僕にとって「大好き」は魔法の言葉だ。
好き嫌いで判断する僕と、良し悪しで判断する親友は、意見がよく食い違った。大体は親友のほうが正しくて、僕が言い負かされる。
肯定だけが愛じゃないし、親友と本音で話せることが、なにより嬉しかった。だから、意見の違いなど差程気にならない。なにより、大好きな親友の意見は、尊重したいと思う。
ある日、親友は言った。
「あの子のことが、好きで好きでたまらない。いつもお前が言う『大好き』って、こんな気持ちなんだな」
正直に言うと、聞きたくなかった。僕にさえ一度も言ったことがないのに、その感情が僕以外に容易く向くのが寂しくて。
僕はあの子を口説き落とした。多くが最低と言う行為でも、親友なら納得してしまう。だから、友情に亀裂など入らない。
「あの子と付き合うことになった」
悪びれることなく、勝ち誇ったように言った。これで親友が僕の隣から離れないなら、それは大勝利と言える。
「おめでとう」
「僕のこと、恨んだりする?」
「しないよ。変な虫がつくよりずっと安心だ。あの子のこと、幸せにしてやれよ?」
「うん」
あの子のことは折を見て捨てるつもりだ。クズな自覚はある。でも、ライバルを蹴落としたい気持ちを、どうしても抑えられない。
こうやって親友の恋をずっと邪魔してきた。だから、バチが当たったのかもしれない。
「愛してるんだ。あの娘のこと」
親友の口から語られた愛は、僕の娘に向くものだった。父親の立場から、奪って捨てるなど無理な話。
よりによって僕の娘を愛した理由を、聞かずにはいられなかった。
「切っ掛けはなに? 事の次第で引き離すことになるけど」
「かっこいいって言われた」
「は?」
かっこいいって……それだけ?
僕が何度も本心で言ってきたその言葉は、全て『社交辞令』で受け流された。伝わらないものに今更なんの意味がある?
「お前は言われ慣れてるから、わからないかもな。でも、俺にとっては嬉しい言葉なんだ。顔面じゃなく、内面を評価された」
ああ、そういうことか。
確かに僕は、内面のことなど一度も言わなかった。表面的に取り繕った浅い言葉が、深く傷を負った親友に響くわけもなく。
独り善がりだった僕の想いは、娘の本気の想いに負けてしまった。そういうことだろう。
学校から帰宅した娘は、一番に親友のもとへ駆け寄った。
もう少ししたら、僕は仕事へ行く準備をしなくてはならない。夜に家を空けてしまうから、親友に留守番と娘の世話を任せている。
「今日はもう来てたんだ!」
「早すぎるのはダメだった?」
「ううん。嬉しい」
「よかった。クッキーも焼いてきたよ。食べる?」
「食べる!」
親友と娘は、僕の目の前で堂々とイチャイチャしている。
まるで自分の娘を見るような、親友の慈愛に満ちた眼差し。僕が心の底から欲する家族愛が伝わってくる。
娘の恋心だって、手に取るようにわかる。決して叶わない恋なのに、何故そんなにも幸せそうに笑えるのか。
二人が抱く想いと、僕が抱く想いに、なんの違いがあるのか。
「このクッキー、すごく美味しいね。わたし、これ大好き!」
屈託のない顔で笑う娘と、子供の頃の自分が重なって見えた。
僕も昔は、親友に「大好き」と伝えていた。しかし、純粋な感情もいつしか独占欲に変わって、素直に言い出せなくなった。
僕はただ、家族がほしかっただけなんだ。それを幼馴染みと親友に求めた結果、幼馴染みは逃げた。そして、親友は僕の娘に夢中になっている。
簡単なことだったのに、見失っていた。素直に伝えればよかったんだ。
「僕も大好きだよ」
「ん?」
二人は話が見えていないようで、頭にクエスチョンマークを浮かべている。
「君の焼いたクッキー。僕も大好きだよ」
どれだけ手を伸ばしても、届かないものがある。生まれもった個性は、簡単に変えられない。
幼馴染みは美女、親友は美男、その二人に囲まれた俺は普通。
普通のはずなんだけど、左右の基が良すぎるあまり、俺の顔面評価は下の下にまで落ちた。
勉強と運動、加えて家事も、子供の頃から頑張ってきた。自分の顔面に対する評価を、他の部分でカバーしたかった。しかし、現実は甘くない。苦手なことを努力で減らした結果、美男美女の執事のようなポジションを位置づけられた。
特に幼馴染みはわがままで、悪気なく俺をパシリにしていた。パシられる俺に付き合う優しい親友。その存在に救われていた。俺一人で幼馴染みの言いなりでは、あまりにも惨めだったから。
反面、誰もが羨む美しい顔面が、毎日横にある。抱く劣等感は徐々に強くなった。
高校の頃に撮った写真を見ながら、ため息をつく。
俺の顔面は、どんなに願ってもイケメンになれない。叶わぬ願いだ。
「なに見てるの?」
幼馴染みが無責任にも捨て置いた娘が、俺の横にちょこんと座った。美男美女の娘は、二人の良いとこ取りで生まれてきた、絶世の美女である。
「昔の写真。真ん中が一番ダサいでしょ?」
写真の中で仏頂面をする自分を指差し、自虐しながら笑う。この虚しさは、顔面に恵まれた者にわかるはずもない。
「そうかな? わたしは真ん中が一番かっこいいと思う」
「子供はお世辞なんて言わなくていいんだよ」
「お世辞じゃないもん。私とお父さんを捨てて、どこかに行ったお母さんなんて大嫌い。夜は絶対に帰ってこないお父さんも、ちょっと嫌い」
この娘のお父さんもとい親友は、己の顔面が武器になると熟知している。夜の世界で輝いているのだ。適職を選ぶことに異論はないが、娘に寂しい思いをさせるくらいなら、昼の仕事のほうがよかったのではないか?
いくら言っても聞かない親友の代わりに、俺がこの娘の面倒を見ている。親友には頼れる家族がいないから、俺が力になるべきだと思った。
「わたし、知ってる。この写真の真ん中の人は、とっても愛に満ちた人なんだよ。困ってる人は見捨てない、優しい人。それに、なんでもできて、すごくかっこいいんだから!」
そんなこと、初めて言われた。なんでもできるわけではないが、努力の結果を認められるのは嬉しい。単純な俺は、その一言に魅了されてしまう。
褒められることに慣れない俺に、子供の純粋さは眩しすぎる。
「わたし、大きくなったら、あなたと結婚する」
それは叶えてやれない願いだが、この娘をできるだけ幸せに導くことならできるはずだ。
叶わぬ願いに思いを馳せるのは、もう終わりにしよう。この娘の幸せが、俺の新たな願い。
できることなら、親友とずっと一緒にいたい。学校の登下校も、休み時間も、放課後も。
山に囲まれた田舎町でやれることは、ほとんどなかった。だから、休みの日は必ずバス停で待ち合わせた。
大都会へ行ってみたかったのだ。代わり映えのない日常に、色を差したかった。
日に二本しか来ないバスは、二時間前に発車した。それでも走ってきたから、息は切れ切れだ。そんな僕を見て、親友は笑う。
「またバスに乗れなかったな」
誘うのも僕だが、遅刻するのも僕。
親友は大都会へ行く気などない。それでも待ち合わせに来るのは、僕が寝坊することに賭けているから。
バス停から踵を返し、その足で駄菓子屋に向かう。賭けに負けた僕は、親友の好きなアイスを奢らなくてはならない。
プラスチックの容器に二つ入った、大福のような食感のバニラアイス。今日はそれを分け合った。
親友が欲しがるアイスは、分け合えるものばかり。棒アイスなどの一人用を、一度もねだられたことがない。
最後の一口を飲み込んで、親友は僕を見つめる。
「あのさ」
嫌な予感がして、目を反らした。聞きたくないという、意思表示のつもりだった。
「二人で食べるアイスは、今日で最後にしよう」
なんで。
たった三文字が、言えない。
僕の寝坊は、途中から『故意』に変わった。親友と二人で過ごす時間が、大都会へ行くことより大切になってしまったから。
僕の中に育まれた特別な感情が、日に日に大きくなる。恐らく、親友もそれに薄々気づいているはずだ。隠しきれるものじゃなくなってきている。
ドクンドクンと高鳴る胸を押さえた。
この心のざわめきまで知られたら、最後になるのが『二人で食べるアイス』だけではなくなってしまうかもしれない。
お願いだから落ち着いて、僕の心。
ここ数日、夢に必ず現れる女性いる。
風に吹かれる度に、その艶やかな黒髪がなびく。鍔の広いストローハットと白のワンピースが、より黒を映えさせた。
夢の中で彼女と会う場所は、決まって海だ。
見覚えのある景色だけど、詳しい場所がわからない。近場の海から手当たり次第に探した。
会えるはずがないのに、諦めたくなかった。そこまで執着する理由は、夢で言われた一言。
「私を探して。あなたの幸福のために」
今日も僕は海に行く。君を探して、言葉の真意を知るために。
彼が絵を描く姿を、横で見るのが好き。
絵筆は踊るように舞い、自由にステップを踏んでいく。ひとつずつ色がついていく様は、まるで帆布に足跡を残すみたい。
帆布が色づいて鮮やかになる度、筆洗バケツの水にもたくさんの色が広がった。
最初は透明だったけど、今はもう真っ黒だ。
描かれた絵に黒は使われていないのに、不思議。どうしてそうなるか、聞けば答えてくれると思う。でも、私は聞かないことにした。彼が自分の世界を色に乗せるとき、とても楽しそうに笑うから。その透徹した表情は、紛れもなく透明だと思う。