子どものころ、母のおつかいで、近所に住むおばさんのところへよく届け物をした。玄関のベルを鳴らすと「はーい」と明るい声がして、おばさんが出てきた。届けものを渡すと「あ、ちょっと待ってて」と奥に行ってしまった。
玄関にあるネコの置物や、年季の入った花瓶なんかを眺めていると、おばさんが駄菓子屋にあるようなプラスチックの大きな入れ物を持ってきた。中には、お煎餅が入っていた。砂糖がまぶしてあったり、海苔がついていたり、その入れ物に入っていると、より美味しそうに見えた。
おばさんは、ふたを開けると「さあ、好きなものを選んで」と言う。砂糖がたっぷりついたのを選ぶと、小さな紙袋に、ほかの海苔やお醤油のお煎餅もいくつかいれてくれた。
それから、何度かおつかいに行くたびに、あのプラスチックの入れ物が出てきた。色とりどりの飴や、クッキーの時もあった。おばさんの「待ってて」は、とても楽しみな時間だった。
「待ってて」
電車に乗っていると、前に座っている人がじーっとこちらを見ている。気のせいかと思って、しばらくしてまた顔を上げると、やっぱり見ている。なんだか居心地が悪い。
視線の先をよく見ると、上のほうにある。帽子? 今日はベレー帽のようなのをかぶっていた。そういえば、電車に乗った時、何か小さな黒いものが、ふうーっと一緒に乗ってきた。
あ、目が合った。その人は、自分の頭を指差してみせた。何かついてる? 帽子をそっととってみると、黒いてんとう虫みたいなのが、そこでじっとしていた。どうしよう。帽子を少し動かすと、ふいに飛んでどこかへ行ってしまった。
前の人とまた目が合う。何となく笑い合って、軽く会釈を交わした。
「伝えたい」
引っ越しが好きだった。最初は、学生の時から一人暮らししていたところが取り壊すことになって、仕方なくだった。
いさ、引っ越してみると、今まで住んでいた場所の近くでも、気分が違う。何より気持ちがすっとリセットされた気がした。
それから、何度か引っ越した。「面倒じゃない?」と色々な人に言われたけれど、以外と苦にならなかった。
今は、大家さんが一階に住む二階を借りている。部屋の窓の下に庭があり、季節ごとに木のようすや、花々が見えた。部屋は、体を休めるだけでいいと思っていたのに、思いのほか癒される。ぼーっと窓からの景色を見るのが好きになった。
引っ越ししたい欲がピタリと止まった。しばらくは、この場所で過ごしたいと思っている。
「この場所で」
誰もがみんな得意なことがある。自分が苦手だと思うことが、何でもなくできる人もいる。逆に自分が何でもなくできることを、すごいねと言ってくれる人もいる。
誰がいいとかそういうことではなく、皆それぞれがすごいのだ。色んな人が集まれば、でこぼこのピースがピタッと合うように、補い合うことができる。
「誰もがみんな」
スーパーの花売り場を通ると、何となく気分が華やぐ。色々な季節の花が種類ごとに小さくまとめられて売られている。うっすらと花の香りが漂う。その中から一種類、選んで買うこともある。
時々花束も売っている。色々な種類の花が一つにまとめてあると、一層華やかだ。その日は、小さめの花束がいくつか作ってあった。チューリップを中心に小花があしらわれている。春らしくて思わず目を奪われた。
ふと、買おうかと思った。誕生日でも記念日でもないけれど、自分に花束を贈ろう。その小さな花束をそっと取り出した。いつもの買い物かごが、一気に華やかになった。
「花束」