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12/3/2025, 6:08:15 AM

 たまたま一緒になった時に、おもむろにカバンの中から取り出した小さな箱を渡された。「ん、何?」。「この間の旅行のおみやげ」。箱を眺めていると「それ、向こうの限定なんだよ」。だから、大切に使えといわんばかりの雰囲気で言ってくる。それでも、君からプレゼントをもらうことがうれしくて、笑顔でお礼を言った。

 家に帰って箱を開けてみると、日本ではあまり見かけないような明るい色の口紅だった。何だか良い香りもしてくる。異国の雰囲気だなあと思いながら、リップクリームで調節しながらつけてみた。悪くないかもしれない。普段は選ばない色だから違和感はある。まあ、もし使えなくてもこれは大切に持っていたいと思った。

 次に会った時「この間の使ってみたよ」。すると驚いた顔をして「え、使ったの?」。もしかして、他の人にあげようとしていたのかななんて、疑念が浮かんできた。「よく分かんなくて、すすめられるままに買ったからさ」。そういう君の口元がほころんでいた。それを見ると、うれしくなってきた。「今度つけてこようか?」。「いいよ、別に」とぶっきらぼうな顔をするのも君らしかった。


「贈り物の中身」

12/2/2025, 7:17:01 AM

 家まで帰る電車とは、反対方向の電車に乗った。ひたすら終点まで行くと、海にたどり着いた。遠いと思っていた海は意外と近くにあった。

 夜の海は、冷たい風が容赦なく吹き付ける。凍てつくような寒さだ。もっと美しいものを想像していたけれど、海は暗く沈んでいた。よく見ると浜辺の灯りが反射して、手前のところの波がちらちら光っていた。遠くに島の灯りが見えている。

 今日は家に帰りたくなかった。そうかといって、ずっと遠くに行ってしまう勇気もない。ちょっとした現実逃避だった。時々風に乗って、潮の香りがふわっとする。この匂いと波の音だけでも非日常だった。

 空を見上げると星がきらめいている。こんな寒い日は、空気が澄んで一層きれいだ。こんなにはっきり見えるものなのか。空と海がつながる闇を、ずっと飽きずにながめていた。

「凍てつく星空」

12/1/2025, 9:38:39 AM

 それまでも、身につけるものや、普段よく使うものは、それなりに気に入ったものを選んでいた。でも、君と出会ってから、もっとちゃんとモノを選ぼうという気になっていた。

 君は、いつも同じバッグをもっていて、それがトレードマークのようになっていた。「いつもそのバッグだね」と聞くと、こだわって選んだものであることがわかった。ほかにも、君の持ち物の一つ一つが、すごく高価というわけではなくても、とてもよく吟味されたものなのが伝わってきた。持ち主の人柄の一部を物語っていて、そんなモノと付き合い方がいいと思った。

 そんな君に影響されて、私も少し持ち物にこだわってみることにした。気に入った一品を選ぶために、お店を何軒かはしごしてみる。遠くまでいったり、取り寄せまではしないのだけれど、その中でこれ!というものが見つかったら、それを大事に使ってみている。

 たとえば、いつも使うペンだって、見た目や書き心地、握った感じが今一番しっくりくるものを選んでみた。そうすると、より愛着がわいてくる。そうやって選んだモノとの付き合いには、物語が紡がれていく気がする。


「君と紡ぐ物語」

11/30/2025, 7:49:52 AM

 どんな調子か、その部屋は妙に音の響きが良かった。そのことに気づいたのは、音楽を聴いていたときだ。何だか音が心地よく響く気がするのだ。

 他の部屋で聴くと、特にいいとは思わない。その部屋だけが不思議と音が違って聞こえる。何かに反響するのか、どうなっているのかまったく分からないのだけど、よい音に聞こえる。音が研ぎ澄まされている気がするのだ。

 大きな音では良さがでない。程よいボリュームにすると、いい感じになる。そんなに音楽が好きというわけではないのだけれど、この部屋ではよく音楽を聴いた。音が多重に重なり合うオーケストラ演奏なんかは特によかった。これは、私だけの秘密だった。ほかの人に言っても、?という顔をされるだけだったからだ。

 それが、あるときから普通に聞こえるようになってしまった。他の部屋で聞くのと大して変わらない。どうしてそうなったのかも、やはり分からない。あの響きが失われてしまったことに、密かにがっかりしているのだ。

「失われた響き」

11/29/2025, 8:09:22 AM

 きんと冷えた朝。道の草にうっすらと霜が降りている。透明な小さな小さな氷の粒たちが、朝の光に輝いて、いつもの道が違ってみえる。

 土の部分には、霜柱ができていた。土の合間に薄い氷の柱がちらちらと見えている。ザクっと氷を踏む感触が面白くて、土の部分を探す。それにしても、繊細で少し手応えのあるものを踏み締めるのは、なんて心地よいのだろう。足の裏で薄いものが、パラパラとほぐれていく。

 すぐ壊れるものを踏むなんて、普段ならできないものをしているという感覚がいいのだろうか。ずっと飽きもせず、ザクザク踏み締めて歩いた。

「霜降る朝」

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