いつも、心の中は迷路のよう。すっきりしたい。小さな子どものように、思うままに行動してみたい。隣のあの人は、いつも自由気ままだ。不機嫌な時も、機嫌が良い時もすぐわかる。嫌な感じはしない。忖度なんか何にもない。
自分を大切にってよく言われるけれど、人の顔色を基準に生きてきていたから、どうしていいかわからない。自分が我慢すれば、ここはうまくいくのかもとそんなことばかりやってきた。
それで、幸せかといえば、そうではない。隣のあの人は、嫌われたりしていない。そんな人だと受け入れられている。そうだ。誰かの機嫌をとったって、自分は満たされていない。
いったん、自由気ままにやってみようか。でも、キャラが違う? ただのわがままと、どう違うのだろう。心は複雑に迷う。ただ分かっているのは、このままでは自分を生きていないということだ。自分のまんまでいてみる? 空気が読めない? それでも迷路から脱出するために、試しにやってみよう。
「心の迷路」
陶器を扱う店で、ソーサーに載っているティーカップがずらりと並んでいた。今までソーサー付きのティーカップなんて、買ったことがあっただろうか。
家にある普段使っているのは、実用的なデザインのものだ。厚みがあり割れにくい。ほかに貰いもののティーカップがある。これは、ソーサー付きで高級感はあるけれど、すごく好みかといえばそうでもない。
店の棚に並ぶティーカップは、一つ一つデザインが違って個性的だ。花柄や金の縁取りがついているもの。取手に装飾があったり優雅な雰囲気だ。その中の一つが気になって手に取った。
白い乳白色が美しく、青い花が描かれている。取手やカップの形はシンプルなのだけど、質感は薄く繊細だ。思わず見とれていると「それ、素敵ですよね」と店員さんが話しかけてきた。「今なら少しお得になっています」。見ると赤札がついていた。これはと思った。
レジに持っていくと、「お客様の雰囲気にとても合っています。たくさん使ってくださいね」。たくさん、か。気に入ったものを大切にするあまり使わなかったりするけれど、これはたくさん使おう。何より自分のために気にいったものを買ったということが、うれしかった。
「ティーカップ」
あんなに一緒にいられるよう願っていたのに、この空虚な感じはなんだろう。隣にいるのに、ずっと遠くにいるような気がするのは何故だろう。
会話もどこか虚しく、言葉が行き交う。さりげない仕草も優しげで、なんの問題もなさそうなのに。表向きは穏やかそうに見えるのだろうか。本当の心はいったいどこを向いているのだろう。
一人でいるのは寂しいと思うこともあった。でも、二人でいるのに感じる寂しさは、ずんと心に響く。
「寂しくて」
あんまり近づかれると、さっと避けたくなる境界線がある。その線の手前から恐る恐る人と接しているのだけれど、時々、ぽんと飛び越えてくる人がいる。うわっと思うけれど、よくよくその人のことを知ると、目が離せなくなったりする。
でも、さらに知っていくと、その人こそ踏み込めない線がずっと手前にあった。核心のところには容易に近づけない。だから、勇気を出して、自分の線をえいっと飛び越えようとしてみる。でもぱっと出て、すぐ戻ってしまう。
そんな臆病なやり取りを繰り返しては、ずっと平行線をたどっている。自分は線を張ったまま、相手には、またぽんと越えてきてくれないかなんて思ってしまう。本当に面倒くさい。
「心の境界線」
夏の終わりごろ、ベランダに一匹セミが転がっていた。あっと思っていると、どこからともなく鳥が飛んできた。鳥が飛び立った後、透明な羽根が一枚残されていた。
コンクリートの床の上で、風がかすかに羽根を揺らす。夏の終わりのセミは、どこかはかなげだ。どうして羽根の色が透明なのだろう。季節の移り変わりを知らせるかのような鳴き声も切なく聞こえる。セミの地上での短い命を思った。
そのままぼんやり眺めていたら、シュッとまた鳥が現れた。あっという間にその羽根をくわえていってしまった。
「透明な羽根」