
今は持っていて、いつか自然に手放せるときが来るかもしれない。
大事なのは、その物に縛られないことだと思う」
「縛られない……か」
南月が窓の外を見つめる。
「そっか。
持ってるからって、過去に囚われてるわけじゃないもんね」
「うん。それに」
芙優が優しく言った。
「贈り物って、物そのものより、その時の気持ちが本当の中身なんだと思う。
箱を開けたときの驚きとか、嬉しさとか。それはもう、あなたの中にちゃんとあるから」
南月の目が、少し潤んだ。
「そうだね。ありがとう」
四人は温かいカップを手に、しばらく無言で冬の景色を眺めていた。
外に出ると、雪はやんでいた。冷たい空気が頬を撫でる。
「さて、次は温泉だったわね」
遥香が明るく言った。
「冬の温泉、楽しみ!」
南月も元気を取り戻している。
「その前にクリスマスがあるけどね」
晶穂が笑う。
「今年もまた、プレゼント交換する?」
「もちろん!」
四人の声が、冬の夜に溶けていく。
贈り物の中身は、きっと思い出そのもの。それを抱きしめるか、そっと手放すかは、それぞれの心が決めること。
季節が巡るように、人の心も静かに変わっていく。
──────
ストーリー立てしないで会話中心になるときは、ネタに詰まってる時です(
ミステリーぽいお話とかできそうだけど、この辺で。
〈凍てつく星空〉
気がついたとき、電車の揺れが止まっていた。
目を覚ますと、車内放送が聞き慣れない駅の到着を告げていた。
「やべぇ、寝過ごした!
土谷、起きろって」
慌てて立ち上がり、まだ半分寝ている土谷の腕を引っ張って飛び降りる。ドアが閉まる音が妙に大きく響いた。
ホームに立って、ようやく状況を理解する。
ゼミの飲み会の帰り、電車のあったかい座席に身を沈めたら、このありさまだった。
反対ホームを確認するが、電光掲示板には容赦のない現実が光っている。
「タクシーで帰るか?」
「バイト代吹き飛ぶからやめておく~」
土谷が眠そうな目を擦りながら答える。財布の中身はどちらも似たようなものだ。
駅を出ると、十二月の夜気が容赦なく頬を刺す。夜明かしするには寒すぎる。
スマホで位置を確認し、歩いて帰ることにした。俺の家まで徒歩で二時間半くらいだろうか。土谷はさらにその先だ。
「さみぃ」
土谷がダウンジャケットの襟を立てながら呟く。まだ酔いが残っているのか、足取りが少しおぼつかない。
「今日の飲み会、面白かったよな」
「ああ、永井の話が長すぎて途中で寝そうになったけど」
歩きながら、さっきまでの飲み会の話をする。
ゼミの連中との馬鹿話。就職活動の愚痴。来年は卒論で忙しいのかな、なんて現実味のない話。
ふと顔を上げると、夜空が目に飛び込んできた。
「うわ、星すげぇ」
思わず声が出た。街灯の少ない道だからだろうか。
星が輝いて、まるで空から降ってきそうなほど美しい。こんなに星を見たのは久しぶりだった。
「きれいだな」
土谷も空を見上げている。酔いが少し醒めたみたいだ。
自販機でホットコーヒーを買い、近くの公園のベンチに座った。缶の温かさが凍えた手に染みる。
そのとき、視界の端で光が流れた。
「流れ星」
「マジで? どこどこ」
「もう消えた」
土谷が残念そうに空を見渡す。
「そういや、野村先生がふたご座流星群とか言ってたな」
「ああ、覚えてる。
夜空見上げる余裕は持ちなさいとか言われてもなー」
就活だ単位だって忙しい毎日で、夜空なんて見上げる暇もない。今日だって、終電乗り過ごさなきゃこんなふうに星なんて見なかっただろう。
また、星が流れた。今度は土谷も見えたらしい。
「おお」
二人で声を上げる。コーヒーを飲みながら、しばらく黙って空を見上げていた。
「……十年後とか、何してるんだろうな俺たち」
「さーな。まあ、どっかで働いてるんじゃない?
同じように星見てたりして」
土谷の言葉に、少し驚いた。十年後。もう三十過ぎだ。想像もつかない。
でも、こうやって土谷と星を見ている自分の姿を想像すると、悪くない気がした。
「十年後もこんな感じか」
「どうかな」
土谷が笑う。
「それがいいな」
俺は正直にそう言った。
十年後がどうなってるかなんて分からない。でも、こうやって馬鹿な話をしながら、たまには空を見上げられる余裕があればいい。
「疲れた」
土谷が大きく伸びをする。
「もう少し行けばうちだから泊まっていけよ」
「マジで? 助かる」
立ち上がって、また歩き始める。息が白く凍る。足は冷たいけど、なんだか気分は悪くなかった。
「腹へった」
「カップ麺ならあるぞ」
「おにぎりと温かい味噌汁がいい」
「贅沢言うなよ」
空を見上げると、また流星が一筋、夜空を横切っていった。凍てつく星空の下、俺たちは笑いながら夜道を歩いていく。
願い事なんて思いつかなかったけど、未来もこんなバカ話できるならそれでいい。そんなことを思いながら。
──────
ふたご座流星群の見頃は今月14日頃だったかな?
寒くてデジカメのシャッターが降りなくなるぐらいの寒さなので、星空観察はしっかり防寒対策してね。
そして、「酒は飲んでも飲まれるな」です。
飲んだら座らない、ですね……(2駅なのに座って眠ってしまい、遥か遠くに運ばれてしまった輩から連絡が来たときの絶望感たるや
あ、登場人物の名前でニヤニヤした方、同志ですねw
〈君と紡ぐ物語〉
メールの送信者の名前を見た時、後頭部を殴られたような衝撃が走った。
送信者「小高洋人」、件名は「泰夫へ」。たったそれだけで、心拍数が上がる。
十二年ぶりの連絡。画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
〈新しい曲、コーラスがどうしても足りない。
お前の声で、入れてくれないか〉
シンプルな一文が、胸に突き刺さった。
──
あの頃の俺たちは無敵だった。
自信満々で歌い続け、いつか武道館に立つんだと本気で信じていた。
初めて洋人(ひろと)に会ったのは、大学の軽音部の部室だった。小柄で生意気そうな奴が、ギターをかき鳴らしながら自作の曲を歌っていた。
正直、第一印象は「調子乗ってんな」だった。
でも、そのメロディーラインと歌声に、俺は釘付けになった。どこか切なくて、でも希望に満ちている。心を掴んで離さない何かがあった。
「コーラスつけてくれよ」
洋人が突然そう言った日、俺は軽い気持ちで頷いた。でも、声を合わせた瞬間、世界が変わった。
波長が合うなんて言葉じゃ足りない。呼吸そのものが一つになった。
どちらがメインを取っても、自然にハーモニーが生まれる。鳥肌が立った。こんな感覚、初めてだった。
洋人も目を見開いて、それからニマーと満面の笑みを浮かべた。
「俺、探してたんだよ、こーいう声」
その日から、俺たちは「すだこだか」として歌い続けた。路上、駅前広場、ライブハウス。
固定ファンもつき始め、CDも自主制作した。
レコード会社のプロデューサーが「もっと色んな曲を聴かせてくれよ」と名刺を置いていった。
何よりも、洋人と歌うことが楽しかった。このまま二人で、ずっと歌っていけると思っていた。
でも、父が倒れた。
大学四年の秋、妹たちはまだ高校生と中学生。選択肢なんてなかった。
故郷に戻り、家族を支える。それが長男の務めだと思った。
帰ることを告げた時の洋人は信じられない、という反応だった。
「俺のためにも、歌い続けてくれ」と笑って言った。本当は泣きたかった。
洋人の「お前がいなくなったら、俺、何を歌えばいいかわかんねえよ」という言葉が、思い出すだけで胸を締めつける。
その年のクリスマスライブで「すだこだか」は解散した。
ラストの曲を歌い上げ、目を伏せた洋人の横顔は今も鮮明に覚えている。
それ以降、洋人には何も言えなかった。帰郷の前日、「頑張れ」とだけメールして、その後は着信を無視し続けた。
夢を捨てた自分が、夢を追い続ける彼に何を言えるだろう。罪悪感が、俺と洋人の間に壁を築いた。
やがて洋人はソロアーティストとして成功した。
新譜が出るたび、律儀に実家に送られてくる。聴く。何度も聴く。でも、感想すら返せない。「良かったよ」なんて軽々しく言えない。
県内でライブが開催されたときも、足を向けられなかった。会場の前まで行ったのに、引き返した。あの頃のように対等に向き合えない自分が情けなかった。
テレビやネットで彼を見るたび、誇らしさと寂しさが胸を満たす。
彼の歌声を聴きながら、隣でハモる自分を想像してしまう癖は、十二年経っても消えない。
洋人の言い回し、ブレスの取り方に、あの頃の俺たちの癖を見つけては、切なくなる。
そして、たまに目にする「『すだこだか』ってどうなったの」。
あの頃の俺たちを覚えている人がいる。
「デビュー前にもめたらしいよ」
SNSではあることないこと、推測で書いてある。でも、自ら歌を捨てた俺に、返す言葉はない。
当時のファンだけが俺たちのあのハーモニーを覚えてくれていればいい。
──
洋人からのメールに返事を書きかけては消し、また書きかけては消して一日が過ぎる。
あれから十二年、妹たちは結婚し、家庭を持った。親父はリハビリを続けつつ、以前よりずっと元気だ。
今の俺を縛るものは、何ひとつない。
……なのに、なぜ返事が書けないのだろう。
今さら俺が歌えるわけがない、プロの世界で通用するはずがない。洋人の足を引っ張るだけじゃないか。
浮かない顔の俺を見て、台所で母が夕食の後に言った。
「“すだこだか”のころのあなたたち、楽しそうだったわねぇ。
本当に息が合ってた」
懐かしそうに語る母を見、胸が痛くなる。
「お父さんね、今もあなたたちのCDかけながらリハビリ頑張っているのよ」
母の一言に、食器を片付ける手が止まった。
本人はこちらに背を向け、テレビを見ている。聞こえているかどうかはわからない。
「夢を奪ってしまって申し訳ないって、ずっと言ってたわ」
言葉が出なかった。
そんなふうに思っていたなんて、親父は一度も口にしなかった。
親父は何も奪ってなんかいない。俺が選んだんだ。家族を選んだことを、一度も後悔したことはない。でも──
「でもね」母は続けた。
「お父さん、あなたが幸せそうに歌ってたこと、忘れてないのよ」
「小高さんがまたあなたの声を必要としてるなら、応えてあげるのが相棒ってもんじゃない?」
母の微笑みが、俺の迷いを吹き消す。
俺は、スマホの通話ボタンを押した。
──
今、俺は駅のホームに立っている。
最終の特急を待ちながら、洋人が送ってきた曲を聴いている。
物語は終わってなんかいない。ただ、次の章が始まるのを待っていただけだ。
電車が滑り込んでくる。
洋人が求めているのは、俺の声だ。あの響きを、もう一度。
君と紡ぐ物語の、続きを歌いに行こう。
──────
「失われた響き」のアンサーです。
「すだこだか」復活はさすがに都合良すぎですな(笑)
〈失われた響き〉
レコーディングブースからボーカルトラックが流れ出す。
俺の歌声は、今日もどこか決定的に欠けていた。
悪くはない。
「いいじゃないですか」と、プロのエンジニアにも褒められる出来だ。
それでも、小さな針のような違和感が刺さり続ける。それをそのままにせず、納得が行くものを作り上げたい。
「小高ちゃーん、煮詰まってるんじゃない?
一度うち帰ってリラックスしておいでよ」
プロデューサーの筧さんがスケジュールを見ながら声をかけてくる。スタッフを休ませるためにも、今日は帰宅することにした。
自宅に戻り、録音を聴き返す。どこがどう違和感を覚えるのか、自分でもわからない。
モニターを外し、椅子にもたれた瞬間、古い外付けハードディスクが目に入った。大学時代からの音源を詰め込んだまま、ずっと開くのを避けていたやつだ。
何気なく繋ぐと、懐かしいファイル名が次々並び、思わずクリックしてしまう。
スピーカーから広がるのは、ざらついたライブの音だった。
客席のざわめき、ギターのチューニング音。それらを突き破るように、二人の声が重なって響いた。
──俺と、須田泰夫。
息が止まった。
あの日のハーモニーは今聴いても驚くほど自然で、衝動的で、若かった。
──
俺と須田は「すだこだか」という名でデュオを組んでいた。
忘れられない。軽音部の部室で、初めて歌声を合わせた日。
波長がぴたりと合うように、自然なハーモニーになった。どちらがメインを取っても、それは同じだった。
大学だけにとどまらず、俺たちは様々なところで歌った。
路上、駅前広場、ライブハウス。徐々にファンもつき、自作のCDもそこそこ売れた。
レコード会社のプロデューサーだという筧さんから名刺をもらったのもこの頃だ。
何よりも、歌うことが楽しかった。このまま二人で、ずっと歌っていけると思っていた。
──
大学卒業を控えた冬の日、泰夫が突然「辞める」と言ったときの衝撃が、胸の奥からよみがえる。
「今までのこと、なかったことにするのかよ」
ライブも、自主制作CDも、プロデューサーの好反応も。積み上げた全部が崩れ落ちるように思えた。
泰夫は言いづらそうに視線を下げた。
「……親父が倒れた。妹たちもまだ学生でさ。
俺が戻らなきゃ回らないんだよ。
洋人、お前ならひとりでもやっていける」
そんなわけ、なかった。
デュオとして歌ってきたからこそ、俺たちは同じ景色を見てこられた。
「お前がいなくなったら、俺、何を歌えばいいかわかんねえよ」
泰夫はそれでも笑って、俺の肩を叩いた。
「それでも歌え。お前の声が好きなんだ。
俺のためにも、歌い続けてくれ」
その年のクリスマスライブを最後に、俺たちのハーモニーは失われた。
──
再生が終わった後も、俺は身動きできなかった。
しばし考えたあと、今日録った自分のボーカルをもう一度再生する。
ふと、奇妙な感覚に襲われた。
──言い回しの癖、ブレスの取り方、微妙な抑揚。
俺の声に、あいつの影が滲んでいる。
長い時間を一緒に歌った相棒の癖が、身体のどこかに根を張っている。
その影を感じたとき、胸が炙られるように熱くなった。
だけど同時に、どうしようもなく“物足りない”ことにも気づく。
ハモりの隙間。あの呼吸の揃い方。音を受け渡す間合い。
俺の歌は、今もなお、“ふたりで歌う前提”のままだった。
マスタートラックに過去のライブ音源を重ねてみる。
機材越しでも、あの頃の“響き”は鮮やかに蘇った。
やっぱり、これがなきゃ完成しない。
机の上のスマホに目をやる。
連絡なんて、ずっと避けてきた。それでいいと思っていた。
でも、ここまできてようやく気づく。
──俺はお前と歌ってきたから、今の俺があるんだ。
深呼吸し、メッセージアプリを開く。宛先は、須田泰夫。
指が震えた。
でも、言葉はすぐに浮かんだ。長くする必要はない。
〈新しい曲、コーラスがどうしても足りない。
お前の声で、入れてくれないか〉
送信ボタンを押すと、画面が静かに切り替わった。
返事が来るかどうかなんて、今はどうでもいい。
俺はもう、この響きを失いたくはない。ずっと俺の中にあったものを、ようやく認めただけだ。
モニターに向き直り、再び再生ボタンを押した。
俺とあいつの“響き”が交差する瞬間を想像し、胸の奥に、小さな光が灯るのを感じながら。
──────
大昔、短編として発表したものが下敷きになっています。
登場人物の名は某第三舞台の方々です。「すだこだか」という名はわりと気に入っています。
追記:
名前が色々間違ってたのでこっそり直しましたトホホ