ちぐ。

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2/6/2026, 12:57:17 PM

古い壁掛け時計は、いつも少しだけ遅れて時を刻んでいた。
秒針が一歩進むたび、微かな軋み音がして、まるで過去を引きずっているようだった。

私はその時計を、止まった祖母の家から持ち帰った。引っ越しの段ボールの底で、埃にまみれたまま眠っていたそれを、ある夜ふと思い出して壁に掛けたのだ。

午前二時。
静まり返った部屋で、時計の音だけがやけに大きく響く。

カチ、カチ。

そのリズムに合わせるように、思い出が滲み出してくる。
祖母の家の縁側、夏の夕暮れ、風鈴の音。
「時間はね、戻らないから大事にしなさい」
そう言って笑った祖母の声。

私はずっと、過去を置き去りにしてきた。後悔も、言えなかった言葉も、見ないふりをして前へ進んだつもりでいた。

けれど時計の針は、容赦なくそれらを指し示す。
短針が示す場所は、あの頃の私。
長針がなぞる円は、繰り返される迷い。

ふと、秒針が止まった。

息を詰めると、部屋の空気まで静止したように感じられた。
次の瞬間、時計は逆に動き始めた。

カチ、カチ。

視界が揺れ、懐かしい匂いが鼻を刺す。
気づけば私は、祖母の家の居間に立っていた。壁には、同じ時計。新品のように輝いている。

「おかえり」

振り向くと、若い祖母がそこにいた。
言葉が喉に詰まり、私はただ首を振る。
謝りたかった。会いに来なかったことも、最後に素直になれなかったことも。

祖母は何も問わず、静かに時計に手を伸ばした。
「時間は戻らない。でも、向き合うことはできるのよ」

次の瞬間、また部屋は闇に戻った。
時計は再び、正しい向きで時を刻んでいる。

朝の光が差し込むころ、私は壁の時計を見上げた。
針は相変わらず少し遅れている。
でもそれでいい、と初めて思えた。

過去は戻らない。
けれど、今の一歩を選ぶことはできる。

私は時計のネジを、ほんの少しだけ巻いた。

2/3/2026, 2:54:40 AM

川沿いの小さな道に、彼女は毎年同じ花を植えた。
勿忘草。青くて、目立たなくて、名前だけが少し切実な花。

理由を聞かれると、彼女は曖昧に笑った。
「好きだから」
それ以上は、誰にも話さなかった。

昔、約束を交わした人がいた。
大げさな未来の話も、永遠の言葉もなかった。ただ、春になったらこの道を一緒に歩こう、それだけだった。
けれど彼は来なかった。連絡も、言い訳も、何も残さずに。

最初の年、彼女は待った。
二年目は、待つことをやめた。
三年目、彼の顔を思い出そうとして、思い出せないことに気づいた。

それでも春になると、彼女は種をまいた。
忘れられていく記憶の代わりに、忘れないという意志を土に埋めるように。

ある日、足を止めた見知らぬ誰かが言った。
「可愛い花ですね。名前は?」
彼女は少し考えてから答えた。
「勿忘草です。……私を忘れないで、って意味」

その人は頷き、歩き去った。
彼女はもう、誰に向けて言った言葉なのか分からなかった。

それでいい、と彼女は思った。
誰かの記憶に残らなくても、
この花が今年も咲いたことだけは、
彼女自身が覚えていれば。

川面に映る青が、静かに揺れていた。
忘れられても、消えないものがあると、
花は何も言わずに、そこに咲いていた。

1/31/2026, 10:04:07 AM

愛してたなんて
過去形にして笑えるほど
まだ私は強くない

胸の奥で
今も名前がほどけなくて
思い出に触れるたび
少しだけ息が詰まる

それでも
弱いまま立ち止まる夜を越えて
いつか本当に
「愛してた」って言える朝が来ることを
私は知ってる

今はただ
強がれない自分を
抱きしめる時間なんだと思う

1/30/2026, 2:11:13 AM

彼と過ごしたこの部屋は、思っていたよりも静かだった。
笑い声も、言い争った夜も、今は壁の奥にしまわれたまま、ただ朝の光だけが床に伸びている。

本当は、別れたくなかった。
彼が大好きで、この場所にいれば、まだ一緒にいられる気がしていた。
それでも時間は、優しくも残酷に、私だけを前へ進ませようとする。

段ボールはもう閉じた。
カーテンを揺らした風が、最後のため息みたいに頬を撫でる。
涙は止まらなかった。
泣かない強さなんて、今の私にはなかった。

それでも、鏡に映る自分は、思ったより崩れていない。
泣いているのに、ちゃんと立っている。
失ったものを抱えたまま、それでも前を向こうとしている。

玄関で一度だけ振り返り、私は小さく息を吸った。
この部屋に残すのは、過去の私。
これからの私は、涙を知って、少しだけ強くなった私だ。

鍵をかける音が、静かに響く。
私は泣きながら、でも確かに前を向いて、歩き出した。

1/21/2026, 7:20:44 PM

改札の前で、彼女は立ち止まった。
行き先が違うことを、もう何度も確かめたはずなのに。

「好き同士なのになぜ別れが来ることがあるの」

彼女の声は小さくて、責めるより先に、諦めに似ていた。
俺はすぐに答えられなかった。
答えは知っていたけれど、口にした瞬間に本当になってしまう気がしたから。

好きだった。
今もそうだと思う。
連絡が来ない夜に不安になるし、彼女の笑い方を思い出すだけで胸が緩む。

でも、俺の毎日は彼女を置き去りにして走っていた。
仕事、責任、選んだはずの人生。
彼女を守る余裕がないことに、気づかないふりをしてきた。

「嫌いになったわけじゃない」

それしか言えなかった自分が、情けなかった。
好きだと言えば引き止めてしまう。
でも一緒に未来を描けないまま繋ぎとめるのは、もっと残酷だと思った。

電車の音が近づく。
彼女の目が少し潤んだのを見て、俺は視線を逸らした。

本当は、
好き同士だからこそ、別れが来ることがある。
その言葉を、俺は最後まで言えなかった。

ドアが閉まり、彼女が遠ざかる。
胸の奥が静かに痛む。

――愛はあった。
ただ、同じ場所へ行く勇気が、俺にはなかった。

それでも、彼女を好きだった時間だけは、
嘘じゃなかったと信じていた。

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