すゞめ

Open App
11/14/2025, 12:03:29 AM

『祈りの果て』


 鳴り響くアラームを止めて、体を起こす。
 ベッドボードに置いている眼鏡をかけて、ぼんやりとした視界をクリアにした。

 さすがに寒いな。

 脱ぎ捨てたままだった服に手を伸ばしたときだった。

「ご、ごめんっ……」
「……え?」

 起きて早々、彼女が泣きそうな表情でベッドで横たわりながら懺悔する。
 彼女から謝られる理由など見当もつかず、項垂れる頭部を撫でまわした。

「どうしたんです?」
「れーじくんを傷モノにしちゃった」

 言い方。

 朝から感情が慌ただしい彼女の頬に軽くキスをする。

「それは……、責任とって結婚してもらわないとですね?」
「……もうしてる」
「確かに」

 フッと息をこぼしたせいで茶化されたと勘違いした彼女が、ぷくぷくと不満をほっぺたに詰めはじめた。

「だから、どうしたら許してくれる?」
「許すもなにも、そもそもなんの話ですか?」

 ゆっくりと起き上がって俺の腕を絡める。

「背中……」

 絡めた腕に力いっぱい縋りついて、長い睫毛を悲しげに揺らした。

「れーじくんの肌、また傷つけちゃった」
「あぁ、そんなことか」
「そんなことって」

 背中の傷をダイレクトに視界に入れてしまったのか、彼女はしょんもりとしている。

「だって、痛いでしょ? ……ずっと気をつけてたのに」

 気にしなくていいって言ってるのに。

 結婚して3年。
 俺の背中に初めて傷をつけて以降、彼女は苦手なヤスリで爪を手入れするようになった。
 乾燥にも気をつけてハンドケアも入念になる。

 それにもかかわらず、時々、今回のように俺の背中に傷を残した。

「かわいいですね?」

 ちゅむ、と彼女の下唇を食んだ。
 このまま昨夜の熱を引き起こし、爛れた朝を過ごすのも悪くはない。
 だが、あいにくと今日は平日だ。
 俺も彼女も仕事である。

「ん、ちょっ……」

 本当にかわいい。

 何年、一緒に過ごしてきたと思っているのか。
 時間をかけてじっくりと、彼女の触れ方を覚えてきたのだ。
 傷を残すように仕向けたと暴露したら、彼女はどんな反応をするだろう。

 まだしばらくはいじらしい彼女の反応を楽しんでいたいから、気づかないでほしいと願った。

「では」

 彼女の寝巻きのボタンをひとつ、またひとつとはずしていく。
 首筋から皮膚の薄い鎖骨が覗き、唇を這わせた。
 品のない水音を立てながら、その白くて滑らかな肌に赤い痕をひとつ咲かす。

「これでおあいこってことにしてあげます」
「……ぁ、っ」

 赤く咲いた独占欲の証を指で突けば、彼女の頬まで紅潮した。

「顔、赤いですけど大丈夫ですか?」
「だっ!? 誰のせいだとっ!」

 きつく睨みつけるが、その訴えに今さら悪びれることはしない。

「俺ですね」
「〜〜〜〜〜〜っ!!!」

 声にならない声をあげて、彼女はバフバフと手近の枕で攻撃してきた。

「あ、ちょっと。枕は埃が舞うからやめてください」

 彼女からの照れが激しくなる前に、俺はそそくさとベッドから逃げ出す。
 脱ぎ散らかしたシャツを着たとき、不器用に彼女が懇願した。

「爪痕は見られないようにしてほしい、です」
「当然です」

 彼女じゃあるまいし、人前で洋服を脱ぎ着する機会はなかった。
 しかし、彼女のためにも今日は厚手のインナーシャツを着ることに決める。
 小さな頭を撫でたあと、朝食の準備を始めるために寝室を出るのだった。

11/12/2025, 11:44:12 PM

『心の迷路』

 青春を謳歌していた思春期の夏休み。
 俺の世界に天使が舞い降りた。
 手を伸ばすことすらおこがましい。
 出会ったときから、彼女はずっと孤高の存在だった。

 茹だるような夏の日差しを、負けず嫌いの雲が覆ったあの日。
 板挟みになった空が涙した日に、天使が気まぐれに俺の世界で羽を休めた。

 小さな恩を押しつけて、少しずつ彼女を追いつめていく。

 罪悪感を抱かせない程度に甘やかして。
 飼い慣らさない程度に餌を与えて。
 飛ぶために差し支えない程度に羽の手入れをして。

 外敵から彼女を遠ざけるためになんでもした。
 いろいろなものを無視しながら。

   *

 寝支度をすませたあとの、ちょっとしたインターバル。
 彼女の自宅のリビングのソファで、俺たちは横並びに座っていた。
 小難しそうな本をめくる彼女と、携帯電話でSNSを眺める俺。

 はー……。
 ちっちゃくてかわいい。

 大学では隠している青銀の髪と瑠璃色の瞳。
 まだ見慣れない彼女の素顔に、俺は悶々としていた。

 触りたい。

 ふたりきりの男女の空間で寝支度をすませた夜ふけに、その欲求は自然なものであるはずだ。

「あの……」
「なに?」

 無垢で無防備で純度の高い瑠璃色の澄ました瞳が俺を捉える。
 察することも駆け引きもできない彼女相手に、無言で迫ることなどできなかった。

「触……っても、いいですか?」

 結局、ストレートに欲求をぶつけてしまう。

「えっ!?」
「嫌ならすぐにやめますから」

 これでは同意を得るためではなく、背徳感の溜飲を下げるための宣言だ。

 彼女からの返事は聞けていない。
 それにもかかわらず、着ているシャツの下に手を忍ばせ、素肌に触れた。
 俺とは違う柔らかくて指にしっとりと吸いつく感触が心地いい。

「わ……、わわっ……」

 戸惑いがちに彼女がかわいらしく声を溢すものだから、つい夢中になりすぎてしまった。
 ひくひくと震えるかわいいお臍に手を伸ばしたとき、彼女が慌てて声をあげる。

「やっ。ちょ……っ! ダメっ。ま、待って!」

 はっきりとした拒絶に我にかえった。

 しまった。

 没頭しすぎて調子に乗りすぎた。
 真っ赤な顔で涙ぐむ姿を目の当たりにして、触れていた素肌から手を離す。

「すみません、すぐに気がつけなくて。怖がらせてしまいましたか?」

 忙しなく肩を上下させ、必死に酸素を取り込む彼女を見下ろした。
 余裕なく乱れた呼吸は俺の耳に生々しく響いて心拍数を上げていく。

 乱れた髪。
 濡れた睫毛。
 紅潮した頬。
 潤いを帯びた唇。

 全てが俺に向けられているものだと思うと理性が瓦解していった。

 たくし上げたシャツから露わになった鍛え上げられた腹筋は、今も艶かしく揺れている。
 ウエストからずり降ろしたハーフパンツのせいで、黒いスポーツ用のショーツがガッツリ視界に飛び込んできた。

 ……かわ、いぃ……。

 嫌がられたことにはものすごく傷ついたが、この画角は眼福である。

「や、その……っ」

 瑠璃色の瞳は恍惚としながら俺の様子をうかがっているのに、目が合えば恥ずかしそうに逸らされてしまった。
 その瞳を強引に絡めて俺を求めさせたら、彼女はさらに動揺してくれるのだろうか。

「これ、イヤじゃなかったら……、どうなるの、か……だけ、教えてほしくて……」
「え?」

 どうにかして、いいのか?

「そうですね、できれば……」

 甘やかな雰囲気に、ゾクゾクと下腹部に期待が昂っていく。

「俺は、あなたとひとつになりたいです」
「あっ」

 ショーツのゴムの隙間に指先を忍ばせれば、さすがに察した彼女が俺から目を逸らした。

「こ、ここで……?」

 視界を忙しなく泳がせたあと、最終的に彼女の視線はソファの背もたれに行きついた。
 このまま明るいリビングで、逃げ場の少ない狭いソファで彼女をよがらせるのも悪くない。

「あなたが許してくれるなら、ベッドでお願いできませんか?」
「……っ」

 緊張で強張りながらも、彼女は小さくうなずいてくれた。
 俺を許してくれた彼女の薄桃色の唇をさらう。

11/12/2025, 7:16:05 AM

『ティーカップ』

 すっかり風が運ぶ空気も冷たくなり、木々の葉が暖色に染まりきった11月。
 昨日から、俺の通う大学では文化祭が始まっている。
 俺の所属する文芸サークルでは、なにを血迷ったか、男女逆転喫茶をしていた。
 女性陣は執事、男性陣はメイドの格好をして来客であるご主人様を出迎える。
 どれだけ策を練っても、所詮は模擬店だ。
 市販品のメニューや使い捨ての食器で見てくれに限界はある。
 しかし、文芸サークルだけあってコンセプトやメニュー表、メニューのネーミング、お約束の唱和や呪文などは凝っていた。

「ねぇ!? エグいカップルがきたっ」
「えっ!? どこ!?」
「青薔薇テーブルっ! 男も女もビジュ強すぎるっ」
「うわ、ガチじゃん」

 大雑把にパーテーションで区切られた舞台裏にも関わらず、キャアキャアとタキシード姿の女性陣が浮き足だった声をあげる。
 休憩場所としても使われているのか、意外にも賑わいを見せている店内は、幸いにも女性陣の声をかき消した。

「その青薔薇のご主人様のオーダー、用意できてるよ?」
「あ! いいところに。お願いしてもいい?」
「え、俺が行くの?」
「男のほうがエモすぎて無理。直視できない」
「そんなに?」

 女性陣が騒いでいた美男美女とやらがどんなものか、好奇心が疼く。
 とはいえ、男女逆転喫茶ということで俺も例外なくメイド服を着させられていた。
 うまいことはぐらかそうとしたが、先を打たれる。

「表に出ないようにコソコソしてるの、バレてるから」
「……わかった」

 痛いところを突かれた俺は、意を決してフロアに出た。

「お待たせいたしました。青薔薇のご主人様♡ お嬢さま♡」

 ……って、あん?

 美男美女とやらの人物を確認して接客どころではなくなる。
 俺を見上げた彼女らは、ふたり仲良く同時に口を開いた。

「ちょっと。このメイドさん、顔ヤバすぎ」
「わ。ホントにメイドさんのカッコしてる」

 男のほうを見て顔をしかめる。
 彼は中学の頃からの腐れ縁だ。
 人脈も広いから、俺がメイドのコスプレをするという情報をどこからか仕入れてきたのだろう。

 そういやコイツ、顔面偏差値だけはよかったな?

 一緒になって座っている女性が、世界一かわいいと裏で騒がれたことには合点がいった。
 俺の人生をとち狂わせた最高で最強で最愛の推しなのだから、当たり前である。

「メイドさーん。コレ、おまじないかけてよ」

 ケラケラと楽しそうに煽る悪友は完全に確信犯だ。

「チッ」

 過去イチデカい舌打ちをかまして無視しようとしたが、推しが期待の眼差しできゅるきゅるとかわいく俺を見つめている。

 かわいいな?

 俺は全力でメニューが美味しくなる魔法をかけた。

 ……それはそれとして、だ。
 誰と誰がカップルだって?

   *

 男女逆転喫茶で悪友から彼女を奪い取ったあと、彼女と模擬店や展示会を回る。
 後夜祭も打ち上げも全て断り、彼女の自宅へ押し入った。
 キッチン戸棚で眠っていたティーセットを取り出し、我がもの顔で彼女に紅茶を用意する。

 リビングのソファに座っている彼女に、メイド喫茶馴染みの言葉で声をかけた。

「お嬢様。お待たせいたしました」

 真っ白な陶器がレースとエッジで繊細な陰影で織りなしているティーカップは、エレガントで上品なデザインだ。
 スーパーで買った安価な紅茶のティーバッグも、このティーカップひとつで見栄えが一段階上がる。
 薄くスライスしたレモンと角砂糖をひとつ添えれば完璧だ。

 ティーカップから立ちのぼる湯気をレモンで塞ぎ、香りを紅茶に移す。
 鮮やかな夕焼け色の水色を揺らす優雅な所作に目を奪われた。

「まだ怒ってるの?」

 ため息混じりのその言葉とともに、彼女は角砂糖をティーカップに沈めた。

「怒るもなにも、とっ捕まったって自分で言ってたじゃないですか」
「そこの認識は疑ってないんだ?」

 カップルだなんだと騒いだのは周りであって彼女たちではない。
 ふたりは通っていた高校が同じで、先輩後輩の関係だ。
 そこそこ交友があったのも知っている。
 多少の気心も知れていることに加えて、俺という共通の話題に気が緩んだのだろう。
 彼女の押しの弱さと対応力の低さでは、ヤツを捌くことは難しいはずだ。

「先に約束していたのは俺でしょう?」
「ん。れーじくんだけ」

 あざとさしかない言い方に、簡単に絆されかける俺も大概である。

「……なら、なんでそんなに不機嫌なの?」

 追い打ちをかけられ、俺はあっさり降参した。

「いや、だって。女装姿を見られるとか恥ずかしいじゃないですか」

 あらかじめ、彼女と落ち合うための待ち合わせ時間と場所は決めていた。
 俺の所属するサークルで喫茶店の出し物をすることも伝えたから、彼女は興味本位で覗きにきたのだろう。
 ごまかせば逆に興味を煽るだけかと思い、男女逆転というコンセプトのみ伏せたが意味がなかった。
 彼女に女装姿を見られるとか恥でしかない。

「え?」

 大きな目を丸々とさせた彼女が、意外そうに首を傾げた。

「恥ずかしいとか、そういう感情あるんだ?」
「俺をなんだと思ってるんですか……」

 間の抜けた声音に、ガックリと項垂れる。
 メイド服は全然似合わないし、図体のデカさも手伝って完全にネタ枠にされたのだ。
 そんな姿を率先して好きな人に見せようとは、少なくとも俺は思えない。

「かわいかったけどな」

 正気か?

 ボソッと呟いた彼女の言葉に耳を疑う。

「れーじくんが私のこと『かわいい』って連呼する気持ちが少しわかったというか……」
「ちょっ!? まっ!?」

 その扉は厳重に閉じておけっ!?

 そわそわと落ち着きをなくした彼女の隣に、俺は慌てて腰を下ろす。
 ティーカップに残っている紅茶の水面が、激しく揺れた。

11/11/2025, 6:47:57 AM

『寂しくて』

 リビングで部屋の掃除をしている途中で、彼女が帰宅した。
 
「ねえ。ポッキーゲーム? してみたい」
「は?」

 珍しく菓子箱を持ってきたと思えばなにを言い出すのやら。

 アスリートとしての活動を緩めた彼女が、お菓子を解禁して1ヶ月。
 彼女の口からとんでもない言葉が飛び出してきた。

「だから。ポッキーゲーム? しよ」

 気のせいではなかった。

 今日は11月11日。
 どこからか、今日がポッキーの日であることを仕入れてきたのだろう。
 楽しそうに目を輝かせている彼女は何年経とうがかわいいが、俺は頭を抱えた。

「……」

 彼女から「しよ♡」なんてかわいく迫った内容がキスではなくゲームとか、テンションが上がりきらない。
 我ながら贅沢になった自覚はあるものの、低俗ともいえる提案に大人の対応でかわした。

「今、お茶を入れますから。手を洗って少し待っててくださいね」
「違うっ!」

 雑すぎて、さすがの彼女でもごまかされてくれなかった。
 ギリギリと歯ぎしりまでして不満を表す彼女に、俺は白旗を上げる。

「す、すみません」

 雑にはぐらかしたことに対しては謝罪をしたものの、せっかくのおやつタイムをゲーム感覚で消費するのは気が進まなかった。
 ましてやポッキーゲーム。
 それではしゃげるのは合コンに勤しむヤツらだけだ。

 あ!?
 まさか誘われたわけではないだろうな!?

「あんなの若い男女が合コンでイチャつくための口実でしょうが。まさか、結婚までしたのに誘われたんですか? 合コンに? 行くつもりですか? 浮気ですか? させるわけありませんし行かせませんよ?」
「ちょちょちょちょ!? 待って、違う! どうした!?」

 どうかしているのは彼女である。
 これまでの彼女であれば、食べ物でゲームをするという発想なんてできなかったはずだ。
 どこのどいつに入れ知恵させられたのか、回答次第ではおやつタイムを封印しなければいけなくなる。

「合コンには誘われてないし、ポッキーゲームはSNSで見たのっ!」
「SNS、ですか?」

 また変なもの見て……。

 携帯電話のペアレントコントロールを設定して、スクリーンタイムも管理してやろうか。
 つきたくもないため息が溢れた。

「そんな口実なくても、あなたとイチャつける権利を3年かけてもぎ取って、3年かけて愛を育み、これからは一生一緒ですね♡ って約束の指輪を贈って幸せな家庭を築くための契約をしてから3年も経つのに」
「その言い回しすっごくヤダ」
「あなたのその言い方はめちゃくちゃかわいいです」

 ジト目を向ける彼女の視線は受け流して、腰を抱いて距離を詰める。

「寂しくて俺とキスをしたくなっちゃったのなら、最初から素直に言ってくれればいいのに」
「は? そうじゃな……んむっ」

 彼女の主張をキスで塞ぎ、何度かその柔らかな感触を堪能した。

「お菓子なんて必要ないでしょう? あなたのお口の中は温かくて柔らかくて蕩けそうなくらい甘いのに」
「甘いのは、そっちだから……っ」

 トンっと俺の体を押し返したあと、彼女はソファに腰をかける。

「でも、そっか。意外だった」
「どういう意味ですか?」
「ん?」

 携帯電話を充電コードに挿したあと、彼女はまじまじと俺を見つめた。

「動画を何本か見たけど、あれってどっちかが我慢できずにポキって折っちゃって唇に貪りついたり、視線交わして羞恥心煽って焦らし合うからチョコ側を齧ってる人の唇が汚れてしっかり舐め取ったりするからその先まで盛り上がれるんじゃないかなって思ったんだけど……」

 は?
 なんだ、そのドすけべすぎるイベントは。

 一体、彼女がどんな動画を見てそんな見解を示したのかが気になりすぎる。

「いつも執拗に攻めて焦らしてくるれーじくんが、効率的で寄り道なしの最短ルートを求めてるんだと思って……」

 んんんっ!?

 待てと我慢はできないとずっと言い続けているのに、執拗だ焦らすだとかどういう見解だこれは。
 年々、彼女のプレゼンと煽りに磨きがかかっていてつらい。

 菓子製造メーカーの回し者か?
 それとも卸売業者か?
 シゴデキすぎて惚れてしまうが?

 そんな力説をしてまで、俺とポッキーゲームをやりたがる彼女がかわいすぎる。

「そこまで言うのであれば、いいですよ?」

 すっかり絆された俺も、彼女の隣に座った。
 青銀の横髪に触れ、耳にかける。
 耳朶の裏側をなぞって小さく跳ねる薄い皮膚の反応を楽しんだ。

「いっぱい焦らしてあげますから。楽しみにしててくださいね?」
「ちょ、そっ、まっ!? どんだけやるつもりっ!?」

 サアッと血の気を引かせるが、どこまでやるかだなんて決まり切っている。

「もちろん『お願い♡ もう我慢できない♡ メチャクチャにして♡』っておねだりしてくれるまでです」
「趣旨変わってるじゃん!?」
「要はいつもと違った刺激が欲しいんでしょう?」

 邪魔になりそうな眼鏡を外して、彼女に向き直る。

「がんばりますね♡」

 もう一度、彼女にキスをして俺は菓子の外箱を開けていった。

11/10/2025, 12:08:10 AM

『心の境界線』

 アスリートにとって、食事はパフォーマンスに直結する行為である。
 一般的に女性は鉄分が不足しがちだというから、素人知識ながらも意識した。
 減量もアレルギーもない。
 極端なことはせずに脂質や油調理を少なくして、白身魚をメインに夕飯を整えた。

「え、すご。おいしそう」

 風呂から戻ってきた彼女が、キッチンから立ち込める匂いに目を輝かせる。
 その反応に、心の底からホッとした。

「すぐ食べられますよ」

 おにぎりをひとつ食べたと言っていたから、少なめにご飯をよそう。

「どうぞ」
「ありがと、って、あれ?」

 ローテーブルの前に座った彼女は、茶碗を受け取りながら首を傾げた。

「ねえ。れーじくんの分は?」

 彼女からの思わぬ言葉に、つい声をあげる。

「えっ!?」
「え?」

 お互いまじまじと見つめ合ったあと、数拍の沈黙が流れた。

「もしかして、ない?」
「はい。俺は軽くすませてきました」

 しょんもりと肩を落とした彼女が、唇を尖らせて拗ね散らかす。

「なんで? いっぱい作ってたよね?」
「あれは朝食、補食、夕食を含めた5日分の作り置きです」
「それ、崩していいから一緒に食べたい」

 プクッと、彼女はあざとくむくれる。
 かわいい訴えにキュンッと彼女への好感度が上がる音がした。

「ちょっとでいいから。お願い」
「……」

 かわいいなっ!?

 これを無自覚にやっているのだから困りものである。

 あっさり落とされた俺は、彼女と食卓を囲んだ。

 丁寧に手を合わせて、彼女は黙々ときれいな所作で箸を進める。
 もぐもぐと小さなお口で一生懸命に咀嚼している姿はかわいさの極みだ。

 しかし、彼女の表情は影を落として曇ったまま冴えない。
 栄養バランスは考慮しつつも、彼女の好きなメニューで取り揃えた。

 あれ?
 もしかして不味かった?
 味つけが濃すぎたのだろうか。

「お口に合いませんでしたか?」
「んーん。すごくおいしいからビックリしてるくらい」

 3年間告白を断り続けた彼女が、つまらないリップサービスをするとは思えない。
 では、なにを気にしてそんなに憂いを帯びた顔をしているのか。
 探りを入れる前に彼女がポツリと呟いた。

「なんで、自分のご飯用意してなかったの?」
「食材と調味料はあなたの金で用意しましたし、キッチンはじめ、調理器具もあなたのものですよ?」
「それとなにが関係あるの?」
「え? そんなの、決まってるじゃないですか」

 ホットプレート、ホットサンドメーカー、低温調理器などの調理器具が未開封の状態で、キッチンの棚に収納されていたのだ。
 自分ではなかなか手を出せないアイテムにテンションが上がる。
 今回、彼女の家に押しかけたのも、キッチンを使わせてもらうことが目的だった。

「あなたの金と調理器具を使って飯を作らせてもらったんですよ? そこからさらに推しを拝みながら食うとか、さすがにおこがましすぎませんか?」
「いきなり様子がおかしくなったな?」
「それに、一緒に飯を食うのを恥ずかしがったのは、あなたのほうじゃないですか」

 以前、一緒に飯を食ったときに顔を真っ赤にして慌てていたのは彼女のほうだ。
 それはそれは大層かわいかったが、毎回あれでは落ち着けないだろう。

 だから今回は遠慮した。
 真向かいに座った彼女を、俺に見るなというのも無理な話である。
 互いに都合がよかったはずだ。
 客人である俺を差し置き、ひとりで飯を食べることに後ろめたさを感じてしまったのだろうか。

「あ、あれは……だって近かった、し」
「そうでしたっけ?」

 ぷりぷりと睨みつけて見上げる彼女がかわいくて、ついとぼけてしまう。
 俺のふざけた態度にムキになった彼女は、立ち上がって俺の隣まで移動してきた。
 グッと顔を寄せた彼女に驚いて、手にしていた味噌汁茶碗を落としそうになる。

 うぇおおぁ!?

「ちょっと。危ないです」

 危なかったのは俺である。
 突然の不意打ちに変な声が出るところだった。
 バクバクと一気に心臓が天にまで昇る勢いで暴れ始める。

「この距離」

 彼女自身だって照れているクセに、俺の心境などおかまいなしにぐいぐいと迫ってきた。

「れ、れーじくんは……慣れてるのかもしれないけど、私はまだ無理なの」

 仕かけた側からそんな頬を染めて扇状的に見つめるのは反則だ。
 距離はギリギリ耐えられるが、チラチラと俺の様子を伺う仕草には耐えられない。

 味噌汁茶碗を置き、深呼吸をして逸る気持ちを静めた。

「ごちそうさま……って、うわっ!?」

 その隙に、そそくさと俺の隣から逃げ出そうとする彼女を捕まえる。

「では無理じゃなくなるまで、こうしていましょうか?」
「へあっ!?」

 無理とか言いながら、無防備に近づいてきちゃうのだから愚かでかわいい。
 幸せすぎて溶けそうな心地だった。
 彼女の耳に俺の鼓動が聞こえるように、ゆっくりと抱きしめる。
 平常でいられないのは俺だって同じだ。

「がんばって慣れてくださいね?」

 言葉なく、力なく、小さくうなずいた彼女の頭を撫でる。
 互いの心音を合わせて境界線を曖昧にしていった。

Next