古い壁掛け時計は、いつも少しだけ遅れて時を刻んでいた。
秒針が一歩進むたび、微かな軋み音がして、まるで過去を引きずっているようだった。
私はその時計を、止まった祖母の家から持ち帰った。引っ越しの段ボールの底で、埃にまみれたまま眠っていたそれを、ある夜ふと思い出して壁に掛けたのだ。
午前二時。
静まり返った部屋で、時計の音だけがやけに大きく響く。
カチ、カチ。
そのリズムに合わせるように、思い出が滲み出してくる。
祖母の家の縁側、夏の夕暮れ、風鈴の音。
「時間はね、戻らないから大事にしなさい」
そう言って笑った祖母の声。
私はずっと、過去を置き去りにしてきた。後悔も、言えなかった言葉も、見ないふりをして前へ進んだつもりでいた。
けれど時計の針は、容赦なくそれらを指し示す。
短針が示す場所は、あの頃の私。
長針がなぞる円は、繰り返される迷い。
ふと、秒針が止まった。
息を詰めると、部屋の空気まで静止したように感じられた。
次の瞬間、時計は逆に動き始めた。
カチ、カチ。
視界が揺れ、懐かしい匂いが鼻を刺す。
気づけば私は、祖母の家の居間に立っていた。壁には、同じ時計。新品のように輝いている。
「おかえり」
振り向くと、若い祖母がそこにいた。
言葉が喉に詰まり、私はただ首を振る。
謝りたかった。会いに来なかったことも、最後に素直になれなかったことも。
祖母は何も問わず、静かに時計に手を伸ばした。
「時間は戻らない。でも、向き合うことはできるのよ」
次の瞬間、また部屋は闇に戻った。
時計は再び、正しい向きで時を刻んでいる。
朝の光が差し込むころ、私は壁の時計を見上げた。
針は相変わらず少し遅れている。
でもそれでいい、と初めて思えた。
過去は戻らない。
けれど、今の一歩を選ぶことはできる。
私は時計のネジを、ほんの少しだけ巻いた。
川沿いの小さな道に、彼女は毎年同じ花を植えた。
勿忘草。青くて、目立たなくて、名前だけが少し切実な花。
理由を聞かれると、彼女は曖昧に笑った。
「好きだから」
それ以上は、誰にも話さなかった。
昔、約束を交わした人がいた。
大げさな未来の話も、永遠の言葉もなかった。ただ、春になったらこの道を一緒に歩こう、それだけだった。
けれど彼は来なかった。連絡も、言い訳も、何も残さずに。
最初の年、彼女は待った。
二年目は、待つことをやめた。
三年目、彼の顔を思い出そうとして、思い出せないことに気づいた。
それでも春になると、彼女は種をまいた。
忘れられていく記憶の代わりに、忘れないという意志を土に埋めるように。
ある日、足を止めた見知らぬ誰かが言った。
「可愛い花ですね。名前は?」
彼女は少し考えてから答えた。
「勿忘草です。……私を忘れないで、って意味」
その人は頷き、歩き去った。
彼女はもう、誰に向けて言った言葉なのか分からなかった。
それでいい、と彼女は思った。
誰かの記憶に残らなくても、
この花が今年も咲いたことだけは、
彼女自身が覚えていれば。
川面に映る青が、静かに揺れていた。
忘れられても、消えないものがあると、
花は何も言わずに、そこに咲いていた。
愛してたなんて
過去形にして笑えるほど
まだ私は強くない
胸の奥で
今も名前がほどけなくて
思い出に触れるたび
少しだけ息が詰まる
それでも
弱いまま立ち止まる夜を越えて
いつか本当に
「愛してた」って言える朝が来ることを
私は知ってる
今はただ
強がれない自分を
抱きしめる時間なんだと思う
彼と過ごしたこの部屋は、思っていたよりも静かだった。
笑い声も、言い争った夜も、今は壁の奥にしまわれたまま、ただ朝の光だけが床に伸びている。
本当は、別れたくなかった。
彼が大好きで、この場所にいれば、まだ一緒にいられる気がしていた。
それでも時間は、優しくも残酷に、私だけを前へ進ませようとする。
段ボールはもう閉じた。
カーテンを揺らした風が、最後のため息みたいに頬を撫でる。
涙は止まらなかった。
泣かない強さなんて、今の私にはなかった。
それでも、鏡に映る自分は、思ったより崩れていない。
泣いているのに、ちゃんと立っている。
失ったものを抱えたまま、それでも前を向こうとしている。
玄関で一度だけ振り返り、私は小さく息を吸った。
この部屋に残すのは、過去の私。
これからの私は、涙を知って、少しだけ強くなった私だ。
鍵をかける音が、静かに響く。
私は泣きながら、でも確かに前を向いて、歩き出した。
改札の前で、彼女は立ち止まった。
行き先が違うことを、もう何度も確かめたはずなのに。
「好き同士なのになぜ別れが来ることがあるの」
彼女の声は小さくて、責めるより先に、諦めに似ていた。
俺はすぐに答えられなかった。
答えは知っていたけれど、口にした瞬間に本当になってしまう気がしたから。
好きだった。
今もそうだと思う。
連絡が来ない夜に不安になるし、彼女の笑い方を思い出すだけで胸が緩む。
でも、俺の毎日は彼女を置き去りにして走っていた。
仕事、責任、選んだはずの人生。
彼女を守る余裕がないことに、気づかないふりをしてきた。
「嫌いになったわけじゃない」
それしか言えなかった自分が、情けなかった。
好きだと言えば引き止めてしまう。
でも一緒に未来を描けないまま繋ぎとめるのは、もっと残酷だと思った。
電車の音が近づく。
彼女の目が少し潤んだのを見て、俺は視線を逸らした。
本当は、
好き同士だからこそ、別れが来ることがある。
その言葉を、俺は最後まで言えなかった。
ドアが閉まり、彼女が遠ざかる。
胸の奥が静かに痛む。
――愛はあった。
ただ、同じ場所へ行く勇気が、俺にはなかった。
それでも、彼女を好きだった時間だけは、
嘘じゃなかったと信じていた。