風邪。
風邪を引くと安心する。
普段は心という見えないものと戦っているが、身体症状として現れてくるのは親切設計だよな。
風邪薬は市販であるのに、苦しみから逃れるには精神科に行かなければならないのはなぜなんでしょう。
娯楽が薬なのか。コミュニケーションが薬なのか。
苦しみが視覚化される世界だったら、どうなるんだろう。
……その程度の辛さで悲しむな、とか言われそうだな。逆に生きにくい世の中になりそう。
視覚化されても、経験がなかったら心ない言葉を言う人もいるだろうし。
苦しみだけが人生を絶望に追いやるとも、言えないはず。
そういうSF小説ありそうだな。
似たようなものでは、『アンドロイドは電気羊の夢見るか?』では、喜びを他の人に分ける装置が出てくるからな。目的はよく分からん。
感情というものが資源化されたのだろうか。
『メイドインアビス』のカートリッジみたいに、自分の苦しみを代わりの誰かに背負わせることができる時代も来るのかな。来ないでほしいな。というか、倫理的にアウトな気もするけど。
でも、実際生まれ持っての気質とかあるだろうし、平等ではない。
こんな話がある。
『偶然とは何か その積極的意味』では、「すべての人々に人間として必要な生活条件が保証されるべきであり、そのための費用をより幸運な人々が負担すべきである……(以下略)」
という考えが提唱されている。
「精神疾患を持っている人は、他人よりも苦労し、苦痛をより多く味わう可能性が高い。
故に、その苦しみは、幸福な人々に程よく分配されるべきだ。(動物でもいいのだろうか)」
こう主張を言い換えることができる。
どちらにせよ、あまり考えたくない話だ。
……実際可能であったとしても、実施されるとはとても思えない。
倫理的問題はまず考えられることかな。
「代わりに誰かが苦しむ」という時点で、苦しみの当事者も、その代わりとなる者も結果としては両方苦しむだろう。
技術として可能になっても、いや、可能にさせてはいけない技術なのかな。……。他人の意見が聞いてみたい。
雪は一年を通して景色を最も変化させるものであるといえる。
夏に見える積乱雲は勢いと迫力があり、それはそれで衝撃をもたらすものであるが、何よりも遠く、空の領域での出来事だ。
夏の雲は、宗教画のように、濃淡があり、それこそ何者かが描いたかのような、どこか非現実的なもののように私には見える。
それに対し雪はどうだろうか。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」『雪国』
小説『雪国』の序文である。
どうだろう、辺り一面に広がる雪の景色が容易に想像できるではないか。
雪。四季のある日本に住んでいる者であれば誰もが体験する非日常感、どこか他の世界に舞い込んだかのような空気感を想像できるだろう。
実際、小説『雪国』でも、主人公の島村はとても冷めた性格であり、発言、行動ともに無責任である。
まるで、「俺はこの世界の住人ではない」とでも言ったような……。
そう。まさに雪の与える印象にそっくりだ。
私が『雪国』を読んだ当初の感想としては、主人公の島村があまりに冷めており、当事者意識の欠片もない薄情な人間だと思っていたが、今思えば、それは雪の与える非日常感も少なからず影響していたのかもしれない。
ギリシア神話において、「冬」は豊穣神デメテルの悲しみの結果として生まれた季節だという逸話がある。
冬の間は娘のペルセポネが冥界の世界への行ってしまい、その間、デメテルは悲しみ続けているという。
豊穣神の悲嘆により、草木は枯れ、世界は純白に包まれる。
何が言いたいのだろう。
……ペダンティックに語りたかっただけだな。
今年も雪は降るのだろう。
初雪は下宿先で迎えることになるのだろう。
「雪が降っている」と家族に報告することなく過ごす冬。
……そういえば、人間のアイデンティティというものはごくごくささいな物に支えられているという。
「ただいま」と言えば「おかえり」と返してくれる人がいること。
毎日のご飯を作ってくれる人がいること。
夕飯を共に食べたり、一緒にこたつに入って温まったり……
挙げ始めたらきりがない。
着地点が見えない。ここで終わろう。
もう一つの物語。
この言葉の意味は、「自分のIF」だろうか。
あのとき、あの選択をしていたら……
この手を話をするとき「あのとき、あの選択をしていたから今の自分があり、その選択を後悔しているのだ」
といったことはよくある。
まあ、実際その通りなのだ。
鏡に向かい、「お前は誰だ」と毎日言い続けると狂気に取り憑かれるという噂を聞いたことがある。
なんとなく察しは付く。脳内の抱く自己イメージと現実の自己の乖離がアイデンティティの崩壊を生む、といった所か。
だが、鏡に向かいそのようなことを言わなくとも自分と言う存在は毎日変わり続けているはずである。
「誰だ」と言われたら誰だって名前を答える。
自分という存在はどこまでいっても曖昧なものだ。
他者に観測されない限り自分は存在しないという考えや、世界には私しか意識がなく、他人などは所詮私の意識が形作っているだけだという考えもある。
「誰だ」と問われたら肩書と名前を答えるか。
肩書は変わるが、名前は変わらない。
ややこしい言い方になるが、名前が私という存在を構成する表面の部分だとすると、肩書はその中身と言える。
「誰だ」と鏡に問いかけ続けて狂気に取り憑かれる者は、自己が変化しないものであると信じているのではなかろうか。
そうとしか思えない。自己が変わるものだと信じてるいれば、自分が何者でもないことに気づいているはずだから。
少し話は変わるが、この『書いて』というアプリ上での著者としての私は「私」と一致しているだろうか。
どこの誰が書いたかも分からないものをどこの誰かも知らない人が「いいね」を押している。もしかしたら、お気に入り登録をしている人もいるかもしれない。
誰に向けた文章なのかも分からない。目的すら定かではない。
極限まで薄めた『note』だろうか?それとも他者へ向けられた日記か。
私はお題を見て何か思い付いたら書くが、自己評価でいまいちだったら投稿しない。
日記だったらそのまま残っていたであろう文章は、この電子世界では文字通り無に帰してしまう。
そういう意味では日記ではない。日記ならば良いものを書こうという変なプライドなど湧いては来ないから。
こんな極限まで薄めたsnsでも他者評価のことを考えるとは、自意識過剰の極みだな。
私には書きたいという欲はあるが、題材がなければ書けない。
他者からの批評も浴びたいが、どこの誰かも分からない者の評価を素直に受け容れる程私の心は広くない。
不都合な生き物として生まれ落ちてしまったな。
本の中で「君は」とか「あなたは」などと書いてあると著者に呼び掛けられたようで私は毎回ビクっとしてしまう。
読者としての自分という存在が明確になることに対する反抗心がなぜだかある。
その理由は、蓋し筆者と読者の、これまで保たれていた対等性というものが読者を名指しした時点で消失するからか。
筆者が一方的に語ることしかできないのに「あなたは」とか「読者の方」などと呼称する。
ネット上のレスバで長い間返信が無いと「お前は逃げた」と勝ち誇る。それに似た不快感だろうか。
私が見下されたくないだけなのだと思うが、嫌悪は消えない。
実際筆者は読者に対して呼びかけをする必要はないように思えるので私が悪いと思ってはいないが。
思うがままに文を書いてしまったな。
このように自己の奔流を感じている時に書く愉しさを覚えるから、まあ良いのだが。
友情と聞くと、武者小路実篤の『友情』を思い出す。
確か、男の友人同士で同じ女を愛してしまい、苦悩する話であったと思う。
私は友人が多い方ではないので私自身に絡めた友情に関する話をすることはいささか難しい。
そこで、ここでは友情についての話を進めていきたい。
友情とは、友愛として解釈すると私的には分かりやすい。
愛の定義として私がしっくりきているのは「対象との関係の持続」である。
即ち、友情とはその友人との関係を大切にしていきたいという気持ちなのだ。
私が語れるのはこのくらい。