マズイ、マズイ。
俺はバイクを降りて走り出す。
今朝、出掛ける前に恋人から「今日、早く帰れますか?」と聞かれた。
あまり我がままを言わないタイプの彼女だから、こんな言葉を言うなんて正直驚いたんだ。
「多分、大丈夫だと思うけど、なにかあるの?」
彼女は首を横に振る。
「早く帰ってきてくれたら、嬉しいなって」
眉を八の字にし、小さくそう言う彼女の言葉に胸が高鳴る。
こんな表情の彼女は、〝ちょっと寂しいとき〟だ。
彼女にとっての〝ちょっと寂しいとき〟は普通の人にとって〝めちゃくちゃ寂しいとき〟だと理解してる。
彼女は自分より〝俺〟を優先してしまうから。
だから、こんな小さなお願いを叶えたくなる。
「分かった、早く帰れるようにする。約束ね」
「あ、でも無理しないでくださいね」
そうやって小さい花が咲くように微笑む彼女がどうしようもなく愛おしかったんだ。
そんな俺の朝の予想は裏切られて、こんな日に限って残業になってしまった。
止まるタイミングがあれば一言メッセージを伝えるんだけれど、今は止まるくらいなら早く帰りたい。
俺は全力で家に向かって走る。ポッケから鍵を探すのも忘れない。
玄関の前で止まり、鍵を開けて大きく叫んだ。
「遅くなってごめん、ただいま!!」
奥から大輪の花のような笑顔で彼女が飛び込んでくる。
「ごめんね、約束したのに」
力強く抱きしめてくれるから、俺もしっかり抱きしめ返す。
「おかえりなさい。帰ってきてくれれば、じゅうぶんです」
顔を上げることもなく、そう小さく言うからたまらなくて、もう一度強く抱きしめた。
おわり
五四七、ささやかな約束
私の大好きな恋人は救急隊員です。
人を助けるために走り回っています。
とても誇らしい仕事です。
それでもね。
彼のお仕事は安全な仕事ばかりじゃない。
怪我をする恐れもあるんだ。
実際に怪我して帰ってきたことも、入院したこともある。
だから、毎日心で祈ってる。
家でご飯を作りながら彼の帰りを待つ。
スマホを覗いても何もメッセージは来ていない。
毎日不安になるけれど、私は信じてる。
玄関から鍵が開けられる音がして私は振り返る。
そのまま走って向かうと扉が開いて、大好きな彼の姿が目に入った。
「ただいま!」
太陽のような笑顔が私に向けられて胸が熱くなる。だから精一杯の笑顔で彼に飛びついた。
「おかえりなさい!!」
おわり
五四六、祈りの果て
どうしよう。
どうしたらいい。
迷いに迷ってる。
俺はここ来てから、特別な人を作る気なんて無かった。それなのに彼女は俺の心にするりと入ってくるんだよ。
迷ってる。
いや、迷っているのか?
彼女が笑う姿を思い出すだけで胸が締め付けられる。
誰かに取られてもいいのかと聞かれると、嫌だ。そんな気持ちが溢れて仕方がない。
ふぅと息を吐く。
内側から熱いものが吐き出される。
このまま〝迷い〟も出ていけばいいのに。
おわり
五四五、心の迷路
すっかり肌寒くなった季節。
この寒暖の差で風邪をひいてしまった、俺が。
「ご、ごめんね」
しわがれたすんごい声になった俺の言葉を聞きながら、一緒に住んでいる恋人が首を横に振る。
そのままテーブルの上に温かい飲みものが置かれた。
この匂いは紅茶かな?
覗いてみると不透明で、ミルクティーにしてくれているようだ。
俺はティーカップから紅茶をすする。
少し渋みのある紅茶は牛乳でおさえられていて……あと、これは蜂蜜かな。あと舌にピリッとする。
飲み込むと蜂蜜の甘さが広がっていく。
紅茶は痛みがあった喉を緩やかに通り過ぎて凄く飲みやすい。
喉が渇いていたから一気に飲み干してしまった。
「おいしい!」
「良かったです」
ふわりと微笑んでから、タオル俺の首に巻いてくれる。
ミルクティーを飲んだ後、内側から温かく感じた。
「声がヒドイから温めてくださいね」
そう言いうと、俺の前にあったティーカップに紅茶を作ってくれる。
降ろした生姜を入れ、最後に牛乳と蜂蜜をたっぷり入れてかき混ぜた。
「今度はゆっくり飲んでくださいね」
ことん。
俺を心配した彼女の想いがいっぱい込められたティーカップが置かれた。
おわり
五四四、ティーカップ
疲労困憊の中、たまたま会えた気になる女の子。
軽く談笑してから「じゃあまた」と手を振って別れた。
おかしいな。
さっきふたりで、あまい、あまぁい飲みものを飲みこんだのに。
さみしくて、ちょっと苦いや。
おわり
五四三、寂しくて