身構えさせる風が、
今年の冬には少ない。
冷えを誇張しない冷気に
動物は身を竦めずにいられるが、
かといって
温もりは約束されていない。
澄んだ空気は肺を濯ぎ、
それでも鋭さにはならず、
触れても骨までは冷え込まない。
記憶の底に残っていた
季節の手触り。
近年の過剰な冷えに
上書きされていただけの、
本来の冬の像だろうか。
緊張を強いられないまま、
世界と同じ温度で立てる。
題 冬晴れ
幸せとは、定義しようとすると逃げてしまうものではないだろうか。
例えば、無理矢理に定義するのなら、
「小さな光を生み出せる環境と、
それを拾ってしまう感性が、
偶然、重なった瞬間」
などと言葉に出来る。
けれど、そうした途端に、言葉は堅くなり、
本来の質感は損なわれてしまう。
では例えば、
「凍える日に分け合う肉まんのようなものだ」
と表してみると、
今度は、出来事を平坦にしてしまう。
さらに、
「長く続くものではない」
「努力の報酬ではない」
「幻想だ」
などと否定で囲い込んでみても、
それらはどれも、どこか現実を歪めてしまう。
どれも間違いとは言えない。けれど、確かでもない。
きっと、幸せを説明しようとすること自体が、
そもそも野暮なのだ。
題 幸せとは
光が、夜を纏った世界に触れ始めている。
枝にかかった まっさらな雪が、
その光を抱きとめ、
雫を育てる。
重さを覚えた雫は、
淡く透け、
反射する粒となって
はらはらとほどける。
雪は、もう空から来ていない。
それでも、
昇る光に応えて、
静かに木々から降りている。
濡れた雪が、
生まれたばかりの光を返す。
まもなく、世界は光の正体に触れる。
題 日の出
ひとが生きるうえで大切なことは、
たった二つだけだ。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を、
理解しようとすること。
それは、特別な目標ではなく、
ずっと向き合ってきた基本のことだ。
「ありがとう」を辿ることは、
自分の快適さや安全、選択肢が、
誰のどんな摩耗の上に成立しているのかを直視すること。
「ごめんなさい」を辿ることは、
生き残るために、
自分がどこで手を汚し、何を黙認しているのかを直視すること。
ひとは、単独完結を捨てた代わりに脳を肥大させた生き物だ。
分業し、継承し、役割を預け合うことでしか、生を成立させられない。
巣を作り、狩り、耕し、育て、実らせ、収穫し、調理し、
編み、縫い、湯を炊く。
これらすべてを、ひとりで引き受け、生きられるか。
「ありがとう」と「ごめんなさい」は、
後から来る倫理じゃない。
群れに接続された瞬間に、同時発生する知覚だ。
ありがとうも、ごめんなさいも理解しようとしないまま生きることは、群れの恩恵を消費だけしていくことだ。
今年も私はただ、
それを見失わないように生きていくことを、抱負とする。
題 今年の抱負
あらたまの年の端に立ちて、
暁の気は冴えわたり、
胸のうちの塵もまた、しばし鎮まりぬ。
昨日までの憂ひ、思はずも背に落ち、
まだ見ぬ日々の影、淡く前にさし出づるを覚ゆ。
心は白き紙のごとく、何を書かむとも定まらねど、
ただ、書きうる余地のあることのみ、確かにあり。
人は変はらず、人の世もまた急には改まらねど、
この一日を境として、息の運びのみ新しく、
わが身を少しばかり、前へと差し出す心地す。
かくて元日の朝は、
大きなる誓ひも立てず、声高なる願ひも持たず、
ただ静かに、今日を始めむとするなり。
世のさまは変はらねど、
わが身の立ちどころ、知らぬ間に少しばかり改まりぬ。
題 新年