夜は海の深さに似ている。決して人間の手に触れられない神秘の色を宿しているのだと、あの人はよく語っていた。
「夜に泳ぐクジラを君はみたことがある?」
これもあの人の口癖だった。真夜中の眠る街を、
一頭のクジラが泳いでいるのだそうだ。私はもちろん「あるわけがないわ」と言う。
2年前に光を失ってから、あの人はいつも夜の空や静かな海に生きているのだろうかと思わせられる。
少なくとも、目の見える私の知らない色をあの人は感じているのだろう。きっと誰よりも、空や海の底を知っているのに違いないと思わせる、そんなしなやかな強さがあの人にはあった。
もう何も映っていないはずなのに、暗闇で私のほうをじっと見据えているその瞳が、ぼうっと青く光ってみえる。それが私は好きだった。
「終電ですよ」
はっと意識が戻される。誰もいない車内。
そうだ、ここはあの人の部屋ではない。水曜日の夜、上司たちとの飲み会帰り。無理やり流し込んだビールの味がまだ舌に残っている。
とぼとぼと駅を降りて、真夜中の静かな風に押し流される。私はいつまで、こうやってひとり歩き続けていくんだろうと、ふと思った。あの人がいなくなって、もう何年も経ったというのに。
冷えた心に蓋を閉じて歩いていた、その時。
閑散としたロータリーを走り抜けるように、ひとつ冷たい夜風が吹いた。
ピューイ────
それは通り抜けていくように、聴こえたのだ。
目を凝らしてみたけれど、何台かの車が通りすぎてゆくだけだった。風と車の音だったのかもしれない。でも、確かに見える気がした。
青く沈んだロータリーを悠々と泳ぐ、
月のようなクジラの姿が。
思わず夜空を仰げば、水面に揺れる光のようにぱらぱらと星が瞬いている。その切ない輝きが、視界の端に滲んでゆく。
あの人の言葉は、私をいつでも、真夜中の色に触れさせてくれる。
貧しい恋人たちがいた。クリスマスの夜、彼らは食べ物でも服でもなく、聖なる夜にふさわしい、真っ赤なポインセチアを買う。
ふたりは凍えて飢え死にそうになりながら、自分たちに不釣り合いなほど立派なポインセチアにうっとりとして、温かな微笑みをかわしあうのだ。
そんな物語をどこかで読んだことがある。
愛があるというだけではいずれ死んでしまうだろうと、その時思った。
どれだけ恋人を想う清らかな心を持っていたとしても、ポインセチアだけで真冬の夜を越えられるわけがなく、生きていくことはできないのだ。
でも、彼らにとって、クリスマスの夜にポインセチアのない人生など、生きている意味がないに等しいものなんだろう。
それに、白い聖夜にひっそりと燃える深紅の花びらのあたたかさを知るのは、きっと彼らしかいない。
カムパネルラの死を知ったザネリは、あれからどんな夢をみたんだろう。
たとえばジョバンニのように、銀河を1周するほどの時間をかけたとしても、果たしてその現実を受け入れて、自分の人生に向き合うことはできるのだろうか。
あるいは、彼の心は、いつまでもあの川を揺蕩いながら、沈みきることもできずにいるように思う。
ザネリの真意は知るよしもないことだ。案外、けろっとして生きていったのかもしれない。
それでも、不条理な死を遂げたカムパネルラと、生き残ったいじめっ子ザネリ。潰えたひとつの人生と、変わりなくやってくる明日。その心とリンクしようとするたびに、後悔とは何か、考えてしまう。
楓にも花がある。とても遠慮深くて仄かな色をつけているから、目立たないけれど。
種はかわいいんだ。竹とんぼみたいにくるくるまわりながら、風のままに飛んでゆく。風媒花っていうんだよ。
風に流され、楓はまた奥ゆかしい花を咲かせて、目が覚めるような緑から鮮やかな紅葉、そしてまた、その種はくるくると飛んでゆく。
花の香りもしないから虫や鳥を惹きつけない。
だから誰も気づかないんだけれど、こういう生き方をしてみたいものだね。
ある人が言っていた。
「何もしない」をしたいなあ。自分のために誰かのためにと何かを生産することもなく、忙しない日常の余白を繋ぎあわせたみたいな、まっさらな時間を過ごしたい。
心が暇になったな、て思ったら本でも読もうか。
レ・ミゼラブル、ノートルダム・ド・パリ……辺りの長編小説をじっくりと読んだりして、ポール・グリモーの『王と鳥』も久しぶりに観たい。
何だか、すごくフランスな気分。