来年の手帳に、自分の名前と、家族の誕生日と友達の誕生日と、夫との記念日と、大切にしている日と、印を付けた。
昨夜はお腹が激痛で、腸が破けるかと思った。貧血なのか気を失いかけたのか、トイレでしゃがみ込んで、『ありがたいな』と思った。何の痛みも苦しみも知らずにいたら、わたしはただただ、【幸せだ】と思うだけか、幸せだと思う事さえしなかっただろう。『ありがたい』などとは思わなかっただろう。
精神的に苦しんだ日々がもったいなくて、『もっと、こんなふうに考えていたら』、とか思った事もあるけれど、
あの日々がなかったら、到底、苦しむご家族の話しを聴きに行ったりする事など出来なかっただろうと思う。人間は、いろんな事で訳が分からなくなってしまう。
この旅の、理由も分からないままなのか、理由が分かっているのか、ではずいぶん違う。
どのように死んだとて、【生きている】の延長線上なんだから何も変わらない。
還る場所はあるけれど、そこが目的地じゃない。
旅は終わらない、ずっと続く。
生きている時と同じように、ずっと。
しかも、それを選んだのは、自分自身である、という大変厳しいものだ。
わたしが離乳食を食べさせてもらっていた頃の、クマの子ウーフのお匙は、今でも現役で使っている。息子のお弁当にも持たせたし、夫も使っている。
このお匙は、永遠に残りそうな気がする。
いつか土に埋もれるようなことになって、発掘されて、大昔の庶民の生活を彷彿とさせる一品になるのではないだろか。。
あと、母と保育園の帰りに銭湯に通っていて、その当時使っていたプラスチック洗面器がまだある。
昭和ならではの森の動物達の絵柄で、お湯を入れると、底の動物たちがゆらゆら揺れて、母が身体を洗ってくれている間に物語を考えたりしたものだ。
この洗面器も永遠に残りそうな気がする。
それは、【土に還る事が出来ない事】で、大変かなしいことだと思う。
涙は血液から、というのは知ってたけれど、涙の98%が水分だというのは、知らなかった。
涙は心の洗濯です。泣く前と泣いた後は、しっかり水分補給しましょう。
涙の理由は何でもいいです。
楽しいから、悔しいから、寂しいから、痛いから、嬉しいから、、どれでもいいです。
だけど、涙の言い訳はしないでください。
コーヒーが冷めないうちに、、
コーヒーは夫が飲みたい時に自分で淹れるから、意識したことがないです。
夫が休みの日は、お風呂の掃除をしてくれるので、掃除が終わって足を拭いてリビングに戻るタイミングで、お茶を出します。
「ありがと」
頼んだ事でも、率先してやってくれた事でも、ありがとうは必ず言います、お互いに。
それは、感謝というより確認みたいなものです。【やってくれたの、分かってるよ、】とか、そんな感じの。
そして、朝一番に出すお茶には梅干しをひとつ入れます。それは、お義母さんの習慣であるらしく、【朝茶には梅干しを】、というのが夫のリクエストです。
意識したことはないけど、夫婦の絶妙なタイミングはもう板についているんだと、今朝思いました。
盲人用の腕時計を見たことはありますかね?
母は時計のフタをパカっと開けて指でちょっと触って時間を確認してた。時計に触れるのは、ほんの一瞬の事です。針が動いちゃうから。
今も盲人用腕時計は、触るタイプのものかな。母はゼンマイを巻くタイプのものを使ってた。電池が切れると、交換するのにかなりの日数がかかったから。それは困る。時間が分からなくなったら、動くことができないから。
わたしの見ている世界とは、まったく違う感覚で目の見えない母は生きていく。
夜中は特に腕時計のフタを閉める時、パチって音が部屋に響いて、『……時間を見てたんだな』、と子供の頃は思った。
母はあまり眠れなかったのかもしれない。切に願ってた事を胸のずっと奥深くに秘めて、一度も、吐息にさえも出さないで。