膝のうえで筆を握り、黙り込む。目鼻の先にはまっさらなキャンバスが立っている。
優秀な生徒が賞を狙って描くものだ。
それが次の一筆でごみ箱行きになりそうだった。
「君は、なんというか。そうだね……」
側近のように覗き込む姿勢から、背もたれを回り込んで反対側へ。「そうだね、まるで」
その教師は右手の親指からみっつ数えて、下へ向け、空中で長いあしを動かした。
雪原を歩いているようだ――そう言って。
「よくわかりません」
「わかるだろうさ」
革靴の先をほんの少しだけ浮かし。「次の瞬間、ずぼりと雪に埋もれる感覚」
ゆっくり下ろす。
生徒がひとつふたつ瞬きをした。
絵筆を片時も手離さない。
「一歩先へ杞憂があるのに、目の前の景色はずっと続くと思い込んでる」
見渡すかぎりの真っ平らな白。しろ。シロ。
一面を塗り潰すような白があり、
辺りを覆い隠すような白もあり。
雪景色は日々生まれ変わっている。一刻、或いは数秒後にも。
「忘れているようだけど、君の目に線や面として映るものは、実はすべて点でできてる」
きっと。
遠くを想うあまり雪の中を駆けたとて、足跡の荒さを気にして都度振り返るのだろう。
――筆先に色をつけてから、キャンバスを見つめる今のように。
「そもそも君は、なぜ歩いているの?」
「抜け出したいから」
瞬間、落としかけた筆を生徒はまた取り損ねた。弾けた絵の具が点々と上履きに散る。
【雪原の先へ】
わた雲みたいに軽いかも。
湯気のように温かいかも。
指先で文字を描けるかも。
そんなに退屈にしてるなら、
試してみるのもいいかもね。
ほんとうだったら教えてよ。
あと少ししたら会えるから。
【白い吐息】
かならずロウソクを立ててくれた。それを数えるのが好きだった。
歌い終わるまで、か細く揺れて。途中で消えないか少し不安で。
おめでとう。ありがとう。そして拍手が鳴る間に吹き消すの。
放課後、制服のまま買いに行った。
ポキリと折れそうなのを12本。
「歳、超えちゃったよ。お姉ちゃん」
命を灯火に喩えた人は罪つくりだな。役目を終えたライター片手に膝を抱える。
おめでとうなんて言えないよ。
たぶん今年も、短くなるまで動けないから。
【消えない灯り】
「そんなに見つめていると目を悪くするよ」
車窓から視線を外す。となりの運転手は姿勢こそ正していたが、鳴らすクラクションは長かった。「何が気になるの」
何も、と答えるまえに後部座席から肩を叩かれ。「あれだよな! 今度ライブやるしな!」指がさすのは三枚連なる街頭ビジョン。映し出されるのは派手な衣装の女の子たち。
「なぁどの子がすき? オレはね〜」
「嬢はアイドルとか興味ないだろ」
シートベルトを締めろ。手元のボタンがもう一度押され、大きくハンドルが切られた。
ひかえめな鼻歌が車内に漂っている。
夕方家を出たときの小雨は本降りになり、街中の光が、
流れては滲み、流れては滲み。
ただそれだけなのに追ってしまう。
鼻歌が途切れた。
「なぁ目に良い光ってなんだ?」
点滅。
沈黙。
点灯。青に従い、ゆったりと左へ。
ハイウェイを抜けて橋梁に差しかかる。
各々、答えをさがしている。そんな時間が流れた。
寝転がる衣擦れが後ろから。
「夕日はさ、ダメだよな。なら朝日もダメか?」
理科での授業を思い出す。太陽の光を直視してはいけません。
じゃあ、月の光は?
街の光は? 雨の光は?
「でもみんな、わかってて見に行くんだよな。綺麗だから」
ランドマークのイルミネーションが、
流れては線に、流れては線に。
ただそれだけなのに追ってしまう。
わかっているのに惹かれてしまう。
ハンドルをはじく音が数回。チラリと見れば目が合った。
しばらく見つめられてから、「そうだな」とだけ。運転手は前を向き。
拳を突き上げるような声が後ろから。
「そう、だからオレもライブに行く!」
「チケット外れたんだろ」
拳がパタリと落ちる音。
向こう岸には新しい光が連なっているはずなのに、出口の見えないトンネルのようにいつまでも渡りきれない橋だった。
【きらめく街並み】
今朝も最後のことばを綴る。
蝋を垂らして口封じ。
「先生おはよー」「いってきます!」
「いってらっしゃい」
気をつけて。言ったそばから一人転んだ。ちぎれそうなほど手を引かれて、また走り出す。
――子どもが元気なのは、村がしあわせな証拠。
かつての言の葉が凛と鳴る。
澄んだ音をふかく吸い込み、私もやや駆け足になった。
「ずいぶんと急いできたのね」
「おはようございます、聖女様」
気まずさを払うように、片手で前髪をととのえる。なぜか伝染したようで、互いの視線がすれ違った。
「貴方はいつもそう呼んでくれるけれど、なんだかくすぐったいわ」
「子どもたちは何と?」
「おばあちゃん、が多いかしら」
「彼らに郷土史を説きなおす必要がありそうですね」
「あら」
わたくしは気に入っているのよ、と口元に手を揃えて。笑いかたはずっと変わらない。
「平和っていいわね。ひどく穏やかで。貴方もそう思わない?」
ええ、思います。答えながら手元を探る。
封書はあった。
二度とひらかれないように。
「ありがとう」
恋文をもらう手つきで封蝋をかざし。「いい香り……」
少しして「これも焚べることになるのかしら」と眉が下がった。「そうしてください」と頼み込む。
「きっとわたくし、貴方からの手紙を読むことなく終わるのよ。ほんとう、人生って儚いのだわ」
さめざめと泣き真似、けろりと菓子を摘まみ。「まあ人間誰しも死ぬものよ。そんなに焦らなくったっていいじゃない」
言の葉が、嗚呼と鳴り。
ふかく頭を垂れる。
聖女様には全てお見通しのようだ。
幼な心も、諦念も。
「貴方、昔からちっとも変わらないわ」
蝋の縁がつつかれる。つやりとした爪先は何処かうわの空で。
「墓場まで持っていくのも駄目かしら……」
どうかその手で灰にしてください。穏やかに告げた。
【秘密の手紙】