雪の静寂
幼い頃に見た雪の景色を思い出す。
雪が降る時は、雨が降ってる時とは違って音が無いんだよね。
雪が降る様子をしんしんと表現した人は天才だと思う。
雪か。
私は冬が嫌いだ。幼い頃は……冬が好きだったと思う。
今でも、雪は嫌いではないが寒いのが嫌なんだな。
寒いところに一人でいるとネガティブになりがちだし。
雪とかは言ってしまえばただの自然現象だけど、雪が降るのを「これは水蒸気が結晶になったのが落ちているだけだ」などと思って雪を見ていないし。
地球が回ってるのに「日が昇る」とか言ってるし。
俺が中学生の頃、自然を科学的に見たら感動が失われてしまうのではないか、とか危惧してたことを思い出す。
……今思えば、これは理系科目ができない自分から目をそらすために出した苦肉の結論にしか思えないけども。
人間の認知と、科学的にはこうなってる、というものの折り合いをどうつけるか、っていう話なのかな。
折り合いもなにもない気がするけど。
君が見た夢
夢の話。
なんでも、人に話せれば楽になれるのだろうか。
やれ自慢話だ、自分語りだ、そんなこと話したらバカにされるだのとコミュニケーションを束縛するものが私には多い。
もちろん、私が勝手に思ってるだけのことだが。
もっと楽しく、自由に、やりたいように生きたいと思っているのは事実だが、現状維持になりがち。
「そんなことしなくても楽しく生きれる」「わざわざ苦労してまで人と関わらなくてもいい」「なぜそこまでして頑張るのか」
なにかをやろうとしても、このように思ってしまうのが癖になってしまった。
自分から行動できない。
責任を取りたくないから。
自分の人生を引き受けることができない。
いつも、考えるだけでその次がないんだよな。
いろいろと考えるのもだるくなってくるよな。
現実を直視するのは辛いから。
必要性とか、意義とか意味とか。
そういうのから逃れたい。
夜で、寒いからネガティブになってるだけなんだろう。
いつもは楽観的で笑ってる(ニヤつき顔かもだが)楽しい人間なんだがね。
考えるのをやめたら、成長できない。
ここでも「なんで成長したいのか、する必要があるのか」とか考えてしまうわけで。
そういう視点で見たら、もう何もかも意味がないよ。ニヒルだよ。
成長しない理由がない、という消極的な理由しか出てこない。
納得できる理由なんて出てこないよ。
なぜ、と問うのは抽象化なんだよ。
抽象化には必ず限界がある。
抽象概念の抽象化なんてできないし。
凍える指先
もっと自由に思考を巡らせて……
冷笑的な自分から逃れられない。
凍える。冷える。温まる。固まる。
凍える、というひとつの言葉からどれだけ連想できるか。
前に、頭が良い人とそうでない人が「リンゴ」を見た時になにを考えるか、という画像があった。
頭が良い人は「リンゴ」を見て「禁断の果実」「ニュートン」「果物」「赤」「白雪姫」等々、色々と思い浮かべるが、そうでない人は「リンゴがある!」と思うだけ、といった内容の画像であった。
この画像を提示した人の定義では、知識のある人が頭の良い人、ということになるのだろう。
確かに知識があれば連想する力も高まるし、色んな物事に共通点を見つけることができるようになって世の中を興味深く見れるし、実際考える時もアナロジーが効いて柔軟に物事が考えられる。
どうでもいい話は終わりにして、「凍える」について考えてみよう。
類語、抽象、具体、アナロジー、二項対立を使って考えた結果、
類語としては凍る、寒い、固まる。
抽象化すると、感覚。
具体化すると、??
アナロジーでは悪寒、寒いギャグ、サブイボがたつ、とかがある。
二項対立では、暑い、温まる。
今はこうやって「凍える」という部分のみを抽出して考えているが、実際は「凍える」というのは単体として存在しない。
何が凍えているのか、どのくらい凍えているのか、等々の5W1Hを含めた状況下で「凍える」という状況が現れてくる。
なんだか、これは考えてみれば非常に妙である。
例えば「私は今『書いて』で文章を書いている」とここに書くだけで、「あぁ、この人は『書いて』で文章を書いているんだな」と読者は理解する。
それは真なる意味での理解なのだろうか?
文章に書いてある以外のことにも想像を巡らせなければ真の理解ではない、と私は言いたいのだろうか。
お題が更新されるのでここまでにするが、なかなか興味深い議題が出てきた。
言葉にするなら、「文章の5W1H性を考えることの意味」とかかな。
木漏れ日の跡
木漏れ日 木から漏れた光
跡何かがあった形跡
跡という概念は面白いね。
「~した跡がある」というような文章で使われてる言葉だね。
で、この「~した」の部分は現実世界で形をあらわにしている、あるいは五感を刺激する形で現れるものだね。
だから、「正義の跡がある」 「思考の跡がある」というような、目に見えないものに対しては意味が取りにくいものになるね。(取れるとしたら、実体があることになる)
変なことを言うけど、実際通ってなくても足跡があれば 「通った」と解釈せざるを得ないのが面白いね。
足跡があって、「いや、これはただ足跡があるだけで実際に通ったかは分からない」なんて懐疑する人は狂ってるとしかいいようがない。
ささやかな約束
「ささやかな」の意味は僅かな、少しの、とかそういう意味だよね。
「小さくて取るに足らないさま、規模が小さく目立たないこと、または控えめであること」が辞書的な定義。
「控えめ」とか心情的な面もある単語か。
「ささやかなお礼ですが……」という文も、実際の渡すものの大きさじゃなくて心情的な意味で言ってることが多い言葉かな。
「約束」の意味は「未来のことに対する(他者との)取り決め」かな。
(他者との)と書いたのは、自分に対しての約束が守らなくても困らないことが多いから。
「約束が守られなければならない理由」が養老孟司の文章で説明されてたことを思い出す。
前にも書いた気がするけど、まあすぐに説明できるからどういうことなのか簡潔に説明するよ。
「情報」っていうのは固定的なもので、変わらない。文章とか、言った言葉とかね。
それに対して「人間」っていうのは時間と共に思ってることも変わる。
「明日行くね」と言ったら、次の日に心が変わっても約束という「情報」は変わらないから行かないと筋が通らないってことだね。
理論的にはそうなるけど、実際行きたくなかったら行かないでいいと思うけどもね。