『逃げてください! 山から逃げて!』
起きてきたきみがテレビを点けると、アナウンサーの声が飛び出してきた。
何度も速報の音が鳴る。
「あのね、朝ごはん、おんなじのでいい?」
「ええ、お願いします。未明に顕現したらしいですよ」
「山のやつ?」
「みたいです」
厚切りの食パンは何をしてもおいしい。CMだと、内相が空気を含んで焼き上がって、ちぎった断面にほんのりと湿った光があるような、ふわっふわ感を売りにしている。
けれど、今日は違う。
スプーンの底を使って、ぎゅうぎゅうとパンのやわらかさを殺してゆく。もう、硬めで、ふぅわと戻ってこないのが理想!
できた窪みはちょっと不格好。
まあ、味は変わらないし。
そこに、器をつくるみたいにハムをのせる。きちんと整えられた丸い断面は、見た目も中身も均一に加工されている。
ふちはマヨネーズで囲んじゃおうかな。
冷蔵庫から出した卵を割るのは、平たくて勢い余って突き指しちゃうくらい硬いところがいいよね。
卵殻は内側の薄膜で補強されているから、ゴツンと一思いにぶつけた。そうすると、亀裂が入ってグジャリとした感触が指に伝わってくる。
いい感じに上下に割れれば最高。
殻が入らないように、パンの窪みに落として。
つやんとした、透明な半液体。白く濁った部分と透ける部分が混ざって、息をしているみたいに揺れる。
らんらんに火照るような、きれいな黄味色。
その上に、栄養価たっぷりだった牛乳を脂肪分にした濃厚なチーズをかける。焼かれて溶けて、とろ~りとするのがいいよね。
ンッ、緑たりない。
ぶんぶんチョッパーで細切れにしたパセリ、かけちゃおうかな。確か、冷凍庫で凍らせていたはず。
あ、ついでに牛乳でホットミルクしよう。
あとは、これをトースターで……、あー、トースター壊れてるんだった。寿命、まだある感じだったのに。夕方までに廃品に持ってかないと。
じゃあ焼くのはお魚グリルでいいかな。
そうやって朝ごはんの準備をしていると、また、テレビで速報の音が流れる。
『いま、陲ォ縺輔k閠が■■■の■山を横断しています! いつ、市街地へ来てもおかしくない状況です!』
「怖いですね」
「そこって、街が近くにあるの?」
「いえ、確か、山の深いほうだったはずです。ですが、国道もありますし、人も住んでいますから」
映し出されたそれは、山を跨ぐようにしてゆっくりと動いている。手ブレがひどいから、きっと撮影しているところから随分遠いところだろうけれど。
ガクンと映像が上下に揺れる。
悲鳴のような声が上がった。
『ああっ! いま、いまっ! 触手が! ちょうど■■村のあるあたりです! 逃げてください! 逃げて‼』
「■■ですか。大変ですね。ここらは山がないですから大丈夫でしょうけれど」
「あッ!」
「どうしました?」
テレビを見ていたきみが、ぼくに振り返る。ガタンとチェアが動いて。
「はちみつ床に落としちゃった。ホットミルク、甘くしたくて」
「もう。ティースプーン一杯分が蜂の一生分ですのに、もったいない」
「ごめん。すぐ片付けるから!」
すぐ近くにあった濡れ布巾を手に取る。
あーあ、しばらくベタベタするかも。
#小さな命
石畳はところどころ剥がれていて、雨が降っているせいで水溜まりが黒く沈んでいた。
コツ、コツ、コツ、と気持ちが早っている靴音。
アーチを潜った路地は昼でも薄暗い。壁に貼られた古いポスターは風にめくれ、窓辺の花は枯れていて代わりに鉄格子が目立つ。
誰が描いたのか、下手くそな落書きだって。
「あ、こんにちは」
すれ違った中肉中背のひと。
鬱陶しそうに目だけがちらりとぼくを見たとき、その首筋がズレた。ごとりと重いものが水溜まりに落ちる。湿ったぬるいものがぼくにかかって、咄嗟に逃げ出した。
そのひとは冷たい雨のなか、水溜まりに首ごと突っ込んで。きっとあとで回収されておしまいなのだろう。
雨上がりはきっと土と鉄のにおいがする。
その前に家に帰ってしまいたいとは思うけれど。
****
「それは幸運でしたねえ」
「幸運、かなぁ。災難じゃあなくて?」
「巻き添えを喰らわなくてよかったでしょう?」
「……まあ、そう、かも」
そうでしょうとも、そう笑ったきみがタオル越しに撫でてくれる。消毒のにおいが強いそれにはべったりと赤黒いものがついていたけれど、きみの手のひらがあたたかくて安心してしまう。
消毒のにおいと清潔感に閉ざされたこの空間はちぐはぐしている。薄いセージグリーンは陽なんて当たらないのに褪せていて、こすれたリノリウムの床も清掃されているのにつやがない。低い天井にある蛍光灯はたまに切れかかっているのを見かけるし、何よりも、きみがいるベッドがギイギイと文句を言うのがよく聞こえる。
端がほつれたカーテンが揺らぐ窓際にも、やはり鉄格子があった。
丘の上にあるここは街が見渡せるはずなのに、きみがカーテンを開けているのを見たことがない。
「…ねえ、こわかったんだよ。まだ慰めて?」
「あらぁ」
随分細くなった腕をたどって手を重ねる。骨ばって、血色も、血の巡りも悪い肌。
きみの身体はどこもかしこもガタがきていた。
最近は車椅子だってこの一室にはない。
「知らないひとなのでしょう?」
「でもあいさつした」
「律儀にするから。それで心を病むのに、おばかさんですねえ」
「みんな知らないの。ひとって殺したら死んじゃう。そうしたらもう二度と動かないのに」
「死んでみないと実感しないものですよ。さ、今日はジャケットをあげますから、上着は棄ててらっしゃい」
「返すよ、ちゃんと」
「わたくしに? 寝間着しか着ませんもの」
モスグリーンのジャケット。くすくすと笑うきみが一等気に入っていたもの。これも、きっと遠くない日に、きみの気配が消えてしまうのだろう。
もうそんなものばかりだ。
****
遠くでクラクションが鳴っている。
きっとすぐにサイレンもやってくる。
「…ね、ちょっとうるさいね」
自分の声かと疑うほどかすれていた。
この部屋には時計もカレンダーも置いていないし毛布もないからなんだか、ずっと寝た気がしない。
肩に羽織ったモスグリーンのジャケット。きみの髪がまだ絡んでいる気がした。手に握るハンカチも、渡されたときの手指がともなった重さがある気がして。
膝のトレーナーも、足許のこれもそれも。
きみのために誂えた長細い寝台で、きみはやっぱり、苦しげもなくしている。
それに寄りかかれば、かすかに、ギィ…と鳴った。
ここに、確かにここに。
ぼくはまだ、喪っていない。
#ここにある
「ウカ、外に出たいなら…ほら、靴を履いてくれると助かるんだけれど」
「…、う~~…」
ガードゥーは口の中だけで呟いた。
唸りたいのはこっちだ、と。
元気のないつむじを見るのはめずらしい。そもそも、そのつむじ自体、あまり見る機会はなかった。だいたいの時間を、自由気ままに部屋の天井付近をふよふよと浮いて過ごすからだ。
水槽の魚のように。
シアターで観るドキュメンタリーの鳥のように。
ダイニングチェアに座るウカは顎を膝に乗せたまま、つま先をきゅっと曲げて逃げたがった。
尖ったくちびるはぽそぽそと言葉を落とす。
「でもね、ガードゥー、だって、重たいから」
「重たくは…ないと思う。職人さんとけっこう細かく相談したから、できるだけ軽くしてもらったつもりだよ」
ウカはじーっとそれを見つめていた。本人なりに睨みつけているつもりなのだろう。
あまりにも睨みがへたっぴだ。
つやを失った床板の上に並べられる一足のローファー。その色はヴェールをまとった雪花石膏のような、淡くやわらかなアイボリーに近い。色見本を並べて小一時間かかって選ばれた色だ。
新品の皮のにおいが鼻に残るかも知れないが、それは使っていればいずれ馴染むもの。
そう何度も伝えたが、ウカはこの三か月間、この話題で眉を寄せなかったことはない。靴下だって何度放られたことか。
いまも、丸まってそのへんに落ちている。
「なにがそんなに嫌かな。…重たいのは…そうだなぁ、我慢してもらうしか、ないと思うよ」
縦に長い体躯を縮ませたガードゥーが、その革靴を手に取った。この家に靴のどれよりも軽い。
そりゃあ、裸足には敵わないが。
靴職人がウカの足の形を測り、木型を削り出し、それに合わせてつくられた、ウカのための靴に他ならない。ものづくりの手がその足に触れたときも、いつものスマイルが引っ込んでいたことをガードゥーは思い出した。
重たい、息ができない、落ちる、窮屈。
聞き飽きるほどに。ウカに他の語彙力はなかった。くり返しくり返し、「だってね」「でもね」と。
「どこ、つれてく気なの」
「どこって、ウカが外に行きたいって言ったか。だからウカが歩きたい場所に行こうかなって」
ガードゥーはやさしく言い含めてゆく。
あまり柄ではなかったが、目の前のいきものを、もう幼児とでも思うようにしている。当の大きな幼児は、うつむいたままきょろりとそのうつくしい目玉を動かした。
「くつを、はいて?」
「うん」
「おそとに?」
「そう」
「どうして?」
「外じゃ……浮くのはちょっと。ひとが多いし、目立つから」
「だっこでもいいよ。ガードゥー、だっこしてくれたでしょ?」
「この前、ポリスに怪しまれたばかりじゃあないか」
くしゃりと顔のパーツが中心に寄った。
「せっかくの君のための靴だから、店主に見せに行かないと」
「ガードゥーがよかったって言ってきて」
「そうもいかないよ」
「どうしても?」
「どうしても、かなぁ」
そろそろと、チェアからつま先が下ろされる。
ちょん、と光沢のある革靴に触れて。昨日揃えたばかりのウカの爪が、同じような光沢で光を反射させていた。
ツーっと革靴のつま先からすべってゆく足先が、ようやくその肌色を隠してゆく。おっかなびっくりな仕草で、用心深く、猜疑心を潜めるように。
ああでも、その肌色が、なめした革ではなく糸の繊維に包まれるまで、どれくらいかかるだろうか。
ガードゥーはやはり、思い切り唸りたかった。
#素足のままで
「もたつくお天気ですね」
薄墨の空はもうすぐにでも濡れ始めそうだった。強い風はないけれど、ゆっくりと湿った空気が運ばれて、い草のにおいがまざってゆく。
きみが好む香なのに。
「もう雨戸も閉めておく? 風が急に出てきたら大変だし」
「いいえ。もう少しだけ」
「そう?」
分厚い木版に縁起のいい図柄の欄間。つやっと光沢を帯びた木肌は、外の空と呼応するような彫刻が施されている。その下に陣取るきみはわざわざ座椅子を持ってきて、じっと外を眺めていた。
空の上層に墨を流したような雲が幾重にも折り重なって、たまに見える空との境い目が曖昧になる。雲の襞が風もなく、ただ重さだけで垂れてくるようで、心なしか急かされる。
ぼくも、いそいそと茶器をお盆にのせて、きみの近くに座った。
「おや」
「座ってもいい?」
「もちろん。あなたのお茶が一等ですもの」
「きみほどおいしくはできないけれど」
「ふふ、うれしい」
庭の風景も相まって、陽光を求める花のような笑みだった。
その向こう側で、雲が、ほんの隙間から、真っ白く脈打った気がした。
「どうしました?」
喉が渇く。はく、と喉が上下して、唇が離れて息が漏れる。だって、空が――――ゴロゴロゴロ……、淡々と鳴りはじめたから。
ぼくの視線は自然と下を向いてしまう。
「おや、かみなり。まだ遠いですね」
「……そ、そう、だね」
「苦手です?」
「…まぁ、…うん。ちょっとね、ちょっとだけ。ここから官舎までは回廊があるし、大丈夫」
「このお天気だと夜半まで続きそうですね、かみなり」
「えッ」
くすくすと笑う、きみの袖口。涼しげな色に、銀糸の筋がいくつか走っていた。かみなりは、きっとぼくなんかよりもうんときみに近い。ぼくには誰かの声みたいに聞こえるときがある。
だから、…目を逸らして耳も塞ぎたくなる。
そう知ったら、きみはどんな顔をするだろうか。
こんな罰当たりなことを考えていたからか、きみが座椅子から立ち上がってしまった。
文机の引き出しをひとつ開けて、指先で何かを探すように木の中を撫でてゆく。
「嫉妬しいで困りますねえ」
「え」
ひとり言のようなきみの言葉。
やがて、ぷらんと宙に垂れる風鈴が取り出された。透明な器に淡い青が滲んで、下に伸びた短冊は濃紺の墨で文字のような模様が描かれている。
短冊は揺れているのに、音がしない。
「あなたに八つ当たりなんて、わるいお方です」
欄間の下まで戻ってきたきみは、片手で袖を留めながら、まだ空の裏側で爪を立てているそこに、風鈴の器を重ねた。
雲が閉じ込められて、奥で鳴っていた音がすうっと器の中に吸い込まれてゆく。
ふうー…と、そこにきみが息を吹き込んだ。
短冊が、ゆらり、ゆらり、ゆら、揺れて。
――――ちりん、ちり、ちりん、ちりん。
風は凪いでいるのに音は止まない。
ちりん、ちりん、少し止んでまた、ちりん、ちりん。
その音のまま、風鈴は季節釘に引っかけられる。
つられるように外の雲を見れば、相変わらず濃くいくつも重なっていたが、その隙間が光ることも音を飛ばすこともなくなっていた。
いま、きみが?
音を、光を、囲ってしまったの?
ぼくの近く、座椅子に腰を戻したきみは、ちりんちりんと音を飛ばす風鈴に耳を傾けたまま。ぼくの淹れたお茶を口許に運ぶ。
「そんなに言わなくても、わたくし、ここにいますのにね」
あの空から来た音がきみの近くで鳴っている。
ああどうしよう、ぼく、やっぱり、かみなりは好きじゃないかも。
#遠雷
防波堤の脇に停めた車内に、潮騒のにおいはなかった。外の街路灯の真下、じんわりと夜の青黒いかすみに輪郭が浮かぶ。触れ合っている肩と腕の、あなたの体温がすこし熱いままだった。
ドアの内側を背もたれにして、後部座席を独占しているあなた。その薄い腹の上で、茎が十数センチ残る花がゆっくりと回ってゆく。たまに、くんと香ると、あなたは律儀に眉根を寄せて。
香らなければいいのに、とは言わなかった。
「んっ…、けっこうスパイシーな、におい」
「窓、開けましょうか」
「んーん、いい」
後部座席の段差にクッションをつめて横になっているわたくしがあなたを見上げると、花を見ていた伏し目が寄越される。腕をからめ取られたまま、あなたの頭が肩口に埋められた。
ふんわりとした細い髪がわたくしの頬をくすぐる。
あなたが手指の先でいじっている花びらは、ごく暗い紫を帯びた青色。
あの、生花独特のやわらかい繊維を薄いビニール一枚隔てて触るような、触っているのか分からない感覚。くしゅ、くしゅ、くしゅ、とあなたの指の腹が折りたたんでは開いてゆく。
「なんだか、かわいいと不気味の間みたいなお花だね。トゲもちょっとだけあるし」
「バラの色違いですよ」
「ふぅン」
ふくらみを感じさせる丸みを帯びた房咲き。この手の花はいつでもひとの気持ちを確かめたがる。
まるで、疚しさを知らないあなたのよう。
「におい、嗅いで」
「どれ」
きしり、あなたが体重をのせているシートが軋んだ。体勢を変えた四肢は肌色をこすり上げる。
鼻先にさし向けられたぽったりとした花。まざまざと見せられたそれは、街路灯に照らされるまではすっかりと車内の空気感になじんでいた。
目を細めるほどの人工色。
あなたの言う通り、むせかえるような華やかな香りがする。
茎を持てば、数少ないトゲが皮膚に当たったりもした。
「くらくらしちゃうね」
こてんと肩口から見上げてくるあなたのまぶたは、弧を描いて閉じていた。上を向いたまつげがふるりと歪み、わたくしを正確に捉える。
さっきまでせわしくしていた手指も、居心地を確かめていたつま先も、シートの上でだらりと力が抜けていた。
ゆっくりと上下する息。
背を預けているドアの外からは、防波堤にぶつかる波の音がしている。ザザン、ザザン、激しくぶつかって、防波堤を壊したならば、わたくしたちはひとたまりもない。
ひとたまりも。あなたもろとも、きっと。
あなたの耳許に唇を寄せる。
「疲れました?」
「んぅ…、んんっ」
ぐずるように唇も尖らせたあなたは、緩慢にまばたきをした。
「シャワー、めんどう…くさい」
「いいですよ、少し眠れば。どうせ近くに銭湯もありませんから」
まぶたがゆるりと閉じる。寝入ってしまう。
わたくしの腕に絡んでいたあなたの腕が垂れて、シートの上に横たわる。その手のひらはわたくしの肌をたどって、手指をからめてつないできた。
骨張った手指。
もう力はそれほど入っていなかった。
食欲が前ほどわかないのは、誰のせいか。
見えない海が、激しく波を高くしてぶつかってくる。
あなたの体温が移ってくると、いつも思う。
ぽそりと唇の先だけであなたがぽそぽそ、言葉を車内に落としてゆく。
「あのね、窓、開けちゃだめ」
「えぇ」
「手もはなさないで。ぎゅって」
「もちろん」
ザザン、ザザン、ザザン――――……
「波のおと、すごいね」
「眠ってしまえば気になりませんよ」
「……きみも?」
「あなたも」
「ん、ふ……」
息遣いも気配も小さくなって、潮騒だけが残る。
輪郭と体温だけの車内で、白んでゆく空をまた、見ることになるのだろうか。
それとも、このまま――――、
#Midnight blue