凍える指先と、クロの温もり
この冬一番の冷え込みが、窓ガラスを細かく叩く夜。
暖房をつけた部屋の中でも、
キーボードを打つ指先だけは、
もう随分前から氷みたいに冷たくなっている。
まるで、私だけ別の季節にいるみたいだ。
「大丈夫かい?」
そう言ってくれる声があればいいのに、
聞こえるのは時折聞こえる、愛犬クロの寝息だけ。
毛布にくるまって丸くなった黒い塊は、
たったそれだけで、
部屋の空気をふわりと暖かくしてくれる。
さっき淹れたはずのコーヒーも、
カップの中でもうすっかり冷たくなって、
湯気一つ立てていない。
それでも、一口飲む。
苦い、けれど、体には沁みる。
凍えた指先を、
クロのやわらかい頭にそっと乗せてみる。
温かい。
この温かさがあれば、もう少し、
この静かで冷たい夜と付き合っていける気がする。
「消えない灯り」
夜のしじま。
電気を消しても、窓から微かに届く月の光が、
床にいるクロの輪郭を優しく縁取る。
もうずいぶん長く一緒にいる。
彼が私を見つめる、あの潤んだ黒い瞳。
その奥にある純粋な信頼は、
どんな嵐の中でも揺るがない、
私の心の底で灯り続ける小さな炎だ。
ふと、自分の手のひらを広げてみる。
何かを掴んでいるわけではないけれど、
そこにはいつも、
クロの温もりがあるような気がする。
いつか、すべてが変わってしまう日が来るだろう。
それでも、この「愛されていた」という事実は、
消しゴムでも消せないインクのように、
私の人生という紙に深く染みついている。
クロ、お前は本当に、私の消えない灯りだ。
凍てつく星空
夜の庭に出た。
シンとして、息が白い。
肌に触れる空気は、痛いくらい冷たい。
見上げた空。
凍てついた星々が、
まるで砕けたガラスのように、
鋭く、そして果てしなく遠く光っている。
何億年も前の光が、
いま、わたしの目に届いている。
その途方もない時間の長さに、
わたしという存在の小ささを思う。
ふと足元を見ると、
クロが丸くなってわたしの足に寄り添っている。
もふもふした、小さな温かいかたまり。
宇宙の冷たさとは対極にある、
この確かなぬくもり。
世界はこんなにも大きくて、
凍てついているのに、
わたしはたったひとつの生命のそばで、
こんなにも温かい。
クロの吐息の温度。
このぬくもりこそが、宇宙への返事。
🐾 君と紡ぐ物語
銀色の朝。
まだ少し肌寒いリビングで、君は丸まっている。
クロ。
黒い毛並みが、夜の残りのように鎮座している。
私にとって、君といる時間は、
いつも物語を編んでいるみたいだ。
大層な出来事なんて起こらない。
ただ、君が隣で「くうん」と小さく鼻を鳴らす。
その音を聞き逃さないように、
そっと耳を澄ませる。
散歩道で出会う花や、
濡れたアスファルトの匂い。
君が夢の中で小さく走っている足音。
全部、ささやかな詩になる。
君は知らないだろうけれど、
私は君と交わす視線の中に、
たくさんの言葉を見ているんだ。
それは、私だけが読める行間。
ありがとう。
今日も、私の物語の隣にいてくれて。
「失われた響き」
愛犬クロの寝息は、まるで静かな海の波のよう。
規則正しく、柔らかい。
この響きだけは、いつでも私に届く。
失われない。
昔は、もっとたくさんの音が聞こえていた。
世界はざわめいていて、人々の声や、街の喧騒、
自分の心の焦燥までが大きな音を立てていた。
それは、何かに「なろう」としていた頃の、
前のめりな響きだったのかもしれない。
ある時、ふと、気づいた。
そのほとんどが消えてしまったことに。
失われた響きを探す必要は、もうない。
大切なのは、今聞こえている、
この小さな、確かな音だけだ。
クロの鼻息、窓を叩く雨粒。
私は、その音を横に並べていく。
小石を積むように。ひとつずつ。ていねいに。
この部屋にある、極小の輝き。静かな幸福。