汀月透子

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12/9/2025, 9:05:24 AM

〈雪原の先へ〉

 大学の図書館で文献を探していたとき、中学の同級生だった女子に声をかけられた。
 久しぶり、元気にしてた?
 そんな他愛もない会話のあとで、彼女は少し躊躇うように言った。
「そういえば、覚えてるかな。鈴木将晴くん」

 もちろん覚えている。小学校から中学まで同じクラスだった。

「あの子、亡くなったんだって」

 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 特別親しかったわけじゃない。でも、同い年の友達がもうこの世界にいないということが、俺の中で何かを揺さぶっていた。

──

 その夜、眠れなくて、小学生の頃のことを思い出していた。

 図書館で本を探していると、将晴がよく話しかけてきた。
 彼は写真集が好きで、大きな画集を熱心に眺めていた。本好きの俺も図書館の常連で、将晴は時々「この構図すごくない?」と解説してくれた。
 おじさんのお下がりだという、少し古ぼけたデジカメで、いろんなものを撮影していた。

 ある冬の日、将晴が唐突に言った。

「西の峰の手前に、開けてるところあるだろ? 
 雪が降った翌朝、朝日が一面の雪と西の峰に反射してすごくきれいなんだぜ」

 なぜあの時、彼はそんな話をしたのだろう。
 俺は「へえ」とだけ答えて、それ以上聞かなかった。

 中学を卒業してから、彼とは別の高校に進んだ。たまに駅で見かける程度で、もう話すこともなかった。
 それだけの関係だった。

──

 年末、雪が降り始めた日に帰郷した。久しぶりに食卓を囲んで、母が言った。

「そういえば、鈴木さんちの将晴くん、亡くなったのよ」
「……知ってる」
「あの子の家も大変だったのよ」

 母の話で初めて知った。
 将晴を残して、母親と弟たちが家を出て行ったこと。高校を中退して、働いていたこと。

「お葬式も身内だけで済ませて、父親も出て行っちゃって。
 ……お墓も何もわからないのよ」

 母は小さくため息をついた。

 翌朝、まだ夜が明け切らないうちに目が覚めた。外を見ると、雪が積もっていた。

 気づくと、俺はコートを羽織って外に出ていた。
 雪に覆われた山道を歩く。息が白く凍る。
 将晴が見せたかった景色はどんなものだったのか。自分が将晴のことを忘れてしまったら、将晴の存在がなかったことになる気がした。

 道を上がりきった、開けた場所。
 右手に西の峰が見え、左の山の端から朝日が差し始めた。

 それまで青みがかった影で埋められていた木々が、次々と光を浴びていく。西の峰が黄金色に染まる。雪原が光を反射して、世界全体が輝き出す。まるで一枚の絵画のような光景だった。

 眩い光の中、一瞬、小学生の将晴が見えた気がした。
 古ぼけたデジカメを首から下げて、ファインダーを覗き込んでいる。あの頃と同じ、少し誇らしげな笑顔で。

『すごく、きれいだろ?』

 彼の声が聞こえた気がした。

 まぶしすぎて、何も見えない。いつの間にか、涙が頬を伝っていた。

 あの時、俺が「今度一緒に見に行こうよ」と言っていたら。もっと彼の話を聞いていたら。何か変わっただろうか。

 でも、今ここにいる。将晴が見せたかった景色を、俺は見ている。

 ポケットからスマホを取り出して、震える手でシャッターを切った。

 将晴、お前が見せたかったもの、ちゃんと見たよ。

 雪原の向こうから、風が吹いてきた。

──

 東京に戻る前日、俺は町の図書館に立ち寄った。小学生の頃から通い慣れた場所。
 カウンターには、あの頃と変わらず司書の北村先生がいた。

「則孝くん、久しぶりね。大学生活はどう?」

 先生と少し話をしてから、俺は小学生の頃よく座っていた窓際の席に向かった。
 ここで本を読んでいると、将晴が写真集を抱えてやってきたんだ。

 ふと、壁に飾られた一枚のパネルに目が留まった。

 雪原と、黄金色に輝く西の峰。見覚えがある。あの朝、俺が見た景色だ。
 でも、俺が撮った写真とは明らかに違う。構図が、光の捉え方が、まるで絵画のように計算されている。

「綺麗でしょう?」

 いつの間にか、北村先生が隣に立っていた。

「これ……」

「返却された写真集に、メモリーカードが挟まっていたのよ。
 もう何年も取りに来る人がいないから、悪いけどデータを見させてもらったの。
 10年近く前のデータだけど、どれも本当に綺麗な写真ばかりでね」

 胸が苦しくなった。

「こうしてパネルにすれば、いつか本人が見に来るかもしれないと思って」

「これ……鈴木将晴の写真です」

 先生の顔が曇った。

「将晴くん……
 そう、よくここで写真集を見ていたわね。彼が撮ったの?」

「たぶん」

 先生は目を伏せて、小さく息を吐いた。

「……そうだったの」

 しばらく沈黙が続いた。

「先生、将晴のお母さんの連絡先、調べられませんか?」

 北村先生は少し考えてから、頷いた。

「将晴くんの撮ったものならお母さんに返したいわよね……
 ……将晴くん、おじさんからもらったデジカメだってよく自慢してたわよね?」

 そうだ、あの頃の将晴は俺の前でもカメラを操作して見せていた。

「パネル作ってくれたカメラ屋の斎藤さんなら、将晴くんのおじさんの連絡先知ってるかもね。カメラ仲間で」

 先生は名探偵のように思慮深く、推理をまとめていた。

──

 数日後、東京に戻ってから、母から電話があった。
 北村先生は町のネットワークを駆使して、将晴のおじさんと連絡を取ってくれたらしい。

「将晴くんのおじさんが図書館に来たんだって。
 メモリーカードを受け取って、すごく喜んでたらしいわよ。お母さんに渡すって
 あなたにもお礼を言ってくれって」

 良かった、と思った。将晴が撮った写真が、家族のもとに戻る。

「それでね、おじさんが言ったんだって。
『この写真は、ここに飾っておいてください』って。
 図書館は将晴くんが一番好きだった場所だから、ここに残してあげたいって」

 受話器を握る手に、力が入った。

──

 ゴールデンウイークに帰郷したとき、俺はまた図書館を訪れた。
 正月に訪れたときと違い、たくさんの子供たちが図書館にいる。

「デジカメ講座やってるのよ。将晴くんのおじさんと、カメラ屋さんがボランティアでね」

 北村先生がにこやかに話す。

 デジカメに限らず、スマホで何を撮るか、どう撮ったらいいのか。
 ちびっ子カメラマンたちはふざけることもなく、真剣に話を聞いている。

「小学生でも極めれば、あんなすごい写真が撮れるのよ、てね」

 視線の先には、あの雪原のパネル。
 その下に、小さな真鍮のプレートが取り付けられていた。

【撮影:鈴木将晴】

 写真の中の雪原は、永遠にあの朝の輝きを湛えている。西の峰が黄金色に染まり、世界が光に満ちている。
 将晴が見た美しいもの、残したかったもの。それがここにある。

 きっとこれから何年も、何十年も、この写真を見る人がいる。将晴のことを知らない人たちが、この光景に心を動かされる。

 雪原の先。
 将晴が確かに生きて、この世界の美しさを愛した証がそこにあった。


──────

デジカメを使い始めて四半世紀になりますが、年代ものでも捨てがたい……どうしましょうね。

私は図書館に入り浸っていた派なので、学校の司書の先生とはよく話していました。
20年経ってお会いする機会がありましたが、あの頃よく読んでいたシリーズを覚えていてくださいましたね……
その先生のお名前をお借りしました。イメージは市川実日子さんです。


12/7/2025, 11:22:27 PM

〈白い吐息〉

 テレビの画面に映し出される工業地帯の夜景が、まるで宝石箱をひっくり返したように煌めいている。

「わあ、きれい」

 リビングのソファで編み物をしていた手を止めて、ふと顔を上げた。
 五十七歳。最近は老眼鏡が手放せなくなり、白髪染めの頻度も増えた。
 それでも、テレビに映るあの光景を見ていると、不思議と懐かしさがこみ上げてくる。

 工場の煙突から立ち上る白い煙。水面に映り込む無数の光。ああ、そういえば──

「ねえ、覚えてる?
 付き合ってた頃、よく湾岸線走ったよね」

 隣でスマートフォンをいじっていた夫が、ちらりとこちらを見た。

「ああ、行ったな」

 短い返事。でも、その声には確かに共有する記憶が含まれていた。

 あれは四十年近く前のこと。お台場なんてまだ埋め立て地で、今では当たり前のようにそびえ立つ「あのテレビ局」も、球体の影も形もなかった頃。
 バブル全盛期、友達は華やかなレストランや夜景バーでのデート話に花を咲かせていたけれど、私にはそんな経験はなかった。

 あの頃の彼と過ごした時間といえば、夜のドライブ。
 埠頭で夜景を眺めて、缶コーヒーを飲んで帰ってくる。車だからアルコールもなし。ただそれだけ。

「お母さんたち、昔どんなデートしてたの?」

 娘がキッチンから顔を出して聞いてくる。私は編み物を膝に置いた。なんだか少し照れくさい。

「うーん、デートって言ってもね。
 夜に車で湾岸線走って、工場地帯の夜景見て帰ってくるくらいかな」
「え、それだけ?」

 娘が目を丸くする。

「それだけ」
「冬とか寒くない?
 てか、何が楽しいの?」
「寒かったよ。でも、楽しかった」

 娘はソファに座り込んで、信じられないというように首を傾げた。

「で、そこから結婚まで?
 よく結婚したね、お母さん」
 半ば呆れたような娘の言葉に、私は苦笑した。
 確かにそうかもしれない。煌びやかさとは無縁のデートだった。

「自分が好きな場所は、好きな人にも見てもらいたいだろう」
 ぼそりと、夫が呟いた。
 スマートフォンから目を離さないまま、でもその声には確かな想いが込められていた。気持ちがふわりと温かくなる。

 そうだった。あの時間が、本当に好きだった。

 窓の外を流れていく街の灯り。埠頭に停めた車から見た、水面に揺れる光の粒。
 缶コーヒーの温もりを手のひらで感じながら、他愛のない話をした。将来のこと、音楽のこと、好きな映画のこと。
 息が白く凍るような冬の夜空、白い吐息がまるでマンガの吹き出しみたいで、私たちの会話も宙に浮かんでいた。

 思い出すと、自然と笑みがこぼれる。

「はー。ノロケますか、今さら」
 娘が笑いながら言う。

「……行くか、ドライブ」
 夫が呟いた。

「え?」
「あの埠頭まで行かなくてもいい。
 高台の公園あるだろう、あそこから夜景見えるし」

 その言葉に胸が高鳴る。編み物を脇に置いて、立ち上がった。

「本当? 今から行く?」
「行くって言ってるだろう」

 どのCDかけようか。あの頃よく聴いていた曲、まだ残ってるかな。
 コートを羽織りながら少し浮き足立つ自分に気づいて、私はくすりと笑った。

「いってらっしゃい」
 娘が呆れたように手を振る。

 玄関で靴を履きながら、ふと思う。
 時が流れて、髪も白くなって、起きると体のどこかが痛むようになって。それでも変わらないものがある。

 きっと今夜も、私たちの吐息は白く凍る。
 そしてそれはあの時と同じように、言葉にならない想いを乗せて夜空に溶けていくのだろう。

「行こうか」

 夫が車のキーを手に、ドアを開けた。
 冷たい夜の空気が頬を撫でる。私は深く息を吸い込んで、白い吐息を見つめた。

──ああ、やっぱり冬の夜は、こうでなくちゃ。



──────

今回、脳内でヘビーローテーションしてたユーミンの「埠頭を渡る風」は50年以上昔、もっと叙情的な印象ですね。
今は夜運転するのが怖いお年頃。首都高なんて走れないだろうなぁ……

12/7/2025, 8:59:12 AM

〈消えない灯り〉

 冬の朝の空気は、肺に刺さるほど冷たい。目覚ましより少し早く目が覚めたのは、今日が受験日だからだろう。布団から抜け出すと、床の冷たさが一気に足先へしみ込んでくる。台所では母が湯気の立つ味噌汁を温めていた。

「起きたの? 緊張するでしょ、あったかいの飲んで」

 お椀を受け取ると、指先がじんと熱を取り戻す。その温もりが胸にも広がった。

 ふと窓の外を見る。向かいの家の二階の部屋に、今日も小さく橙色の灯りがともっている。街はまだ夜の影を引きずっているのに、その光だけは冬の闇に浮かんでいた。

──

 僕は毎朝四時に起きる。この生活を始めて四ヶ月。最初はつらかったが、今ではすっかり体が覚えた。布団から出ると部屋の空気は冷え切っていて、暖房が効くまでの数分が一番堪える。

 静まり返った部屋で、凍えた指先をこすりながら参考書のページをめくる。その単調な時間に、ふと窓の外の灯りが目に入った。
 気づけば毎朝、向かいの家に必ず点いている。

「向かいの家って、お年寄り二人だよね?
 いつも電気ついてるんだけど」

 朝食の席で母にたずねると、卵焼きを返しながら言った。

「お年寄りなんて言ったら失礼よ。
 ご主人、市場勤めで朝が早いんですって。もう何十年も続けてるらしいわ」

 なるほど、と思った。僕が受験勉強で早起きするあいだ、向かいのおじさんは仕事へ向かう準備をしていたのだ。真冬の朝でも、何十年も。

 その日から向かいの明かりは、僕の中で特別な存在になった。つらい朝でも、灯りがともっているのを見ると不思議と背筋が伸びた。誰かが頑張っている。その事実だけで、自分も踏ん張れる気がした。

 十二月が過ぎ、一月の寒さはさらに厳しくなった。洗面所の水が痛いほど冷たい朝も、向かいの明かりは変わらずそこにあった。

──

 そして受験当日。通勤ラッシュに巻き込まれないように、早く家を出る。
 母が玄関で慌ただしく確認する。

「受験票は? 筆記用具は? お守りも持った?」
「全部あるよ」

 外に出ると、吐く息が白く立ちのぼった。

 ちょうどその時、向かいの玄関も開き、奥さんがゴミ出しに出てきた。

「あら、おはようございます」
「おはようございます」

 挨拶すると、奥さんがふわりと笑った。

「今年受験なんですってね。
 毎朝、電気がついているから、うちの主人と話してたのよ。頑張ってるねって」

 思わず目を見張った。向こうも僕の灯りを見ていたのか。

「主人ね、今朝も『そろそろ本番だな』って。
 応援してるって言ってましたよ」

 胸が熱くなる。冬の冷気より、その言葉のほうがずっと強く沁みた。

「ありがとうございます」
「行ってらっしゃい。頑張ってね」

 送り出すようなやわらかい眼差しに頭を下げ、自転車にまたがった。

 駅へ向かう途中、信号待ちの間に振り返る。薄暗い空の下、僕の家と向かいの家の灯りが並んでいた。

 電車に揺られながら窓の外を見る。明けきらない街に、ぽつぽつと明かりが灯り始める。

──消えない灯り。

 あの光は、誰かが頑張っている証だ。市場のおじさんも、受験生の僕も。きっと他の誰かも、まだ暗い朝に小さな灯りをともしている。

 そしてその光は、誰かに届く。僕が向かいの灯りに励まされたように、誰かが僕の灯りを見ていた。
 いつか自分も、そんな灯りになれたらいい。

 電車が駅に滑り込み、僕は立ち上がる。ホームに降り、凍りつく空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 さあ、行こう。
 灯りを、消さないために。

──────

真っ暗にすると眠れないので、タイマーで1時間後に消えるようにしています。
たまに、消し忘れて明け方に気づくこともあったりなんだり。
自律神経的には、ホントは良くないんですけどね。

12/6/2025, 8:02:36 AM

〈きらめく街並み〉

【sideA】
 塾を出た瞬間、冷気が頬を刺した。
 はあ、と息を吐くと白く曇って、ようやく冬休みに入った実感がわく。
 駅前に歩いていくと、ビルの壁面や街路樹に、きらめく電飾が流れるように輝いていた。
 あ、クリスマスか──。
 問題集とプリントの山に埋もれて、すっかり忘れていた。

 立ち止まって見上げていると、後ろから声がかかった。

「岡島?」

 振り返ると、島内豪がマフラーを直しながら立っていた。野球部のスタジャンに、少し帽子の癖のついた髪。練習帰りなのだと思った。

「塾? おつかれ」
「うん。島内は?」
「俺も今帰り。イルミネーションすげーよな」

 そう言って、彼は私の隣に並んだ。自然と同じ方向に歩き出す。
 駅前広場は人でにぎわっているのに、隣にいる島内の気配がひときわ大きく感じられた。

「進路、もう決めた?」
 と、彼が聞いてくる。

「……まだ迷ってる。
 理系に行きたい気持ちはあるんだけど、研究職って就職につながるのかとか……
 考え出すとよくわかんなくなって」

「だよなー。
 俺も野球だけじゃダメだし、志望校ちゃんと考えないとって思ってる」

 島内はポケットに手を入れたまま、ふうっと息を吐いた。

「まださ、十七年しか生きてないのに、未来まで考えろって無茶だよな」
「ほんとそれ。
 だけど……やりたいことはあるんだよね。
 実験とか研究とか。好きなんだけど、それで食べていけるのかなって」

 言いながら、胸の奥がじんわり重くなった。誰に相談しても、明快な答えなんて出てこない。

 すると島内が少し笑って、私を覗き込んだ。

「でもさ。
 岡島が白衣着て実験してる未来、俺は普通に想像できるけどな。
 授業でもいつも熱心だし」
「……え?」

 不意打ちみたいな言葉で、視界が一瞬だけ明るくなる。
 顔が熱くなった。イルミネーションの色が頬に映っているだけだ、と自分に言い聞かせる。

(そんなふうに思ってたの……?)
 心拍数が上がる。

 やがて、バスターミナルに着いた。私の乗るバスがすでに停車している。

「じゃあ、また来年な」
 島内はそう言うと、当然のように右手を差し出してきた。
 私は驚いて一瞬固まった。

「え、なに?」
「……あ、いや。
 試合のあと、相手校と握手するじゃん。癖でつい」

 彼は照れ臭そうに頭をかいた。

 おずおずと手を差し出し、手袋越しに彼の手を握る。
 がっしりした、節ばった大きな手……温もりがじんわり伝わってきた。
 ほんの数秒だったのに、心臓が跳ねる音が自分でも聞こえそうだった。

「じゃ、よいお年を」

 去っていく島内の背中を見送りながら、私はバスに乗り込んだ。

 窓際の席に座り、発車すると、イルミネーションの光が流れるように視界を横切った。
 きらめく街並みが、どういうわけかにじんで見える。
 さっき握手したときの温かさが、まだ手のひらに残っている。

(この気持ち、なんて言うんだろう)

 うまく言葉にはできない。でも、今日のことは、きっと何十年経っても覚えているだろう。
 そんな不思議な確信だけが、胸の奥で静かに燃えていた。

──

【sideB】

 クリスマスが近いことは知っていた。けれど、駅前のイルミネーションを、あんなふうにゆっくり眺めるのは久しぶりだった。
 今日の俺は、ただの寄り道のつもりだったのに──まさか、岡島に会うとは。

 塾帰りらしいバッグを肩にかけて、少しだけ疲れた顔をしていた。けれど光が反射して、頬のあたりだけはあたたかい色に見えた。
「こんなところで何してんの」と声をかけると、岡島はちょっと驚いて、すぐに笑った。それだけで胸の奥がざわざわしてくる。

 俺たちは自然に並んで歩きだした。
 彼女は理系で、授業でもずっと真面目で、質問する時の声は小さいくせに、目はすごく真剣だ。
 進路の話になった時、「学びたいことはあるけど、就職につながるか不安」と言った岡島は、いつもより弱い声だった。

「まだ十七年しか生きてないのに、未来まで考えろって無理だよな」
 自分でも、珍しくまっとうなことを言ったと思う。

 でも、言葉より先に浮かんでいたのは、あの実験室に立つ岡島の姿だった。
 理科の実験で、試験管をのぞき込んで、少しだけ眉を寄せる表情。

「岡島が白衣着て実験してる姿、想像できる。
 岡島、授業でもいつも熱心だし」
 そう言うと、彼女が一瞬だけこっちを見て、耳まで赤くした。

 ──その顔が、妙に頭に残る。

 この先どうなるとか、そんなのまだわからない。
 でも、あの時、もっと何か言ったほうがいいような気がした。
 ただ、言葉が出なかった。
 俺はいつも野球以外では不器用だ。進路のことも、実は誰より不安だ。
「野球だけじゃダメだし、志望校も考えないと」なんて言ったが、あれはほとんど自分に向けた言葉だった。

 バスターミナルに着くと、岡島が「あ、じゃあね」と言った。
 その時、反射的に腕が動いた。

「また来年」
 気づけば、手を差し出していた。

 やった瞬間に後悔した。クリスマス前の夜に、女子に突然握手ってなんだよ。

「あー……試合後の癖で、つい」
 誤魔化すように笑ったけれど、本当は違う。

 これは癖なんかじゃない。
 ただ、触れたかった。
 彼女が、離れていく前に。

 でも、岡島は驚いた顔のまま微笑んで、そっと手を出してくれた。

 手袋越しでもわかった。
 小さくて、でもまっすぐ握り返してくる手。
 その温もりに、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 バスが来て、岡島が乗り込んだ。
 窓越しに、イルミネーションが彼女の横顔を照らしていた。
 その光も、彼女が俺に向けてくれた小さな笑顔も、全部胸に焼きつく。

 バスが動き出したとき、ようやく認めざるを得なくなった。
 俺は、ずっと前から岡島のことが好きだったんだと。

 気づくのに時間かかりすぎだよな、と自分でも思う。
 でも今は、その想いが手袋越しの温もりみたいにじんわり残っている。

 また来年。
 その言葉が、こんなに楽しみになるなんて、思いもしなかった。


──────

というわけで、彼女と彼の視点で書いてみました。
野球部ぅー!笑

続くかどうかはわかりません。面白そうですけど。

12/4/2025, 11:42:34 PM

〈秘密の手紙〉

 小さな物音に気づいたのは、夜のニュースが始まる前だった。

 廊下を歩くと、妻が和室の隅で小さな箱を膝に置き、何やら手紙を読んでいる。
 返事らしきものを便箋に書き、封筒に入れ、そっと箱に戻す。蓋を閉じる指先は、まるで壊れものを扱うように優しかった。

「誰に返事を書いているんだ……?」

 声をかけかけて、私は口を閉じた。
 長年連れ添ってきたはずなのに、あんな表情は初めて見る。もやもやと、妙な感情が湧いた。

 その晩、妻が風呂に入ったすきに、つい小箱の前に立ってしまった。
 開けるな、と自分に言い聞かせる間もなく、指は蓋を持ち上げていた。

 中には、色あせた封筒がぎっしりと並んでいる。ひとつを取り出すと、見覚えのない丸い字が目に飛び込んだ。

『16歳の私から、40歳の私へ』

 40歳――妻が一番忙しかった頃だ。
 別の封筒を開けば、

『28歳の私から、78歳の私へ』

 今の妻に向けた手紙。
 時を越えた“自分自身”への手紙だと気づいた瞬間、便箋が急に重く感じられた。

「日記みたいなものなのか?」

 つぶやいた拍子に、封筒の束が箱の中で崩れ、ぱさりと床に散らばった。慌てて拾ったところで、背後が声がした。

「何をこそこそ見ていたんです?」

 振り返ると、湯上がりの妻が、髪をタオルで押さえながら立っていた。
 私は言葉を失った。

「い、いや……その……」
「ふうん。返事に困るということは、後ろ暗い気持ちがあったのね」

 妻は私の手から便箋を取り上げ、ため息もなく言った。

「見られて困るものじゃありませんよ。どうぞ」

 畳に腰を下ろし、一つの手紙を広げて見せる。

『16歳の私から、40歳の私へ』
『泣きたい日もあるでしょう。
 でも、あなたはちゃんと大人になっているはずです』

『28歳の私から、78歳の私へ』
『私の目標はかわいいおばあちゃんになること。目標は果たされましたか?
 あの人と仲良く暮らしていますか?』

 私は聞かずにいられなかった。

「……これは全部、お前が書いたのか」
「そうですよ。話せないことが多かったから。
 誰かに聞いてほしいのに、言ったってあなた生返事しかしなかったじゃない」

 妻の言葉に胸がちくりと痛む。

 思い返せば、確かにそうだ。
 仕事に疲れ、面倒くさがり、妻の話を半分しか聞いていなかった。

「それで、自分に手紙を書いて、返事も書いていたのか」
「はい。愚痴も、不安も、悲しさも。
 でも、うれしいこともね。愚痴ばかりじゃありませんよ」

 妻は小箱から別の封筒を取り出し、私に渡した。
 そこにはこう綴られていた。

『45歳の私へ』
『あの人が珍しく誕生日を覚えていて、ケーキを買ってきてくれた。恥ずかしそうで、かわいかった』

 顔が熱くなった。
 そんなに喜んでいたなんて、知らなかった。

「……悪かった。
 お前がつらい時、ちゃんと気づけなくて」
「もういいんです。昔のことですから」

 妻は膝の上の小箱をそっと閉じ、しばらくそれを撫でた。

「これはね、人生のアルバムみたいなものなんです」
「そうか……」

「でもね、あなた宛の手紙もあるんですよ」
「……俺に?」
「ええ。いつか読む時がくるでしょうけど、まだ見せません。
 私の最後の一通ですから」

 “最後の一通”。
 それを読む時の自分は、どんな顔をしているだろう。
 戸惑った私に、妻は柔らかく笑った。

──

 その夜、布団に入っても眠れなかった。
 妻がどれだけの思いを抱え、どれだけ私を思いやりながら生きてきたか──思い返すほど胸が痛む。

 妻が私にしてくれたことを、覚えているつもりでいて実は覚えていなかったのではないか。
 朝の味噌汁の湯気、弁当の匂い、疲れて帰った時のひと言。
 あれらは全部、妻が黙って差し出してくれた“手紙”のようなものだったのかもしれない。

 そして私は、それに返事をしたことがあっただろうか。
 ……いや、ほとんどない。

 私は起き出し、自分の机の引き出しを開けた。
 古い便箋と封筒を取り出し、しばらく見つめる。

 「……書くか。俺も」

 何を書くべきだろう?
 謝罪か、感謝か、長年言えずにいた言葉か。
 書き始めればどれも照れくさく、どこかで言い訳をしてしまいそうだ。

 そしてふと考える。
 この手紙を、どこにしまっておこうか。
 机の奥か、タンスの引き出しか。
 いや、小箱の底にそっと置いておくのもいい。

 妻がいつか見つけたとき、どんな顔をするだろう。
 胸に温かい緊張を抱えながら、私は小さく息を吸った。

──さて、何から書こうか。

 妻の寝息を聞きながら、その一行目の言葉をずっと考えている。

──────

子育てや仕事のことで悩んで眠れなかった時代、子供に向けて手紙を書いていました。
(相当昔です)
20年ぶりにそれを見つけ、がんばったねとその頃の自分を慰めて、手紙をシュレッダーに。
手紙を燃やしてお炊き上げする時代じゃないですからねぇ。

このお話の妻さんも、もっと秘めた想いはお炊き上げしてる……はず。

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