太陽のような
太陽のような星が宇宙にいくつもあるように、
地球のような星もきっとどこかにあるはずだ。
寛は慣れた手つきで、天体望遠鏡のファインダーに触れながら呟いた。
夜空には無数の星。
今夜は新月で、天体部の部室には私と寛の二人きり。
寛は私に目もくれず、夢中で星を追っている。
その瞳を、私はずっと昔から知っている。
私がかつていた星からは、
小さな青い地球が見えていた。
幼いころ、父にねだって買ってもらった望遠鏡を覗くのが、日課だった。
地球の望遠鏡など、私たちのものに比べれば玩具のようなものだ。
私の望遠鏡は、遠く離れた地球を歩く蟻の動きさえ映し出す。
暇さえあれば、地球を観察した。
大統領の食卓。
ベンガルトラの交尾。
居眠りするトラック運転手。
ツバメの渡り。
そしてある日、
こちらを見つめるひとりの少年を見つけた。
少年は翌日も、その翌日も、私たちの星を見上げていた。
私はいつしか、その少年に恋をしていた。
だから私は地球に来た。
寛に会うために。
寛は、私が地球外生命体であることを知らない。
寛が私の星を見つめたように、
いま私は、寛を見つめている。
私にとっての太陽。
寛という星を。
0からの
誰もが生まれてから死ぬまで、
何かをゼロから生み出しながら生きている。
生業、財力、地位、絵画、詩……。
街を歩けば、電信柱やアパートが、
コンクリートに覆われた地面から生えている。
私たちは、人の手によって生まれたものを、
一日として見ずに過ごすことがない。
私も人生の道半ばではあるが、
人類の進歩にわずかなりとも関わってきたつもりだ。
そんな中、先月、第一子を出産した。
十月十日、腹の中で育った命を、
痛みの中でこの世界へ送り出した。
血に濡れた小さな身体は、
いまや息を吸い、声を上げ、乳を求める。
放っておけば死んでしまうその存在を、
私は骨身を惜しまず世話をする。
息子は、これまでに私が作った何よりも、
完成され、そして何よりも未熟なものだ。
そして私は息子を産んだことで、
自分の中にも新しい何かが、育ち始めているのを感じている。
今日にさよなら
幼い頃、「書く」ということは、忘れないために記憶しておく行為だと思っていた。
学校に持って行くものを書く。
日記を書く。
読書感想文を書く。
大人になり、小説や短歌を創作するようになってから、私の中で「書く」という行為は、別の色彩を帯びはじめた。
私はいま、記憶しておくためでなく、記憶を手放すために書いているような気がしている。
忘れられない出来事に、つかみどころのない気持ちに、名前を与えて、送り出してやる行為。
たとえば、
形を持たぬそれに「鳥」と名づけた瞬間、
翼を得て飛び去ってゆくように。
名前を与えたそのときから、
それらは静かに私を離れてゆく。
そうして幾度もさよならを重ねてゆくこと。
それこそが人生というものなのかもしれない。
だから私は、今日も書き続ける。
お気に入り
「がたんごとん」何度も読むよ
君がのる列車が夢にたどり着くまで
____
「がたんごとん」という絵本がある。
がたんごとんと走る列車に、哺乳瓶やバナナやりんごが乗り込み、終点の駅で男の子の朝食になって、列車は去ってゆく。
単純明快な物語だ。
先月一歳になった息子は、この本をとても気に入っている。
寝る前になると、必ず読み聞かせをせがむ。
一度や二度ではない。
昨夜は二十回ほど読んで、ようやく眠りについた。
ときには私が先に眠ってしまうが、起きているあいだは、好きなだけ読んでやろうと思っている。
子どもが子どもでいる時間は、短い。
だから私は、息子との限りある時間を、噛まずに舐める飴玉のように、大切に、大切に転がしている。
いつかは溶けて、消えてしまう甘さを。
10年後の僕から届いた手紙
ある土曜日の朝、新聞を取りにポストへ向かうと、白い封筒が一通投函されていた。
表にはこう書かれている。
『十年後の僕へ』
見覚えのある文字だ。
――そうだ、僕の字にそっくりなのだ。
少しばかり薄気味悪くなったが、すぐにクラスメイトの悪ふざけだろうと思い直し、部屋へ戻ることにした。
机の上に封筒を置き、朝食をとろうと一階へ降りる。だが、不思議なことに両親はまだ起きていない。
いつもなら、とっくに物音がしている時間なのに。
仕方なく、机の上のバナナスタンドから、シュガースポットのほどよく浮いた一本に手を伸ばした。
その瞬間、僕は違和感を覚え、じっと目を凝らした。
黒い斑点の一つが__動いている。
……虫だ。
小さなゴキブリが一匹、バナナにへばりついている。
一気に食欲が失せ、ティッシュでつまんでゴミ箱へ放り込む。
夏になると必ず現れる。
だが、今年はやけに多い気がする。
冷蔵庫から水を取り、部屋へ戻った。
机の上には、さっき放り出した封筒がそのまま置かれている。
僕は一息ついて回転椅子に腰かけ、手紙を読み始めた。
⸻
『君にまだこの手紙を読む時間が残されているなら、どうか最後まで読んでほしい。
僕はまだ生きている。
かろうじて、生き延びている。
あの日を境に、食物連鎖は逆転した。
多くの人間が、小さきものに喰われた。
ミミズ、ダニ、アリ、ワラジムシ――
かつて分解者と呼ばれていたものたちは言葉を持ち、社会を築き、肉を食べる存在となった。
そしてその頂点に君臨するのが――ゴキブリだ。
彼らは獰猛だ。
人間たちは、何度も奴らに交渉を試みた。
だが、全てが徒労に終わった。
奴らは我々の持つ感情というものを、持ち合わせていないように思える。
しかしまだ人類は滅びた訳ではない。
七割が失われ、生存者は地下社会に潜伏して世界を取り戻す機会を待っている。
その中で、分かったことがある。
奴らの支配は、はるか昔から計画されていたということだ。
地下都市、偵察網、情報統制。
地表のすべては監視されている。
恐らく、君のいるその部屋にも、少なからず偵察隊がいるはずだ。
奴らは、人間が過去へ手紙を送ることができることを知らない。
この手紙を知られれば、彼らの計画を知った君は殺されるかもしれない。
(読み終えたら、この手紙は必ず燃やせ!)
我々は過去の人間へ警告を送っている。
力を合わせれば、あるいは未来を変えられるかもしれない。
生き延びろ。
そして未来を変えてくれ。』
⸻
読み終えた僕は、水を一気に飲み干した。
「ずいぶん手の込んだイタズラだな……」
手紙をもう一度机に放り出し、顔を洗いに行く。
戻ってくると――
机の上の手紙が消えていた。
風で飛んだのかと思い窓を閉め、机の下を覗き込む。
その瞬間、思わず僕は息を呑んだ。
散らばった手紙に、
何十匹ものゴキブリが、群がっていたのだ。