〈雪原の先へ〉
大学の図書館で文献を探していたとき、中学の同級生だった女子に声をかけられた。
久しぶり、元気にしてた?
そんな他愛もない会話のあとで、彼女は少し躊躇うように言った。
「そういえば、覚えてるかな。鈴木将晴くん」
もちろん覚えている。小学校から中学まで同じクラスだった。
「あの子、亡くなったんだって」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
特別親しかったわけじゃない。でも、同い年の友達がもうこの世界にいないということが、俺の中で何かを揺さぶっていた。
──
その夜、眠れなくて、小学生の頃のことを思い出していた。
図書館で本を探していると、将晴がよく話しかけてきた。
彼は写真集が好きで、大きな画集を熱心に眺めていた。本好きの俺も図書館の常連で、将晴は時々「この構図すごくない?」と解説してくれた。
おじさんのお下がりだという、少し古ぼけたデジカメで、いろんなものを撮影していた。
ある冬の日、将晴が唐突に言った。
「西の峰の手前に、開けてるところあるだろ?
雪が降った翌朝、朝日が一面の雪と西の峰に反射してすごくきれいなんだぜ」
なぜあの時、彼はそんな話をしたのだろう。
俺は「へえ」とだけ答えて、それ以上聞かなかった。
中学を卒業してから、彼とは別の高校に進んだ。たまに駅で見かける程度で、もう話すこともなかった。
それだけの関係だった。
──
年末、雪が降り始めた日に帰郷した。久しぶりに食卓を囲んで、母が言った。
「そういえば、鈴木さんちの将晴くん、亡くなったのよ」
「……知ってる」
「あの子の家も大変だったのよ」
母の話で初めて知った。
将晴を残して、母親と弟たちが家を出て行ったこと。高校を中退して、働いていたこと。
「お葬式も身内だけで済ませて、父親も出て行っちゃって。
……お墓も何もわからないのよ」
母は小さくため息をついた。
翌朝、まだ夜が明け切らないうちに目が覚めた。外を見ると、雪が積もっていた。
気づくと、俺はコートを羽織って外に出ていた。
雪に覆われた山道を歩く。息が白く凍る。
将晴が見せたかった景色はどんなものだったのか。自分が将晴のことを忘れてしまったら、将晴の存在がなかったことになる気がした。
道を上がりきった、開けた場所。
右手に西の峰が見え、左の山の端から朝日が差し始めた。
それまで青みがかった影で埋められていた木々が、次々と光を浴びていく。西の峰が黄金色に染まる。雪原が光を反射して、世界全体が輝き出す。まるで一枚の絵画のような光景だった。
眩い光の中、一瞬、小学生の将晴が見えた気がした。
古ぼけたデジカメを首から下げて、ファインダーを覗き込んでいる。あの頃と同じ、少し誇らしげな笑顔で。
『すごく、きれいだろ?』
彼の声が聞こえた気がした。
まぶしすぎて、何も見えない。いつの間にか、涙が頬を伝っていた。
あの時、俺が「今度一緒に見に行こうよ」と言っていたら。もっと彼の話を聞いていたら。何か変わっただろうか。
でも、今ここにいる。将晴が見せたかった景色を、俺は見ている。
ポケットからスマホを取り出して、震える手でシャッターを切った。
将晴、お前が見せたかったもの、ちゃんと見たよ。
雪原の向こうから、風が吹いてきた。
──
東京に戻る前日、俺は町の図書館に立ち寄った。小学生の頃から通い慣れた場所。
カウンターには、あの頃と変わらず司書の北村先生がいた。
「則孝くん、久しぶりね。大学生活はどう?」
先生と少し話をしてから、俺は小学生の頃よく座っていた窓際の席に向かった。
ここで本を読んでいると、将晴が写真集を抱えてやってきたんだ。
ふと、壁に飾られた一枚のパネルに目が留まった。
雪原と、黄金色に輝く西の峰。見覚えがある。あの朝、俺が見た景色だ。
でも、俺が撮った写真とは明らかに違う。構図が、光の捉え方が、まるで絵画のように計算されている。
「綺麗でしょう?」
いつの間にか、北村先生が隣に立っていた。
「これ……」
「返却された写真集に、メモリーカードが挟まっていたのよ。
もう何年も取りに来る人がいないから、悪いけどデータを見させてもらったの。
10年近く前のデータだけど、どれも本当に綺麗な写真ばかりでね」
胸が苦しくなった。
「こうしてパネルにすれば、いつか本人が見に来るかもしれないと思って」
「これ……鈴木将晴の写真です」
先生の顔が曇った。
「将晴くん……
そう、よくここで写真集を見ていたわね。彼が撮ったの?」
「たぶん」
先生は目を伏せて、小さく息を吐いた。
「……そうだったの」
しばらく沈黙が続いた。
「先生、将晴のお母さんの連絡先、調べられませんか?」
北村先生は少し考えてから、頷いた。
「将晴くんの撮ったものならお母さんに返したいわよね……
……将晴くん、おじさんからもらったデジカメだってよく自慢してたわよね?」
そうだ、あの頃の将晴は俺の前でもカメラを操作して見せていた。
「パネル作ってくれたカメラ屋の斎藤さんなら、将晴くんのおじさんの連絡先知ってるかもね。カメラ仲間で」
先生は名探偵のように思慮深く、推理をまとめていた。
──
数日後、東京に戻ってから、母から電話があった。
北村先生は町のネットワークを駆使して、将晴のおじさんと連絡を取ってくれたらしい。
「将晴くんのおじさんが図書館に来たんだって。
メモリーカードを受け取って、すごく喜んでたらしいわよ。お母さんに渡すって
あなたにもお礼を言ってくれって」
良かった、と思った。将晴が撮った写真が、家族のもとに戻る。
「それでね、おじさんが言ったんだって。
『この写真は、ここに飾っておいてください』って。
図書館は将晴くんが一番好きだった場所だから、ここに残してあげたいって」
受話器を握る手に、力が入った。
──
ゴールデンウイークに帰郷したとき、俺はまた図書館を訪れた。
正月に訪れたときと違い、たくさんの子供たちが図書館にいる。
「デジカメ講座やってるのよ。将晴くんのおじさんと、カメラ屋さんがボランティアでね」
北村先生がにこやかに話す。
デジカメに限らず、スマホで何を撮るか、どう撮ったらいいのか。
ちびっ子カメラマンたちはふざけることもなく、真剣に話を聞いている。
「小学生でも極めれば、あんなすごい写真が撮れるのよ、てね」
視線の先には、あの雪原のパネル。
その下に、小さな真鍮のプレートが取り付けられていた。
【撮影:鈴木将晴】
写真の中の雪原は、永遠にあの朝の輝きを湛えている。西の峰が黄金色に染まり、世界が光に満ちている。
将晴が見た美しいもの、残したかったもの。それがここにある。
きっとこれから何年も、何十年も、この写真を見る人がいる。将晴のことを知らない人たちが、この光景に心を動かされる。
雪原の先。
将晴が確かに生きて、この世界の美しさを愛した証がそこにあった。
──────
デジカメを使い始めて四半世紀になりますが、年代ものでも捨てがたい……どうしましょうね。
私は図書館に入り浸っていた派なので、学校の司書の先生とはよく話していました。
20年経ってお会いする機会がありましたが、あの頃よく読んでいたシリーズを覚えていてくださいましたね……
その先生のお名前をお借りしました。イメージは市川実日子さんです。
〈白い吐息〉
テレビの画面に映し出される工業地帯の夜景が、まるで宝石箱をひっくり返したように煌めいている。
「わあ、きれい」
リビングのソファで編み物をしていた手を止めて、ふと顔を上げた。
五十七歳。最近は老眼鏡が手放せなくなり、白髪染めの頻度も増えた。
それでも、テレビに映るあの光景を見ていると、不思議と懐かしさがこみ上げてくる。
工場の煙突から立ち上る白い煙。水面に映り込む無数の光。ああ、そういえば──
「ねえ、覚えてる?
付き合ってた頃、よく湾岸線走ったよね」
隣でスマートフォンをいじっていた夫が、ちらりとこちらを見た。
「ああ、行ったな」
短い返事。でも、その声には確かに共有する記憶が含まれていた。
あれは四十年近く前のこと。お台場なんてまだ埋め立て地で、今では当たり前のようにそびえ立つ「あのテレビ局」も、球体の影も形もなかった頃。
バブル全盛期、友達は華やかなレストランや夜景バーでのデート話に花を咲かせていたけれど、私にはそんな経験はなかった。
あの頃の彼と過ごした時間といえば、夜のドライブ。
埠頭で夜景を眺めて、缶コーヒーを飲んで帰ってくる。車だからアルコールもなし。ただそれだけ。
「お母さんたち、昔どんなデートしてたの?」
娘がキッチンから顔を出して聞いてくる。私は編み物を膝に置いた。なんだか少し照れくさい。
「うーん、デートって言ってもね。
夜に車で湾岸線走って、工場地帯の夜景見て帰ってくるくらいかな」
「え、それだけ?」
娘が目を丸くする。
「それだけ」
「冬とか寒くない?
てか、何が楽しいの?」
「寒かったよ。でも、楽しかった」
娘はソファに座り込んで、信じられないというように首を傾げた。
「で、そこから結婚まで?
よく結婚したね、お母さん」
半ば呆れたような娘の言葉に、私は苦笑した。
確かにそうかもしれない。煌びやかさとは無縁のデートだった。
「自分が好きな場所は、好きな人にも見てもらいたいだろう」
ぼそりと、夫が呟いた。
スマートフォンから目を離さないまま、でもその声には確かな想いが込められていた。気持ちがふわりと温かくなる。
そうだった。あの時間が、本当に好きだった。
窓の外を流れていく街の灯り。埠頭に停めた車から見た、水面に揺れる光の粒。
缶コーヒーの温もりを手のひらで感じながら、他愛のない話をした。将来のこと、音楽のこと、好きな映画のこと。
息が白く凍るような冬の夜空、白い吐息がまるでマンガの吹き出しみたいで、私たちの会話も宙に浮かんでいた。
思い出すと、自然と笑みがこぼれる。
「はー。ノロケますか、今さら」
娘が笑いながら言う。
「……行くか、ドライブ」
夫が呟いた。
「え?」
「あの埠頭まで行かなくてもいい。
高台の公園あるだろう、あそこから夜景見えるし」
その言葉に胸が高鳴る。編み物を脇に置いて、立ち上がった。
「本当? 今から行く?」
「行くって言ってるだろう」
どのCDかけようか。あの頃よく聴いていた曲、まだ残ってるかな。
コートを羽織りながら少し浮き足立つ自分に気づいて、私はくすりと笑った。
「いってらっしゃい」
娘が呆れたように手を振る。
玄関で靴を履きながら、ふと思う。
時が流れて、髪も白くなって、起きると体のどこかが痛むようになって。それでも変わらないものがある。
きっと今夜も、私たちの吐息は白く凍る。
そしてそれはあの時と同じように、言葉にならない想いを乗せて夜空に溶けていくのだろう。
「行こうか」
夫が車のキーを手に、ドアを開けた。
冷たい夜の空気が頬を撫でる。私は深く息を吸い込んで、白い吐息を見つめた。
──ああ、やっぱり冬の夜は、こうでなくちゃ。
──────
今回、脳内でヘビーローテーションしてたユーミンの「埠頭を渡る風」は50年以上昔、もっと叙情的な印象ですね。
今は夜運転するのが怖いお年頃。首都高なんて走れないだろうなぁ……
〈消えない灯り〉
冬の朝の空気は、肺に刺さるほど冷たい。目覚ましより少し早く目が覚めたのは、今日が受験日だからだろう。布団から抜け出すと、床の冷たさが一気に足先へしみ込んでくる。台所では母が湯気の立つ味噌汁を温めていた。
「起きたの? 緊張するでしょ、あったかいの飲んで」
お椀を受け取ると、指先がじんと熱を取り戻す。その温もりが胸にも広がった。
ふと窓の外を見る。向かいの家の二階の部屋に、今日も小さく橙色の灯りがともっている。街はまだ夜の影を引きずっているのに、その光だけは冬の闇に浮かんでいた。
──
僕は毎朝四時に起きる。この生活を始めて四ヶ月。最初はつらかったが、今ではすっかり体が覚えた。布団から出ると部屋の空気は冷え切っていて、暖房が効くまでの数分が一番堪える。
静まり返った部屋で、凍えた指先をこすりながら参考書のページをめくる。その単調な時間に、ふと窓の外の灯りが目に入った。
気づけば毎朝、向かいの家に必ず点いている。
「向かいの家って、お年寄り二人だよね?
いつも電気ついてるんだけど」
朝食の席で母にたずねると、卵焼きを返しながら言った。
「お年寄りなんて言ったら失礼よ。
ご主人、市場勤めで朝が早いんですって。もう何十年も続けてるらしいわ」
なるほど、と思った。僕が受験勉強で早起きするあいだ、向かいのおじさんは仕事へ向かう準備をしていたのだ。真冬の朝でも、何十年も。
その日から向かいの明かりは、僕の中で特別な存在になった。つらい朝でも、灯りがともっているのを見ると不思議と背筋が伸びた。誰かが頑張っている。その事実だけで、自分も踏ん張れる気がした。
十二月が過ぎ、一月の寒さはさらに厳しくなった。洗面所の水が痛いほど冷たい朝も、向かいの明かりは変わらずそこにあった。
──
そして受験当日。通勤ラッシュに巻き込まれないように、早く家を出る。
母が玄関で慌ただしく確認する。
「受験票は? 筆記用具は? お守りも持った?」
「全部あるよ」
外に出ると、吐く息が白く立ちのぼった。
ちょうどその時、向かいの玄関も開き、奥さんがゴミ出しに出てきた。
「あら、おはようございます」
「おはようございます」
挨拶すると、奥さんがふわりと笑った。
「今年受験なんですってね。
毎朝、電気がついているから、うちの主人と話してたのよ。頑張ってるねって」
思わず目を見張った。向こうも僕の灯りを見ていたのか。
「主人ね、今朝も『そろそろ本番だな』って。
応援してるって言ってましたよ」
胸が熱くなる。冬の冷気より、その言葉のほうがずっと強く沁みた。
「ありがとうございます」
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
送り出すようなやわらかい眼差しに頭を下げ、自転車にまたがった。
駅へ向かう途中、信号待ちの間に振り返る。薄暗い空の下、僕の家と向かいの家の灯りが並んでいた。
電車に揺られながら窓の外を見る。明けきらない街に、ぽつぽつと明かりが灯り始める。
──消えない灯り。
あの光は、誰かが頑張っている証だ。市場のおじさんも、受験生の僕も。きっと他の誰かも、まだ暗い朝に小さな灯りをともしている。
そしてその光は、誰かに届く。僕が向かいの灯りに励まされたように、誰かが僕の灯りを見ていた。
いつか自分も、そんな灯りになれたらいい。
電車が駅に滑り込み、僕は立ち上がる。ホームに降り、凍りつく空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
さあ、行こう。
灯りを、消さないために。
──────
真っ暗にすると眠れないので、タイマーで1時間後に消えるようにしています。
たまに、消し忘れて明け方に気づくこともあったりなんだり。
自律神経的には、ホントは良くないんですけどね。
〈きらめく街並み〉
【sideA】
塾を出た瞬間、冷気が頬を刺した。
はあ、と息を吐くと白く曇って、ようやく冬休みに入った実感がわく。
駅前に歩いていくと、ビルの壁面や街路樹に、きらめく電飾が流れるように輝いていた。
あ、クリスマスか──。
問題集とプリントの山に埋もれて、すっかり忘れていた。
立ち止まって見上げていると、後ろから声がかかった。
「岡島?」
振り返ると、島内豪がマフラーを直しながら立っていた。野球部のスタジャンに、少し帽子の癖のついた髪。練習帰りなのだと思った。
「塾? おつかれ」
「うん。島内は?」
「俺も今帰り。イルミネーションすげーよな」
そう言って、彼は私の隣に並んだ。自然と同じ方向に歩き出す。
駅前広場は人でにぎわっているのに、隣にいる島内の気配がひときわ大きく感じられた。
「進路、もう決めた?」
と、彼が聞いてくる。
「……まだ迷ってる。
理系に行きたい気持ちはあるんだけど、研究職って就職につながるのかとか……
考え出すとよくわかんなくなって」
「だよなー。
俺も野球だけじゃダメだし、志望校ちゃんと考えないとって思ってる」
島内はポケットに手を入れたまま、ふうっと息を吐いた。
「まださ、十七年しか生きてないのに、未来まで考えろって無茶だよな」
「ほんとそれ。
だけど……やりたいことはあるんだよね。
実験とか研究とか。好きなんだけど、それで食べていけるのかなって」
言いながら、胸の奥がじんわり重くなった。誰に相談しても、明快な答えなんて出てこない。
すると島内が少し笑って、私を覗き込んだ。
「でもさ。
岡島が白衣着て実験してる未来、俺は普通に想像できるけどな。
授業でもいつも熱心だし」
「……え?」
不意打ちみたいな言葉で、視界が一瞬だけ明るくなる。
顔が熱くなった。イルミネーションの色が頬に映っているだけだ、と自分に言い聞かせる。
(そんなふうに思ってたの……?)
心拍数が上がる。
やがて、バスターミナルに着いた。私の乗るバスがすでに停車している。
「じゃあ、また来年な」
島内はそう言うと、当然のように右手を差し出してきた。
私は驚いて一瞬固まった。
「え、なに?」
「……あ、いや。
試合のあと、相手校と握手するじゃん。癖でつい」
彼は照れ臭そうに頭をかいた。
おずおずと手を差し出し、手袋越しに彼の手を握る。
がっしりした、節ばった大きな手……温もりがじんわり伝わってきた。
ほんの数秒だったのに、心臓が跳ねる音が自分でも聞こえそうだった。
「じゃ、よいお年を」
去っていく島内の背中を見送りながら、私はバスに乗り込んだ。
窓際の席に座り、発車すると、イルミネーションの光が流れるように視界を横切った。
きらめく街並みが、どういうわけかにじんで見える。
さっき握手したときの温かさが、まだ手のひらに残っている。
(この気持ち、なんて言うんだろう)
うまく言葉にはできない。でも、今日のことは、きっと何十年経っても覚えているだろう。
そんな不思議な確信だけが、胸の奥で静かに燃えていた。
──
【sideB】
クリスマスが近いことは知っていた。けれど、駅前のイルミネーションを、あんなふうにゆっくり眺めるのは久しぶりだった。
今日の俺は、ただの寄り道のつもりだったのに──まさか、岡島に会うとは。
塾帰りらしいバッグを肩にかけて、少しだけ疲れた顔をしていた。けれど光が反射して、頬のあたりだけはあたたかい色に見えた。
「こんなところで何してんの」と声をかけると、岡島はちょっと驚いて、すぐに笑った。それだけで胸の奥がざわざわしてくる。
俺たちは自然に並んで歩きだした。
彼女は理系で、授業でもずっと真面目で、質問する時の声は小さいくせに、目はすごく真剣だ。
進路の話になった時、「学びたいことはあるけど、就職につながるか不安」と言った岡島は、いつもより弱い声だった。
「まだ十七年しか生きてないのに、未来まで考えろって無理だよな」
自分でも、珍しくまっとうなことを言ったと思う。
でも、言葉より先に浮かんでいたのは、あの実験室に立つ岡島の姿だった。
理科の実験で、試験管をのぞき込んで、少しだけ眉を寄せる表情。
「岡島が白衣着て実験してる姿、想像できる。
岡島、授業でもいつも熱心だし」
そう言うと、彼女が一瞬だけこっちを見て、耳まで赤くした。
──その顔が、妙に頭に残る。
この先どうなるとか、そんなのまだわからない。
でも、あの時、もっと何か言ったほうがいいような気がした。
ただ、言葉が出なかった。
俺はいつも野球以外では不器用だ。進路のことも、実は誰より不安だ。
「野球だけじゃダメだし、志望校も考えないと」なんて言ったが、あれはほとんど自分に向けた言葉だった。
バスターミナルに着くと、岡島が「あ、じゃあね」と言った。
その時、反射的に腕が動いた。
「また来年」
気づけば、手を差し出していた。
やった瞬間に後悔した。クリスマス前の夜に、女子に突然握手ってなんだよ。
「あー……試合後の癖で、つい」
誤魔化すように笑ったけれど、本当は違う。
これは癖なんかじゃない。
ただ、触れたかった。
彼女が、離れていく前に。
でも、岡島は驚いた顔のまま微笑んで、そっと手を出してくれた。
手袋越しでもわかった。
小さくて、でもまっすぐ握り返してくる手。
その温もりに、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
バスが来て、岡島が乗り込んだ。
窓越しに、イルミネーションが彼女の横顔を照らしていた。
その光も、彼女が俺に向けてくれた小さな笑顔も、全部胸に焼きつく。
バスが動き出したとき、ようやく認めざるを得なくなった。
俺は、ずっと前から岡島のことが好きだったんだと。
気づくのに時間かかりすぎだよな、と自分でも思う。
でも今は、その想いが手袋越しの温もりみたいにじんわり残っている。
また来年。
その言葉が、こんなに楽しみになるなんて、思いもしなかった。
──────
というわけで、彼女と彼の視点で書いてみました。
野球部ぅー!笑
続くかどうかはわかりません。面白そうですけど。
〈秘密の手紙〉
小さな物音に気づいたのは、夜のニュースが始まる前だった。
廊下を歩くと、妻が和室の隅で小さな箱を膝に置き、何やら手紙を読んでいる。
返事らしきものを便箋に書き、封筒に入れ、そっと箱に戻す。蓋を閉じる指先は、まるで壊れものを扱うように優しかった。
「誰に返事を書いているんだ……?」
声をかけかけて、私は口を閉じた。
長年連れ添ってきたはずなのに、あんな表情は初めて見る。もやもやと、妙な感情が湧いた。
その晩、妻が風呂に入ったすきに、つい小箱の前に立ってしまった。
開けるな、と自分に言い聞かせる間もなく、指は蓋を持ち上げていた。
中には、色あせた封筒がぎっしりと並んでいる。ひとつを取り出すと、見覚えのない丸い字が目に飛び込んだ。
『16歳の私から、40歳の私へ』
40歳――妻が一番忙しかった頃だ。
別の封筒を開けば、
『28歳の私から、78歳の私へ』
今の妻に向けた手紙。
時を越えた“自分自身”への手紙だと気づいた瞬間、便箋が急に重く感じられた。
「日記みたいなものなのか?」
つぶやいた拍子に、封筒の束が箱の中で崩れ、ぱさりと床に散らばった。慌てて拾ったところで、背後が声がした。
「何をこそこそ見ていたんです?」
振り返ると、湯上がりの妻が、髪をタオルで押さえながら立っていた。
私は言葉を失った。
「い、いや……その……」
「ふうん。返事に困るということは、後ろ暗い気持ちがあったのね」
妻は私の手から便箋を取り上げ、ため息もなく言った。
「見られて困るものじゃありませんよ。どうぞ」
畳に腰を下ろし、一つの手紙を広げて見せる。
『16歳の私から、40歳の私へ』
『泣きたい日もあるでしょう。
でも、あなたはちゃんと大人になっているはずです』
『28歳の私から、78歳の私へ』
『私の目標はかわいいおばあちゃんになること。目標は果たされましたか?
あの人と仲良く暮らしていますか?』
私は聞かずにいられなかった。
「……これは全部、お前が書いたのか」
「そうですよ。話せないことが多かったから。
誰かに聞いてほしいのに、言ったってあなた生返事しかしなかったじゃない」
妻の言葉に胸がちくりと痛む。
思い返せば、確かにそうだ。
仕事に疲れ、面倒くさがり、妻の話を半分しか聞いていなかった。
「それで、自分に手紙を書いて、返事も書いていたのか」
「はい。愚痴も、不安も、悲しさも。
でも、うれしいこともね。愚痴ばかりじゃありませんよ」
妻は小箱から別の封筒を取り出し、私に渡した。
そこにはこう綴られていた。
『45歳の私へ』
『あの人が珍しく誕生日を覚えていて、ケーキを買ってきてくれた。恥ずかしそうで、かわいかった』
顔が熱くなった。
そんなに喜んでいたなんて、知らなかった。
「……悪かった。
お前がつらい時、ちゃんと気づけなくて」
「もういいんです。昔のことですから」
妻は膝の上の小箱をそっと閉じ、しばらくそれを撫でた。
「これはね、人生のアルバムみたいなものなんです」
「そうか……」
「でもね、あなた宛の手紙もあるんですよ」
「……俺に?」
「ええ。いつか読む時がくるでしょうけど、まだ見せません。
私の最後の一通ですから」
“最後の一通”。
それを読む時の自分は、どんな顔をしているだろう。
戸惑った私に、妻は柔らかく笑った。
──
その夜、布団に入っても眠れなかった。
妻がどれだけの思いを抱え、どれだけ私を思いやりながら生きてきたか──思い返すほど胸が痛む。
妻が私にしてくれたことを、覚えているつもりでいて実は覚えていなかったのではないか。
朝の味噌汁の湯気、弁当の匂い、疲れて帰った時のひと言。
あれらは全部、妻が黙って差し出してくれた“手紙”のようなものだったのかもしれない。
そして私は、それに返事をしたことがあっただろうか。
……いや、ほとんどない。
私は起き出し、自分の机の引き出しを開けた。
古い便箋と封筒を取り出し、しばらく見つめる。
「……書くか。俺も」
何を書くべきだろう?
謝罪か、感謝か、長年言えずにいた言葉か。
書き始めればどれも照れくさく、どこかで言い訳をしてしまいそうだ。
そしてふと考える。
この手紙を、どこにしまっておこうか。
机の奥か、タンスの引き出しか。
いや、小箱の底にそっと置いておくのもいい。
妻がいつか見つけたとき、どんな顔をするだろう。
胸に温かい緊張を抱えながら、私は小さく息を吸った。
──さて、何から書こうか。
妻の寝息を聞きながら、その一行目の言葉をずっと考えている。
──────
子育てや仕事のことで悩んで眠れなかった時代、子供に向けて手紙を書いていました。
(相当昔です)
20年ぶりにそれを見つけ、がんばったねとその頃の自分を慰めて、手紙をシュレッダーに。
手紙を燃やしてお炊き上げする時代じゃないですからねぇ。
このお話の妻さんも、もっと秘めた想いはお炊き上げしてる……はず。