—最後の香り—
自分の部屋の窓を開けると、やわらかい果実のような甘い香りが鼻をくすぐる。この匂いを嗅ぐと、秋が来たんだなと感じる。
「このキンモクセイの香りを嗅げるのは、今年で最後みたいねぇ」
「本当に残念だわ。公園は住宅地に代わるらしいわよ」
近所のおばちゃんたちが話している。二人の声は、自然と耳に入ってきた。
おばちゃんたちの言う通り、家の近くの公園では、規制線の向こうで工事が進んでいる。
「ここの人たち、みーんな反対してるのに市長が勝手に決めたんだってねぇ」
「あら、そうだったの!」
皆、キンモクセイのこの優しい香りが好きなのだ。僕も正直、無くなってほしくない。
「だからバチが当たるのよ。この間のニュース見た?」
「ええ、見たわ。いつかはやると思ってたのよ」
僕もそのニュースは見た。市長にはパワハラの疑惑がかけられているらしい。
でももし、それが本当なら……。
「辞任するのかしらね」
「そうじゃないかしら。もしそうなったら、公園の閉鎖は無くなるのかしらねぇ」
だが既に工事は始まっているので、残念だが無くなるとは思えない。
最後にキンモクセイの香りを胸いっぱいに吸い込んで、窓を閉めた。
来年は別のどこかでキンモクセイを感じられたらいいな、と思う。
お題:キンモクセイ
—運命の席替え—
宮野のクラスでは一ヶ月に一度、席替えが行われる。そして今日が、その席替えの日。
(また上原と隣になれますように。また上原と隣になれますように——)
宮野は胸の前で両手を組んで願った。
席替えの方法はくじである。一人一枚くじを引き、書かれている番号の席に移動するやり方だ。
宮野がくじを引く番になった。画用紙で作られたボックスに手を入れる。
(これだっ!)
番号には十九と書かれていた。隣で上原がくじを引いている。息を止めて手元を見つめる。
「私、二十番だ。宮野は?」
「俺は十九番だったよ」
奇跡的に番号が続いていたので、期待して黒板を見る。座席表が書かれており、不規則に番号が振られていた。
「どんまい、真ん中の一番前じゃん」上原は揶揄して微笑んだ。
「マジかよ……」
たとえ先生の真ん前だとしても、上原が隣にいるなら、と思ったが隣は違う番号だった。
「私は……。やった、窓側の後ろから二番目だ」
「いいなぁ」
席を確認した人から移動しろ、という先生の指示でみんな動き出す。
「じゃあね、宮野。一ヶ月、楽しかったよ」
「うん、俺も。また」
『楽しかったよ』と言われて胸が熱くなる。
来月はまた隣になれたらいいなと思いながら机を動かした。
お題:行かないでと、願ったのに
—思い出の一ページ—
学校から帰ってきて五分も経っていないのに、僕を呼ぶ声が聞こえた。
「ダイキー、虫とり行こうー」
自分の部屋の窓から顔を覗かせると、虫籠と虫網を持ったタクヤがいた。
彼は学校で『虫博士』と呼ばれている。
「ちょっと待って、すぐ行くー」
僕も虫籠と虫網を持って、外に出る。
もうすぐ夏休みのこの季節には、珍しい虫がたくさんいるらしい。僕達は、近くの森に向かった。
「二人で手分けして探そう。何か見つけたら教えてほしい」タクヤは言った。
「わかった」
僕達は二手に分かれた。
この森は迷子にならないように看板が設置してあるので、奥まで行っても安心だ。ぐんぐんと進んでいく。
「あっ!あれって……」
一時間が経過した頃。
木の根元を歩いている、黒くて小さいカブトムシを見つけた。ポケット図鑑で確認する。
「やっぱり、コカブトムシだ……」
逃げないように、そっと虫網を近づける。タイミングを見計らい、バサっと一瞬で獲物を捕らえる。
「やった」
虫籠に入れ、引き返すことにした。森の入り口まで近づくと、タクヤの姿が見えた。虫はまだ捕まえていないようだ。
「何か見つけた?」
「うん。多分びっくりするよ」
僕は虫籠を見せた。すると、彼は驚きと喜びの顔を見せた。
「コカブトムシだ、すごい!そうそう見つけられる虫じゃない。しかもツノが立派だ。この森にいるとは思わなかった」
「な、すごいだろ」
僕達は目を見合わせて、ハイタッチした。
「持って帰ってもいいかな」
「もちろん」
僕達は二人で虫の標本を作っている。捕まえた虫をタクヤが飼い、死んでしまった虫を標本として記録に残している。
彼の父親が昆虫学者なので、そこは任せている。
「この前捕まえた『オオムラサキ』見に来る?」
「行きたい!」
また二人の思い出が一ページ増える。そう思うと僕の心も喜びで満ちていった。
きっとまだ出会ったことのない虫たちが待っている。夏休みが待ち遠しい。
お題:秘密の標本
—正しい有給の使い方—
布団の中でスマホの画面を覗いた。
「六時か……」
金曜日の朝六時。俺はいつもこの時間に起きて、仕事に向かう準備をする。
だが、今日は違う。
なんと有給休暇で休みなのだ!
特に予定があるわけではない。有給を消化してほしいと言われたので、仕方なく今日にしただけだ。
アラームをかけていないのに起きてしまったのは、日々の習慣が定着している良い証拠だろう。
それはさておき、今日はどこに行こうか。
頭の中で考える。
映画館、カフェ、ラーメン屋、本屋……などなど。
行きたい場所はいっぱいある。
「とりあえず寝るか……」
布団の外は寒い。もう少しぬくぬくしていたい。
二度目の眠りに入った。
「あれ……、もう三時⁈」
いつの間にか、午後の三時になっていた。日頃の疲れが溜まっていたのか、ぐっすり寝てしまっていた。
「まぁ今日は家の中で過ごすか」
もう外に出る気は無くなっていた。
よく寝たおかげで疲れは取れた。今日はそれだけでも良しとしよう。
お題:凍える朝
—もう一人の私—
「本当に一人遊びが好きね」昔、母は私に言った。
だから私は「一人じゃないよ」と反論したけれど、そう答えると母の表情にハテナが浮かんだ。
小さい頃の私は知らなかったのだ。
みんなの影に、心がないことを。
それから私は中学生になった。バレーボール部に所属し、充実した日々を過ごしている。
「だんだん上手くなってる気がする」
初心者として入部してから、はや三ヶ月が経った。足から体を伸ばした影も、私を見て頷く。
トスをあげ、影のスパイクを打ち返す。今度は影がトスをあげ、私がスパイクを打ち返す。
こういう風に二人でボールを打ち合う練習をしてきた。以前と比べるとやはり、自分が成長してきたのを感じる。
「これからも一緒に頑張ろうね」影はまた頷いた。
光があれば、影がある。私が死ぬまで、影は側にいてくれる。
いつまでもこの子と切磋琢磨して頑張りたいと思う。
お題:光と影