花の香りと共に
己の人生のすべてを見直す。
気づけば1人で赤点ばかりを取っていた。
気づけば周りには誰もいなかった。
惰性で生きている。
死体が喋っているようだった。
私は伽藍堂だった。
気持ちだけの花と共に、また貴方の前へ立つ。
貴女は私を気にもとめない。
声を発さない。
気づくことはない。
死体が死体に花を贈っている。
枯れることのない、死ぬことのない造花を。
帰り道、己の人生のすべてを見直す。
まだ赤点ばかりを取っている。
貴女さえももういない。
死ぬ気力だけが足りないまま生きている。
喋ることもない。
空虚を体現したようであった。
ただ一つ、この瞬間に違うのは。
貴女の愛した花の香りが共にあることであった。
全身が湧き立つ。
皮膚を内側から撫でられるような、
神経を舐られれているような気の遠くなる感覚がする。
強い前後不覚に襲われる。
立っているのがやっとなほどだった。
化け物と対峙している。
そう錯覚した。
目の前にいるのは間違いなく人間なはずだ。
一切として話が通じないことを除いて。
あまりにも当然のように気の狂った言葉を発するものだから、
俺が異常なのかと疑うほどだった。
目の前にいるのは祖母、だと思いたかった人。
今も不機嫌そうに母への暴言をたれている。
その子供である俺の前で。
今までは認知症でおかしなことを言っているのだと思っていた。
そうであれと願っていたのかもしれないが、
そんな期待は打ち破られた。
到底人間だと思えなかった。
目の前のそれは完全に化け物だ。
殺してしまおうと思った。
関わりたくないと思った。
黙らせようと思った。
近づきたくないと思った。
結局それはひとしきりゴミに近づく行為をした後消えていった。
それから毎朝、起きるたびに心がざわめく。
あの化け物がいよいよ死んでくれやしないかと。
透明
草臥れた体で水中へ沈む。
深く深く、澱みさえ無い奥底へ身を委ねる。
沈むたびに透明へ近づいているような気がする。
己の中の澱みを吐き出す。
真黒に染まっては薄れ消えていく。
繰り返し、繰り返し、草臥れた体が再び色を持つまで。
醜い色に染まったならば、その身を起こし水から上がる。
透明であることは美徳だ。
何ものにでも合わせ、同調できる。
然し、それでいては己がない。
私は美徳では生きて行けない。
くすんだ色のついた私は、しかして再び己を持った。
幾数年前、確かに私の人生は終わりました。
ですが死んだわけではないのです。
ただ生きる意味を失ったのです。
度重なる復讐と報復を終え、復讐鬼は死にました。
そんな死んだ男を拾ったのは貴方です。
貴方は私より年老いて、歩くのがやっとでした。
見えない目で、聞こえない耳でどうやって私に気づいたのか、
首を括り死のうというその時に私に声をかけてきました。
また人を手に掛ける気力などは私にはなく、
言われるがままに連れられて樹海を出ました。
人として生きるのに疲れたのなら、
ここで自由に生きなさいと貴方は私に告げました。
それが嫌ならまた死にに戻っていいとも告げました。
ただし自分に気づかれぬように、というルールを添えて。
貴方はいつも抜け出す私に気づきました。
はじめから死なせる気がないのであろう。
そう気づいたのは貴方が死んだ後でした。
生まれてこの方殺すことしか知らぬ私に、
貴方は学を、料理を、言葉を、楽しさを教えてくださいました。
貴方は私を鬼から人へ育ててくださった。
何もかも知らぬことばかりでした。
貴方が死んだあと、今でさえも学ぶことばかりです。
終わりに着いた私を、貴方はまた始めてくださった。
貴方と生きたこの場所で、私は貴方のように生きております。
先日、私のように死のうとした男を見つけました。
それがどうにも自分のようにしか見えなかった。
貴方もそうだったのでしょうか。
気づけば家に招き入れて、貴方と同じ言葉を放っていた。
貴方が私にしてくれたように、
私も彼に初めてのことを教えるのでしょう。
もし、その後彼がまた私のように、貴方のようになったなら。
ここは終わり、また初まる場所になるのでしょう。
星
とある騒ぎも一段落した頃、
正常性を取り戻した日常にて
私は命をつないでいる。
騒ぎにより正気を失った私の目は懸絶したようで、
人が人と映らなくなった。
私の知る人とは、
頭は星や恒星のように輝きはるか彼方に浮き、
その体躯は夜空を固めた宝石のように美しく、
まるで鈴が鳴るような美しい音で喋るものであった。
今私の目に映る其れ等は、
薄橙の皮を被り、内は赤黒い肉で埋まっている。
口と呼ばれたものから溢れる音は蝉声のように喧しい。
だが、医者が言うには
人とはもともとそういうものである
らしい。
私の視界はあの輝きで満ち満ちていた。
あのような輝きに当てられていたものだから、
この世界は暗くて仕方がない。
あのような星がなくては私は前が見えない。
己の足元さえ覚束ない。
この手は冷えて鈍りきり、触れても何も感じない。
家族と呼ばれていたものが騒ぎ立てている。
五月蝿くて仕方がないが、
あれらに私の声は聞こえぬもので黙れとも言えなかった。
醜悪しか映らぬ目を閉じる。
髪と言われた部位の長い人が言っていた「にんちしょう」とは何なのかだけが気がかりだった。
私はそれに罹患しているらしい。
騒ぎの中盤あたりでそのことを伝えられた。
今一度問い正した方が良いのだろうが、
しかし閉じた目を再び開けるのも煩わしかった。
嗚呼、私の星はどこへ行ったのだろうか。