齢も30を過ぎると、たいていのことには落ち着いて対処できるようになる。
ほんの少し甘いものを放置しただけで沸いてしまったアリの大軍。夜、そろそろ寝ようかしらと電灯を落として気づく、小さな侵入者の羽音。寝静まってから始まる天井裏の運動会。
なぜ例に挙げるものが虫や害獣ばかりなのかというと、レナが今、東南アジアのとある発展途上国にいるからだ。
土煙の舞う、この南国に降り立ってもう、10年になる。
対処できるようになったのは虫や獣だけではない。
道を歩いてるだけで突き刺さる視線、無作法に群がりついてくる子どもたち、誰かと知り合うたびに「結婚はしてるのか」と聞かれるわずらわしさ、初対面で平気で言及される容姿のうんぬん—。
日本にいた時はとても窮屈に感じていた。早く脱出したいとさえ思っていたはずだ。もちろん今でも帰国した時には同じ窮屈さを感じる。日本について誇れるのは高度な衛生観念くらいだ。
だからと言って、海外もたいして変わりはない。窮屈に感じる箇所が移動しただけだ。結局、人間のいるところには人間の悪い所が渦巻いている。
それでも、たいていのことは対処できる。なんてったって私は、10年も異国の地で一人で生きてきたのだから。
いま目の前にいる、懐かしい癖っ毛の、それでいてあの頃とはまったく背丈の違う、この男を除いては。
【ずっとこのまま】
ずっとこのままでいたい、と思う時と、このままではいけない、と思う時、何が違うんだろう。
本当はもっと複雑な状況、要素が関係しているのに、「このままでいる」=「現状維持」とただ認識してしまうのは、日常生活において常にすぐそばにある落とし穴のような気がする。
実際には、「幸せを感じられるこの状況がずっと続けばいいのに」とか、「何も成長していない(能力やスキルの話なのか、人格面の話なのかはともかく)今のままではいけない」などと感じているのだ。
つまり、「この」とか「その」という言葉を、受け取り手の読解力を過信して多用したせいで、概念と言葉の定義に齟齬が生じるのだ。
かと言って、誤解が起きぬよう逐一説明していては、冗長な文章になる。日本語は、主語という重要なパーツさえ省略でき、削りに削った短い言葉で豊かな意味を伝えることができる言語なのだ。それも、受け取り手のスキルに大きく掛かっているのたが。
ここまで考えて、雅臣はふと、自分の視界に映る妻の姿を認めた。
「お茶、入ったわよ」
雅臣がぼんやりしているのはいつもの事なので、特に傷ついた様子もなく、庭先のテーブルに茶器セットを並べ始めた。
「陽子の話、ちゃんと聞いた?」
「ああ、聞いたよ。」
陽子というのは、中学生の娘のことだ。
「あまり意味が分からなかっだが」
陽子が最近、インターネット上でどこの馬の骨かも分からない者とこそこそとやりとりをしている事が判明し、問いただした所だ。別に咎めている訳ではない。ただ、明らかに陽子の方には特別な感情があるようなのに、「どうしたいのか」と聞いたら「このままでいい」の一点張りだ。意中の相手と会うことも付き合うこともなく、ただインターネットという虚構の上で話をしているだけでいいらしい。その人の事で思い悩んで食欲がなくなっているのに、前に進まなくても後に引かなくてもいいと言う。その気持ちが雅臣には全く理解できなかったし、精神衛生上良くないとも思った。
「このままでいい」
雅臣はつぶやいた。
「分かるか?」と、妻に短く問いかける。
「そうねぇ…」
妻は目を細めた。春先の柔らかな日差しが降りており、妻の頬にはまつ毛の影が落ちていた。
「分かるわね」
静かに、しかしはっきりとそう言うと、ティーカップを傾けた。
しばらく、沈黙が続いた。妻の“これ”は、「自分で考えなさい」という意味だと分かっているので、雅臣も何も言わなかった。
妻から目を逸らし、庭に目を向ける。妻は自分から積極的に花を植えるタイプではないが、やれご近所さんから頂いただのママ友さんから頂いただのと、いつのまにか色とりどりの花々でいっぱいになっている。
綺麗に咲いたものだ。雅臣は自身が地味な男なものだから、妻のように華やかな印象の花が好きだ。八重咲きのバラやダリア、椿などだ。庭にはそのような花もあるが、スミレやパンジーのような、もっとさりげない花もある。
「パンジーじゃなくて、ヴィオラよ」
「それはガーベラじゃないわ。デイジーっていうの。だいぶ小さいでしょう?」
そのような控えめな花の名前は何度聞いても覚えられず、妻にいつも訂正される。
春は庭が美しくなるので、ずっと春のままでいてくれたらいいのに、と思う。
「…?」
雅臣は眉をしかめながら、急に手を宙に向けて開いたり閉じたりした。
「どうしたの?」
妻が微笑みながら聞いてくる。
「いや、何か分かりかけたような気がしたんだけど…」
私が綺麗だと思わない花を、綺麗だと思う人がいる。
ずっとこのまま…
雅臣はひたすら首を捻り続けた。
【冬のはじまり】
寒さの匂いがする。
そう言っても、誰も信じてくれない。シズクは目を閉じて鼻をひくつかせた。ついこの間まで、後輩のレイくんに誘われてファッションショーに参加し、忙しくしていたのが嘘みたいだ。初めて、誰かの依頼でイラストを描き、キャッチコピーを書いた。シズクがデザインしたポスターが何枚も校内の至る所に貼られた。
一つ年下の、男の子だか女の子だか分からない後輩。ただそう思っていたのに、彼の内側にあんな情熱が秘められていたとは驚きだった。
あの、妥協を許さない目。言葉はキツくなかったが、いつでもピリリとした緊張感が漂っていた。
思わず背筋をしゃんと伸ばし、指先を空中に漂わせた。
空気が冷たい。あの張り詰めた空気は、冬の空気に似ている。
「何してるの?」
穏やかな低い声に振り向くと、そこにシュンが立っていた。ベンチに座っているシズクを覆い隠すような影ができている。
「あ、特に何も。寒くなってきたな、と思って」
ほんの少し、シズクの声がうわずった。
シュンが来た途端、気温が1℃くらい上がったんじゃないだろうか。
(さすがにそんなわけないか)
シズクは立ち上がってシュンに微笑みかけた。女子生徒の中では長身な方のシズクでも、シュンと並ぶと小柄に見える。
「じゃ、行こっか」
シュンがさっと右手を差し出した。シズクも手を出してそれをにぎる。
じんわりと、胸に暖かいものが広がる。
冬が、はじまる。
【終わらせないで】
終わりたくない。
心の底から、そう思った。生まれて初めて、自分のデザインした衣装を、華やかな舞台の上で、こんなにたくさんの人に見てもらえたんだ。
単なる高校の文化祭。それも、普通校の。
もちろん、「〜にしては上出来だ」などと言われるようなクオリティでは満足してない。ちゃんと、どこに出しても恥ずかしくないものたちばかりだ。
(どこに出しても恥ずかしくない、か)
レイは一人で笑みを漏らした。まるで自分の子どものようだ。
初めて、大勢の人の前で指揮をとった。そして、その大勢の人たちに感謝した。
「お、レイ。ショー、良かったぞ」
振り向くとそこには、父親がいた。何か違和感があると思ったら、デカいカメラも、臭いタバコも、何も手に持っていない。
「……。」
父親は無言でレイの前に立っていた。手持ち無沙汰なのか、右手がタバコを持つ形になったまま自分の脚を叩いてリズムを取っている。ーそれも、娘が今日刻んだリズムだ。
「これで、終わるなよ。いや、終わらせないでくれよ。」
そう言い残して、父親は去っていった。
(そうだ。終わりじゃない)
レイは秋晴れの空を見上げた。
(終わりにするものか)
【愛情】
言ってもらえない言葉を
頭の中で繰り返す
好きだよ 好きだよ
声を知っている
貴方の声を
聞いたことのない言葉を
ただひたすらに繰り返す
虚しくて 枯れかけたところに
じわりじわりと
蝕まれていく
愛はわたしを弱くする
愛はわたしを
強くする