歴史ある宿に泊まった。日本家屋の古い造りで、長い廊下に囲まれていた。木の階段を上がると、ミシミシ音がする。
お手洗いも洗面も部屋の外だ。夜は、薄暗くて、お手洗いに行くのが少し怖かった。廊下を通った離れにある。手前に小さな灯りがついた中庭も見えた。こんもりと、植木があるはずなのだが、灯りの奥は暗くて見えない。
早くすまそうと、灯りのスイッチを押す。扉を開けると、小さな手洗い場があった。奥に扉がもう一つある。灯りは、ほの暗くて、とにかく寒い。急いで出てきて、洗い場で手を洗う。
水は、見るからに冷たそうで、おそるおそる手をつけた。ふと顔をあげると、鏡があった。
妙に青い顔をした自分の顔が映る。ひゃっと声が出そうになった。急いで手を拭いて、出口の扉を引く。またちらっと鏡が目に入った。鈍く光って、まるで凍てついているかのようだった。
「凍てつく鏡」
珍しい雪の夜。つい先ほどまで、しんしんと降っていた雪は止んで、静けさに包まれている。道は、街頭の灯りが雪に反射して、いつもより明るく見える。人がたくさん踏み締めた後を、そろりそろりと歩く。
細い路地に入る。あんまり人が通らない道は、より白い。街路樹も、こんもり雪を載せている。誰も歩いてないふかふかの雪に、てんてんと足跡が残る。時々、ふさっと雪が落ちてくる。電線からだろうか。肩に落ちた雪を払いながら、立ち止まる。
銀色に輝く道。小さな足跡を見つけた。猫? お散歩の犬? しんと静まり返るなか、人も生き物もひたすら足跡をつけて歩く。
「雪明かりの夜」
藁にもすがる思いで、祈ることがある。特別な信仰がなくても、何か大きな存在がいて、聞いてくれるのではないかと思う。
祈るというのは、自然に身についているものなのだろうか。そうすると、少し心が軽くなる気がするのだ。決して一人ではないのだという気分にもなる。
うまくいくようになんて、誰にともなく祈っている。自分のことばかりと思うこともある。なかなか自分を平穏に保つのは難しい。他人のことを気遣える余裕のある人は、きっと自分を整えられているのだろうと思う。
今日も気付けば、心の中で小さな祈りを捧げている。
「祈りを捧げて」
学生のころ、寒い日には温かいペットボトルのミルクティをよく飲んだ。仲間うちでも気に入ったものがあって、いつもそれを選んでいた。他のものより、紅茶の風味がよく、まろやかな味が良かった。誰かが、そのオレンジ色のキャップのボトルを手にしていたら、飲みたくなった。
凍える手で、自販機からボトルを取ると、それだけで少し癒された。ほんの少し苦みがある甘いミルクティが喉を通っていく。お腹の中からふぅーっと温かくなった。
君と散歩する時も、一緒によく飲んだ。その甘さが、寒さや緊張なんかもほぐしてくれた。
自販機で見かけたので、久しぶりに買ってみた。こんなに甘かっただろうか。何口か飲むとあの頃のことが蘇ってきた。変わらないぬくもりだった。
「遠い日のぬくもり」
仕事を終えて外に出た。人が多い気がする。ケーキを売る人の熱を帯びた声が聞こえてきた。ああ、今日はクリスマスイブだった。
足早に人々の間を潜り抜ける。どこもいっぱいだろうなあ。食事をするのに、いつもの喫茶店に行ってみた。店の扉を開けると、テーブルの一つ一つにキャンドルが灯っていた。
あっ。思わず足がすくむ。「いらっしゃいませ」。いつもの窓際の席に座った。手元で注文を終えると、キャンドルがゆらゆら揺れるのを見ていた。本物の炎を見るのは、久しぶりのような気がする。不規則に、ちらちら揺れるのが何とも心地よかった。
一人の客が多く、キャンドル以外はいつもの雰囲気だ。「お待たせしました」。サンタの姿をした人が笑顔で立っていた。よく見ると店主だ。普段は、ちょっとクールな感じだから、似合っているのかいないのかよく分からない。笑いが込み上げそうになった。
料理の皿にも、さりげなくサンタのイラストが描かれたピックが刺してある。キャンドルの灯りに照らされるサンタの笑顔を見ながら、ふわっと心があたたかくなった。
「揺れるキャンドル」