祈りの果て
人はよく祈ります。宗教でも、宗教と関係のない場合でも祈ることがあります。
どうしてでしょう?
なぜ人は祈り、何かに縋るのでしょうね。
いえ、何となくわかってはいるのです。
なぜ人が祈らずにいられないのかは…
でも、その祈りの果てに何が見え、何処に行き着くことができるのか…私には皆目見当がつかないのです
寂しくて
特に何がというわけもなく寂しい時は生きていれば必ず遭遇するわけで、そう思うこと自体に何かを思ったり考えたりしても仕方がない、と思う。
私は、寂しいというより…それらの『寂しくて』を私以外の人たちはどう処理しているのか、そこが知りたい。
趣味、友人、恋人、家族
いったい何処に行けば『寂しくて』を消化できるのだろうか?
心の境界線
心の境界線というものは誰しもが持っているものだ。
どれだけ親しい間柄だろうと愛し合っていようと
心のうちを本当の意味で全て曝け出すことはないだろう。…自分自身でさえ何処までが自分の心のうちなのかわかっていなかったりするのだから。
そんなところに踏み込みたいと思うのは…
触れて、確かめて、共感して、溶け合いたいと願うのは
傲慢なのだろう
時を止めて
あぁいっそ時なんか止まってしまえばいいのに
あの花も動物も人間でさえ時の流れに逆らうことはできない。それは悲しいことだ、悲しんで然るべきことだ。
すべて私が美しいと思う時で止まってしまえばいいのに
椿は雪が積もっている時、桜は散り際に
動物は成体ではなく幼体の時に
人間は…そうね、その人の一番幸せな頃に
全部全部、時を止めてずっと消えずに取って置ければいいのに…
いかないでと、願ったのに
いかないでと言ったのにあの人はいってしまった。
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
『行った』『逝った』どちらの意味の方が綺麗に聴こえるのでしょうか…
綺麗かどうかも分からないのですけど(笑)