待ってて
数日降り続いた雪が、今日はぴたりと止んだ。
心なしか空気もやわらぎ、久しぶりに顔を出した太陽に、春がそこまで来ている気がした。
昼のうちに積もった雪を片づけてしまおうと、私は一歳の息子を連れて庭へ出た。
思ったほど雪は積もっていない。
これなら三十分もあれば終わるだろう。
緑色の大きなスコップで、雪をかき出しはじめる。
息子は雪が怖いのか、玄関に腰を下ろしてこちらを眺めている。
横目でその姿を確かめながら、私は黙々と雪をかいた。
すると、向かいの家の男の子が、ぷらぷらとこちらへ歩いてきた。
小学校低学年くらいだろうか。
肌が白く、体の細い少年だった。
今日は平日のはずだが、学校は休みなのだろうか。
挨拶をすると、少年もにっこり笑って返してくれた。
話しているうちに、彼は学校へ通っていないこと、父親は出て行って、幼いころは児童養護施設にいたことを教えてくれた。
「公園に、遊びに行かない?」
散歩に出るつもりだった私は、何気なく誘ってみた。
少年は嬉しそうに頷き、好きな遊具の話を始めた。
「ちょっと待ってて。準備してくるね」
そう言って家に戻ったが、息子のオムツを替え、上着を着せているうちに思ったより時間が過ぎてしまった。
急いで外へ出ると、少年は庭に座り込み、雪を丸めている。
「ごめんね、準備に手間取っちゃって。公園、行こうか」
少年は「大丈夫」と言ってから、すました顔でこう続けた。
「もう来ないかと思った。
大人の『待ってて』は、もう来ない未来だから。」
私は、はっとした。
もう来ない未来。
待っていたのに、来なかった未来。
「お母さんと、このあいだ雪だるまを作る約束をしたんだ。
お母さん、仕事が忙しくて、家に帰ってこないことが多くて。
ぼく、いつもはおばあちゃんと過ごしてる。」
少年は小さく息をついて、
「雪が溶ける前に、帰ってくるといいなあ」
と呟いた。
それからは、今はまっているゲームの話やお菓子の話をしながら公園まで歩き、別れを告げて帰ってきた。
その後また寒さが戻り、雪が数日降り続いた。
そして再び暖かい日が訪れた。
散歩に出ようと息子を連れて庭へ出る。
何気なく向かいの家に目をやると、少年の家の前には、車の背丈を超えるほど大きな雪だるまが立っていた。
私は少しだけ胸が温かくなり、息子と手をつなぎながら、かすかな春の兆しの中を歩いていった。
伝えたい
もう一度会って、「ありがとう」と伝えたい。
そんな人が、誰の人生にも一人くらいはいるのではないだろうか。
二十年前、私は名古屋の小さな食品卸売会社で営業として働いていた。
学生時代、特にやりたいこともなく、受かった数社のうち唯一の内定先だった。
あの頃の私は、どこにいても居場所がないような感覚を抱え、何をしても没頭できずにいた。
営業の仕事は、今のようにスマートフォンやAIのない時代だった。
一軒一軒チラシを配り、反応のあった家を地図を頼りに訪ね、会員を獲得していく。
ある日、上司から、大きなマンションの最上階の一室を訪ねるよう指示された。
オーガニック食品の顧客は、退職後にゆとりのある人か、子育て中の家庭が多い。
扉を開けると、初老の女性が立っていた。
私は営業用の笑顔をつくり、いつものように商品と会員制度の説明を始めた。
そのとき彼女は、ふとこう言った。
「あなた、若いころの私に似ているわ」
私は思わず、彼女の瞳を見つめた。
彼女もまた、静かに私を見返していた。
「きっと今のあなたのように、私もどこにいても所在がなかったの」
彼女は玄関先に腰を下ろし、少し笑った。
「こんなおばあちゃんでもね、昔はけっこうモテたのよ。
かっこいい恋人が何人もできても、仕事で成果を出しても、心は満たされなかった」
そして、少し間を置いて言った。
「そんなとき、私を満たしてくれたのは、本だったの」
「本の中には、私がいた。
それが嬉しくて、食事から栄養を吸収するみたいに、本を読んだの」
「するとね、少しずつ世界が輝きはじめた。
日常のすべてを感じられるようになったの」
「私にとって生きることは、手で、目で、鼻で、口で感じて、想像することなの」
彼女は、穏やかに微笑んだ。
「そして今、私は小説を書いているの」
気づくと、私は涙を流していた。
「だからあなたも、きっと大丈夫」
それからどうやって会社に戻ったのか、
そのマンションがどこにあったのか、
二十年の歳月が記憶から消し去ってしまった。
彼女は、もうこの世にいないかもしれない。
それでも、彼女の言葉は今も私の中に残っている。
私はもう、あの頃のように居場所を探してはいない。
私の居場所は、彼女と同じように――言葉の中にあったのだから。
この場所で
夫の転勤先が北陸に決まった年の冬。
いく日も続くどんよりとした薄暗い空を見上げながら、私は心の底から泣きたくなっていた。
宮崎生まれ、宮崎育ち。
結婚して北陸に住むまで、雪の降る冬の街など、同じ日本でありながら、テレビの向こうの遠い世界の出来事だった。
私の暮らす小さなこの街は、市街地から離れた山沿いにある。
毎年のように雪が降り、多い年には車が半分埋まるほど、町中が白く覆われる。
冬の北陸から逃れたくて、私は毎年、正月を宮崎の実家で過ごすようになった。
宮崎から日本海側へ近づくにつれて次第に重く暗くなる空を見ては、そのたびに胸の奥もまた曇ったものだ。
それから七年が過ぎたころ、私は長男を出産した。
子どもの成長は早い。
一年もすれば、危なっかしい足取りながら、一人で歩きはじめる。ある日、私は息子の手を引いて、初めて近くの公園へ出かけた。
まだ雪が少し残っていたが、歩けないほどではない。
息子は何度もつまずきながら雪を踏みしめ、草をちぎり、遊具に触れ、世界を確かめるように遊んでいる。
公園の梅の木には、ふくらんだ蕾が見える。
もうすぐこの寒い北陸にも、春が来るのだ。
そのとき、胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。
私もまだよく知らないこの公園で、息子は遊んでいる。
私の知らない道が、公園が、校舎が、この子の故郷になっていく。
私はこの場所で、この子とともに、故郷をつくっていくのだ。