巡り逢い 2025.4.24
「ぐすっ……ずずっ……ひくっ」
日当たりの良いカフェの一席で、彼女はすすり泣き続けている。
「ねえ……もう、泣かないで」
僕は彼女の方に手を伸ばし、彼女の肩を叩く。
それでも彼女は俯いたまま、僕の方を少しも見ない。
騒がしかったカフェも、彼女がすすり泣き続けているから、他のお客さんががこちらに注目している。
まるで、僕が泣かせたかのように。
違うんだ! 僕のせいじゃないんだ!!
……でも、僕のせいと言えば、そうかも知れない。
そもそも、幼なじみの僕と彼女は、僕の強力なアタックでどうにか付き合うところまで持ち込めたんだ。
初めてのデートはどこにするかで悩んで、
このカフェのパフェがおいしいと聞いたからここにした。
わざわざ車で1時間かかるこの海辺のカフェに来たんだけど……。
こんなはずではなかった。
彼女はフルーツたっぷりのパフェが美味しいって笑顔を見せていたし、そんな笑顔を見て、僕も笑っていたんだ。
それなのに………。
彼女の鼻声が、僕の向かいから聞こえてくる。
彼女は僕と一緒にいるのに、僕のことなど一切見ないで。
それから僕は何度も彼女の肩を叩き、声をかけ、手を伸ばしても、彼女に拒まれた。
それから30分。彼女はこのテーブルですすり泣き続けた。
「いい加減にしないと置いて帰るよ!」
僕は思わず大声をあげてしまった。カフェの客の咎めるような視線の数々が僕を貫く。
もういい! 帰る!
僕がガタリと席を立った瞬間、彼女のすすり泣きが止まった。
思わず彼女の方を見ると、彼女は顔を上げて僕を見つめる。まだ、涙は流していたが、それでも輝くばかりの笑顔を浮かべていた。
その顔に僕はとまどった。
僕の方からは何も言ってないし、何もしてないのに。
「良かった………すごく良かったぁ………!」
感極まった彼女の声が聞こえた。
ようやく、本を閉じた向かいの彼女は、あふれる涙をハンカチでぬぐう。
君の好みだからって、この本を彼女に勧めた。
読んでみるねと、本を開いた彼女が、ここまで本の世界に入られてしまうとは……。
「本当に素敵な本に巡り逢えて良かった……ありがとう」
彼女は僕に微笑みかけると、僕の手を握った。
彼女に本を渡したらこうなるのは分かってたのに。
こんなところで本を渡したのは僕のミスだったよ。
それでも嫌いになれない僕は、やっぱり彼女の笑顔も泣き顔も素敵だと思ってしまった。
どこへ行こう 2025.4.23
羽を折られ
檻の中に閉じ込められ
足枷と手枷を嵌められ
言葉も出せぬよう口を塞がれ
北の塔からどこへも行けなくなった私は
どこへ行こう
上を見上げれば
高いところに天窓一つ
差し込む日差しが
ただ一つの希望を示す
ああそうだ
あそこへ行こう
羽を折られても
檻の中に閉じ込められても
足枷と手枷をはめられても
言葉を発せないよう口を塞がれても
私の心は外へと行ける
この場所から心だけはどこかへ行こう
見えない外の世界を描き
天窓に目を向けてまぶたを閉じる
すると不思議なことに
羽は力を取り戻し
檻は壊れ
足枷と手枷は解かれ
塞がれた口からは言葉が紡がれた
全てから解かれた私は
北の塔からどこでも行ける
私は羽根を動かすと天窓から飛び立ち
二度とそこを振り返るはことなかった
星明かり 2025.4.20
「うん……?」
俺がドアを開けると、暗いリビングの中で、弟がドアに背を向けて立っていた。
月のない夜だった。
リビングの開かれたカーテンからは、星の明かりがだけが差し込んでいる。
闇の中でも、立ちつくす弟の白いTシャツが浮いて、胸がどきりと音を立てた。
「兄さん……」
その背中が寂しそうで、俺は思わず声をかけた。
弟はその声に振り向くと、俺の目をひたと見つめた。
その目はいつになく憂いを帯びており、まるで何かを言いたそうに見えた。
しばらく時が過ぎ、ようやく弟は口を開いた。
「ごめん……俺……兄さんの期待に応えられない」
弟は目を伏せる。その手に持つスマホに指を滑らせたのか、光が弟の顔を照らす。その表情に俺はなぜか胸が騒ぐ。
「……」
俺は弟の悲しみに満ちた瞳の先に吸い寄せられる。
弟の手は力なく垂れ、持っていたスマホが、今は床を照らしていた。
俺は、そっと手を伸ばした。
「電気のリモコンの電池、見つけられなかったのならそう言えよ」
俺は弟が床に落としてしまったリモコンを拾った。
無事に部屋は明るくなった部屋の中で、俺は弟に、模様替えの際に変えた、電池をしまってあるところを教えた。
ひとひら 2025.4.13
擬人化です。
『それ』はただ、そこにいました。
『それ』はただ、誰一人訪れない山の奥で
朽ちていくばかりでした。
人の手の入らない山に、
主ではない何者かの手で置いていかれた『それ』は、
春の桜を、初夏の若葉を、
夏の涼やかな木陰を、
秋深くなる頃の紅葉に銀杏を、
冬に積もる雪に覆われながら空に舞う雪花の下で
時を過ごし、
何度も春を、夏を、秋を、冬を越えても
主の訪れはありません。
さらに何度も季節は巡りました。
そんなある春のことです。
ついに、主がこの場所に来たのです。
主は『それ』を見て、眉を寄せ、目を伏せました。
『それ』の目はもう、何も照らすことはなく、
『それ』の足はもう、二度と主を乗せて走ることはなく、
『それ』の体はもう、傷みすぎて主を迎え入れることは出来ません。
『それ』の胸はもう、血が巡らせる力もありませんでした。
『それ』はもう、主のために動くことは出来ないのです。
『それ』はもう、主のもとへ帰ることも出来ないのです。
主は、しばらく『それ』を見ていましたが、一つため息をつき背を向けると、懐から四角い板を取り出して指を滑らせました。
*****
「もしもし……ああ、俺だよ。何年も前に盗まれた車が、こんなところに乗り捨てられてた……」
この車の主は、数年前に新車で買った4WDを乗り逃げされた挙句、山に乗り捨てられていたのを発見してしまったのです。
彼はため息をつくと、この車の扱いに困り果て、物言わぬ『それ』に背を向けたのでした。
『それ』の屋根に、桜の花びらがひとひら落ちてきましたが、車の主はそれを見ることはありませんでした。
風景
2025.4.12
俺と弟は今、本州と四国をつなぐ橋を車で渡っていた。
今は午前10時頃。
天気は晴れ。柔らかな太陽が波を照らして輝く。
遮るもののない水平線。穏やかな海に浮かぶ島の数々。所々には船が浮かぶ景色が、視界に入る。少しぼやけた島は、四国だろうか。
少し開けた窓からは、春の風が吹き込み、俺と弟の髪をバサバサと乱す。
橋の上、アクセルを踏み込んで行く。
巨大な橋桁、広い道が前から後ろへ流れていく。
いつも勤務先のビルや自宅に籠もっていると、なかなか海など見ることもない。
そもそもこうして車で出かける機会がまず無い。
俺が前を見て運転に集中しているところ、弟が助手席で窓から身を乗り出しそうになりながら海を眺めている所が、ミラーに映った。
「危ないぞ」
「だって! すごいよ! 兄さんも見てみろよ!」
ハイテンションな弟の声が車内に響くと、運転席に身を乗り出す。そして俺の肩を叩いて窓の外を見るようにと急かした。
「やめろ!」
俺は弟をなんとか助手席に押し戻した。
危なかった。風でハンドルを取られるところだった。
俺は隣で盛り上がる弟を無視して運転に集中する。景色に夢中になりかける自分に気がつくと、慌ててハンドルを握りしめた。
俺も気が緩んでいるようだ。弟を笑えない。
やがて、橋の先に見える木々が近づいてきた。そろそろ四国へ入る。
四国で食べるうどんのためだけにドライブをしていたが、橋から眺める景色が予想以上に素晴らしかった。来た甲斐があったというものだ。
到着した俺たちは、うどんを食べ歩いた。どこの店によって違う独特の歯ごたえと出汁は、実に最高だった。
帰りは弟に運転させたら、今度は橋が、夜景が綺麗だと言って、一人盛り上がっていた。危ないから前を見ろ、と何度も注意したのだが。
少し落ち着いた弟の運転に安心し、俺は窓に張り付いて夜の本州を眺めていた。