予感 (なんとなく何かが起こりそうだと感じ取ること、またその感情)
感覚器官として「予感」があると考えてよう……。(もう備わってるかもね。「楽しみだなー」と思う時はいい予感を抱いていると言えるし。)
私たちはどのような時に予感を働かせるだろうか。
よく聞くのは「いい予感がする」「悪い予感がする」といった言葉。
どちらの場合も現状からの推論で未来を感じ取っている、といえる。
それとも、ただ単に悪い、よい予感を感じ取ることもあるのか。
そんなもの……原因がなく結果が現れるようなもので、あり得ないと思うが、あり得ると思い得ることができるんだよな。
現状の全てを考慮に入れて考えることは不可能だし、これは「ラプラスの悪魔」といって既に否定されている論理なのですよ。
現状において「そんなこと起こるはずない」と思っていても、後になれば「あれが原因だったのか」となることはある。
私がこれまで考えたのは「予知」であって「予感」ではないな。
予知は能動的で、予感は受動的。
定義にある「感じ取る」というのは受動的性質にならざるを得ない。
感情というのは常に理性より先に出るものである。
人間が何を思考する場合においても、まずは感覚や感情が先行する。(私はまだ疑っているが、感覚的にそうだと思っている)
「理性は感情の道具に過ぎない」(ニーチェ)
となると、予感を抱いて生きることはとても有意義なことなのやもしれない。
この世のすべての思考、思想が「感情」が始発点ならば、人間の本質というのは「感情」なのだと言えないだろうか。
論理は後で補強すればよいだけ。
そこで、人生において「予感」的に生きるというのは一つの生きる指標になる。
では、私は私の人生にどのような「予感」を抱いているか。
「良い方向に向かっていき、私の望み、願う方向へと進んでいる」という予感が、今の私にはある。
それは現状の私がそこそこやるべきことをやっているから言えることなのか。
そうやもしれない。だが、だとすると予感というのは現状の在り方からの推論に過ぎないということになってしまうではないか。(確かに予感を先に出したが、今後も当てはまるものであるなら論理が感覚を超越したことになる。)
ふむ……。なんだか、面白いことが思いつきそうな「予感」がしていたんだが。(この場合の予感は自分自身への思考力への信頼かもしれない。考えて行くうちに、面白いことが思いつくんじゃないか、という予感。これは間違いなく予感だな。全く論理的じゃない。そんな保証はどこにもないのだから。)
結局、「現状をよく生きていればよい予感を抱きながら生きていける。未来のために、現状今できることを淡々とやっていきましゃう」
といった陳腐な結論になってしまったな。
friends
friendって文字列をみるたびに思い出すのは
自由に(free)終わって(end)いいからfriendだと。(ちょっとスペル違うのはご愛嬌)
誰でも思いつきそうな言葉遊びだけど、「友達ってなに?」と聞かれて「自由に終わっていい関係の人のことかな」と答える人はいないと思う。
閑話休題、「友達」か。
昔、よく「友達」ってなんなのかということについて考えていたね。
まるで、定義が分かれば友達が作れるのではないかといったように。
「友達って、何?」と考える前に、「なぜその問いを考え出したのか」ってなことを考えてれば。
考えてれば、「俺は友達が欲しいんや」って素直に言えたのかね。
今でもなりかた分からないんで、どうすればいいのか分かりませんが。
結局、その時の私は友達が欲しかったんじゃなくて周りと違うことが怖かっただけなんですよ。
周りと違うことを恥ずかしがらなくなってからはもう気にしてない。
けど、周りと違うことを恥ずかしがらなくなるっていうのは恥ずべきことなんだ。
人の目を気にしない、周囲と合わせないっていうのは、社会不適合者の烙印を押されたようなものだからね。
なんとかして周りの人を模倣しながら生きていくのでしょう。
君が紡ぐ歌
「君が紡ぐ」という時の「君」って誰なんだろう。
高校生の時、総称の「you」というのを学んで「you」なのに「あなたたち」と同じような意味というのを聞いて驚いたことがある。
でも、これって日本語でも似たようなものがあって、歌の歌詞でラブソングなんかによく出てくる「君」は歌う人によって相手が違うし、アイドルなんかがライブやテレビで「君」って言う場合は聞いてる全員が対象になる。
好きな人がいない場合はただ記号として「君」とか「you」とか言ってることになるのか。
話を戻して、今回の君は誰なんだろう、と。
私が「君」と言った場合、スマホの前で読んでいる人のことを指すが、今私が「君」という文字を見ているときは他ならぬ私自身のことを指す。
なんだか不思議な感覚に見舞われている。
世界に「君」は一人しかいないのに「君」と聞いて反応する人は全世界にいる。
だからと言って「君」が何人もいるという話にはならない。
「君」という言葉が持つただの呼称的な部分と人物的な部分が混ざってしまっているだけだと思うが。
なんだか面白い試みができそうだな。
小説の文章中に「君」という字が何回も出てきて、主人公が登場人物のことを全部「君」と呼んでいるとする。
登場人物は性格も性別も違うが、同じ「君」という呼称がされているなら、まさかとは思うだろうが同一人物ということにもできる訳だ。
独我論という考えがあるが、今話していることにも共通している所がある。
ざっくりと説明すると、結局は世界には「君」しかいないんだ、という考え方のことを独我論という。
世界には「君」しかいない。
今までの文を読んでいればこの言説のおかしさが分かると思う。
世界には「私」しかいない。
といっても同じこと。「私」を認識している人が世界にはごまんといるわけだし、「私」を「私」と認識してない人は統合失調症かなにかでない限りあり得ない。
「いや、他人は自分自身を『私』と認識するロボットだ」と反論することはできるが、それは反論にはなり得てない。「私」と認識できているなら、それはもはや世界に「私」しかいないというのを自己論破してしまっている。
前までは独我論を「確かにそう言えるな」と考えていたが、今「君」とか「私」とか考えていたらなんだかあり得ない理論のように思えてきたな。
山の中を車で走っている状態なんかはまさに「光と霧の狭間」そのものだ。
車のライトに照らされて、霧のなかで光が乱反射する。
私は小中高のときにたまに登山をしにいったのだが、霧のかかった道を車でよくすすんだ。
舗装されてないガタガタの道をありえないほど近いガードレールと山側の壁に挟まれて進む。
そんなやばい道なのに運転手はハイウェイを颯爽と走り抜けているかのように山道を進む。
道はくねくねで、三半規管が刺激されて気分が悪くなる。
景色も最悪。
それはそうだろう、山の中に道を切り開いているんだから、木しか見えない。
たまにトンネルをくぐり、抜けたら森の中を進む。
ほんの僅かな間だけ空や川、向こう側の山が見えることがあり、下を覗くととんでもない高さに我々がいるということを思い知らされる。
登山の入り口の駐車場につき、やっと解放されたと思って車から降りると周りの空気は冷え冷えで、なんだか解放された気分がしない。
どこを登山しにいってもこの一連の流れがあるよね。
砂時計の音
砂時計という名がついてるけど、ただの時間の計測機だよな。
だが、単なる計測器にとどまらない魅力を感じる。
砂時計を逆さにするだけで時間を測れる。
それも結構な精度で。
もちろんスマホのタイマーの方が精度も高いしタイマーとしての機能もスマホの方が高い。
けれども、スマホではただ時間を測っているだけで、砂時計の方では「時間が過ぎている」というのが視覚的にも聴覚的にも分かる。
そんな気がした。
少し話は変わるが、アプリのアイコンで時計はアナログ時計、電話は受話器のアイコンが使われている。
今後すべてがデジタル化していくと、アナログ時計や受話器は消滅して、単なる記号になっていくのだと思う。
だいぶ前に読んだ小説の中に「ポケベル」という単語が出てきて「昔はこれでコミュニケーションをとっていたのか」と驚いたことがあるが、「昔はこれで今が何時か見ていたのか、チクタクとはこんな音なのか」と驚く人達も出てくると考えると、時代の変化は早いものだなと切に思う。