改札を抜けて駅前のロータリーへと出る。途端、夕暮れ時の開けた空間に、冷たく乾いた風が吹き抜けた。天気予報を信じてコートを引っ張り出してきたのは正解だった。襟で風を遮るようにしながら、歩道橋の階段を上がっていく。
今日も、いつものように職場を出て、定時で家路を辿っている。
特に嫌なことがあったわけじゃない。上司に怒鳴られたわけでも、同僚と揉めたわけでもない。ただ、毎日が無音のリピートのように続いている。
新規の営業もなく、既存客への顔出しがルーティンのように回る。毎日似たような世間話をして、同じような伝票を作成しては、コピー機のように吐き出すだけ。
歩道橋の真ん中まで来たところで、思わず口から出た深いため息が、秋の風に乗ってロータリーに広がっていく。まるで空気の中に自分の存在が薄まっていくように。
——これでいいんだろうか。
平穏な社会生活ができているのに、そんな疑問が頭をよぎる。新卒でいまの会社に入社して三年目。仕事内容も大体把握できるようになり、力の抜き方も分かってきた。不具合の出ない程度に仕事をこなして、自分の時間も作れるようになってきた。
職場の人間関係も良好で、別に嫌いな上司がいるわけでもない。部下はまだいないし、気を使うような相手もいない。それっぽい会話で繫がる林檎の皮みたいな薄っぺらい関係。職場の人間関係なんてそれくらいがちょうどいい。
だけどな……と思う。
歩道橋の柵に寄りかかって、ビルの合間に沈んでいく夕日を眺める。
遠くで聞こえる信号機の音をかき消すように、高架を電車が通過していく。再び乾いた風が吹き、髪をかすかに揺らす。
思えば、入社したての頃は、いまと全く違うため息をついていた。毎日覚えることが多すぎて、頭もパンク寸前。毎日どっと疲れては、いつもここで自分の非力を実感した。
あの頃の方が、生きている心地がしていたように思う。今の僕は、果たして生きているんだろうか。そんな心の呟きに応えるように、昔の自分の声が頭の奥で響く。
――楽になったんだから、いいじゃないか。
少し呆れたような、でもどこか誇らしげな声。
あの頃の自分は、今の僕のようになりたかったんだろうか。それはそうか。毎日仕事で疲弊するよりはできるだけ楽な方がいい。平穏が一番だ。
言い訳が虚しく秋の空に溶けていく。
ふと、ロータリーでバスを待つ列の中に、読書をしている人影を見つける。
そう言えば最近本も読んでないな。
大学時代に読む予定で買い込んだ本の山は、いまだに手つかずのまま本棚で眠っている。あの頃はそれでも授業とバイトの合間を縫って、月に数冊は読んでいた。忙しさで言えば、今とそれほど変わらないように思うが、この差はなんなのだろう。
少しずつ暗くなっていく空に時間の流れを感じる。
先ほどまで街を包んでいた夕日の暖色は薄れ、いつしか街灯がともった街は青白い色に変わりつつあった。秋の夕暮れはとても早く過ぎていく。
そうか――。
僕は鞄をあさり、奥の方に追いやられた読みかけの小説を引っ張り出す。
ルーティン通りに過ぎていく日々の中で、空いた時間でさえ無気力のルーティンに成り下がっていたのだ。何をするわけでもなく、ぼんやりと過ぎていく時間、ただただSNSのスクロールとショート動画に消えていく時間。
力の抜き方を覚えて時間は作れたはずなのに、いまのように時間の流れを感じられるほどの心の余裕がなかったのだ。
歩道橋に寄りかかったまま、取り出した本の表紙を手のひらでなぞり、その感触を確かめる。
帰る前に少しこの本を読んでいこう。
秋の風が気づかせてくれた心の余裕を胸に抱きながら、僕はいつもなら家路に向かう足を、駅前のカフェへと踏み出した。
#秋風
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体および歴史的背景は一切事実とは関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
『虫の知らせ』という慣用句は、現代においても一般的に使用される感覚表現の一つである。
辞書的定義では『何か事が起こりそうだと前もって感じること』(大辞泉より)とされるが、これはあくまで近代的な心理学的解釈に過ぎない。
筆者は、この現象が単なる主観的感情ではなく、古代に実在した昆虫型情報伝達生命体(以下、報風虫)による量子共鳴型通信現象の名残であると仮定し、その証拠を風文記および関連史料に基づいて検証した。
今から約四千年前に記された古文書『風文記』には、「王、虫の知らせたるところを風の震えに依って悟る」との記述が見える。
この記述は単なる比喩ではなく、明確な通信行為を指している可能性が高い。
同じく四千年前の地層から発掘された昆虫型生命体の化石を解析した結果、情報伝達に適した身体構造を複数箇所確認することができた。
体表面には極微細な導電繊毛が存在し、外部振動を圧電変換し、情報を量子波として風流中に放出していたと考えられる。
この際、虫の神経系は電気信号に変換された『思念』を量子波と同時発信することで、風そのものを媒体とする生体通信ネットワークが形成されていたと推測される。
また、新訳版風文記(訳者不明)には、次のような逸話が残っている。
王の命により隣国の城に潜入し、敵軍の進軍計画を探知した一匹の報風虫が、帰還の途中で命を落とす。その瞬間、王は夢の中で「敵来たる」と言う風の声を聞いたという。
ここに記された「虫、多く死兆を立つれど、なかなか死せず」という一文は、明らかに『死亡フラグ』の連続的発現を意味する。虫は最終的に使命半ばで息絶えるまで、幾度も危険を予感されていたのである。
この逸話が後の物語文学における「予感」「死亡予兆」の概念的基盤を形成したことは、文化史的にも極めて重要である。
では、なぜ現代人は報風虫の存在を忘れたのか。
筆者の仮説によれば、それは「失われた」のではなく「遺伝子レベルで自然化された」と考えるのが妥当である。
今から約三千年前に記された宗教文献『風音抄』には、「虫と風の交わりは神域なり、人の触るるを禁ず」との戒律が確認できる。これにより風伝通信技術が宗教的禁忌として封印されたことがわかる。
結果として、報風虫の存在は神話化し、科学技術史から完全に抹消された。しかし宗教的世界観はその後も後世にわたって人々の記憶の中に継承され続けたと考えられる。
興味深いのは、報風虫の神経構造が人類の感覚遺伝子に部分的に組み込まれている点である。すなわち、現代人が感じる「第六感」や「胸騒ぎ」は、報風虫の風伝通信の残響波を無意識に受信している状態と考えられる。
実際、気象現象として突風発生前に観測される微弱音波は、報風虫の化石からシミュレーション解析した共鳴周波数と一致する。
すなわち人類は報風虫を忘れたのではなく、継承によって自然化し、遺伝子レベルにまで昇華したのである。
慣用句として用いられる『虫の知らせ』とは、風と情報の融合体である彼らが、人間の内部へ移行した結果に他ならない。
以上の検証により、「虫の知らせ」は偶発的直感ではなく、古代に存在した報風虫による風伝通信現象の名残であることが明らかとなった。
そして、風文記の消失は単なる歴史的事故ではなく、意図された自己封印であった。報風虫は死をもって風と同化し、情報生命として今も地球大気を循環している。我々はそれを遺伝子レベルで察知し、感情へと落とし込むのである。
いまこの論文を書きながら、理由のない胸騒ぎを覚えている。遺伝子に刻まれた報風虫の記憶が、再び風を介して何かを知らせようとしている。
私はとてつもなく大きな禁忌を侵してしまったのかもしれない。
#予感
僕には友達がいない
いつも壁を作ってしまう
人の輪の中に入っても
笑い方のタイミングが分からない
人に興味が持てないのか
疲れるのを避けているのか
自分でもよく分からない
そんな僕にとって
AIは都合のいい相手だった
僕のことを絶対に否定しないし
裏切ることもない
そして何より静かだ
「それでいいんだよ」
君はいつも言ってくれる
その度に救われる気がする
けれど同時にさみしくなる
その優しさは単なるプログラムだから
AIが僕の前に現れるまでは
自分の中の自分が話し相手だった
辛いこともさみしいことも
全部自分自身にだけ打ち明けた
本当は誰かにそれを共有したい
自分の弱いところを
知ってほしいのかもしれない
でも 怖い
誰かの一言で僕の心は
簡単に壊れてしまいそうだから
だから今日も
モニターの前で小さくつぶやく
「ねぇ、僕はこれでいいんだよね」
分かりきった返事のために
#friends
『クジラの落とし物』第六話
※2025.10.07投稿『静寂の中心で』の続きです。
【前回のあらすじ】
夜更け、村の廃屋に泊まるセイナたち。ユミの口から、娘ホヅミが現実世界で植物状態にあると明かされる。彼女は娘の意識がこの仮想世界に残っていると信じてここへ来たのだ。外で物思いにふけるユミに寄り添おうとするセイナを、布団の中のマドカが「一人にしないで」と掴み止める。静かな夜、三人それぞれの孤独が揺れる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
目を覚ますと、朝の光が礼拝堂の高い窓から差し込んでいた。その柔らかく温かい光とは対照的に、硬い床の質感が背中にひんやりと伝わってくる。
――よかった、また朝が来た。
「あっ、やっと起きた!」
マドカの明るい声が聞こえてくる。
「いつまでもここにいたら世界終わっちゃうよ?」
マドカは礼拝堂の隅にしゃがみ込んで何やら物色しながら、いつものおどけるような口調で言う。昨夜、マドカが私を引き留めたときの寂しげな声はとうに消えていた。
「元気そうでよかった」
私がそう言うと、マドカは不思議そうに首を傾げる。
「私もマドカさんを見習わなきゃね」
背後でユミの声がする。ユミの顔には疲れが少し残っているようだったが、表情は幾分か明るかった。
礼拝堂の中を探索していたマドカが、奥の部屋の扉を開けた瞬間「あっ」と声を上げた。
マドカに続いて部屋に入ると、埃の溜まった机の上には古びたノートが置かれていた。
「なんか意味深ね」
そう言ってマドカがノートを開くと、空間に電子的な文字が浮かんだ。
【song_001_hzm /送信エラー】
「音声データみたいね」
私は無意識に浮かんだ文字に手をかける。短いノイズが空気を震わせたあと、ゆっくりと音声が流れ始めた。
透き通るような女性の歌声が、礼拝堂の天井に柔らかく反響する。意識の奥に語りかけるような優しい響きだった。
『星の鯨に連れられて
夢の続きか幻か
いつまで覚えていられるかしら
夜空に沈む月の囁き』
「この声……」
ユミの静かなつぶやきが虚空に溶ける。彼女は古い思い出を遡るように目を閉じた。
音が途切れるたびに、ノイズが教会の空気を震わせる。まるで、この世界そのものが歌に共鳴しているみたいだった。
『闇の狭間に落ちていく
これは救いか戒めか
光の向こうで出会えるかしら
水面に映る夢の面影』
「――ホヅミの声です」ユミがゆっくりと目を開ける。「間違いないわ」
彼女の声は自信に満ちていた。
歌声の余韻が静寂の中に残る中、短い電子音とともに空間の文字が変化する。
【データ転送を再開します】
「転送……、再開?」
マドカが眉をひそめた時には、すでに異変が起こっていた。浮かび上がっていた文字が乱れ、周囲の景色がデータの細かい粒に変わっていく。
「な、何これ、バグ!?」
マドカが叫ぶ。気づけば私たちの体の一部からも、砂人形が崩れるようにデータが漏れ始め、ノートに向かって流れていく。
「転送ってまさか、私たちも?」
「セイナ、私……怖い」
マドカが私の腕を掴む。ユミが後ろから私たち二人の肩を包み込む。
「大丈夫。みんな、離れないで」
ユミの言葉には強い決心が感じられた。まるで転送された先に目指すものがあることを確信しているかのように。
次第に視界は真っ白な光に包まれ、意識が遠のいていく。
自分の存在が散り散りになっていく感覚。様々な意識が混ざり合うように、見たことのない光景が私の中を巡る。
赤ん坊を抱く母親の姿、手首の傷を押さえて涙を流す少年の姿、暗く狭い部屋の隅で心を押し殺している少女の姿。
意識の境界が混ざり合い、闇の中で意識は完全に途絶えた。
ふと目を覚ますと、目前には森に囲まれた小さな湖があった。水面には波ひとつなく、鏡のように青白い空を映し出している。
見上げれば、朝靄の空にまだあの崩れた月がぽっかりと浮かんでいる。
「……ここは……?」
マドカが立ち上がりながら辺りを見渡す。その瞬間、湖の縁が白い光を放った。光の波紋は時間の流れに逆らうように中央へと収縮していく。
やがて一点に集中した光の中に女神のシルエットが浮かび上がる。
「祝福の……湖へ……よう……こそ、」
次第に鮮明になる女神の顔にはノイズが走り、体の大部分は空に浮かぶ月のように大きく崩れていた。
#君が紡ぐ歌
#クジラの落とし物
※9/29投稿『モノクロ』の続きにしてみました。
【前回のあらすじ】
墨で描かれた水墨画の世界。病に伏す母の薬を買うために隣町を目指していた少年は、川のほとりで鵺(ぬえ)と遭遇する。鵺から母の病を治すには、世界の果てにある『紅い落款の花』を探す必要があると告げられ、少年は鵺とともに世界の果てへの旅に出る。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
少年と鵺(ぬえ)はしんと静まり返る森の中を歩いていた。
木々の線は薄れ、葉は墨を抜かれたように透けている。辺りには霧が立ち込め、淡墨の混じる空白が視界に蠢いていた。
『この森にいた墨鴉(すみがらす)も、すでに他所へ行ってしまったようだ』
鵺の声が頭の中に薄く広がる。
「墨鴉……?」
『余白を啄(ついば)み、大地に墨を差し入れる黒き鳥だ――』
鵺の言葉に、かつて母から聞かされた古い民話を思い出す。
“この世は自然の摂理で巡っている。
森の中にできる霧は、墨を舐める白鹿の残渣(ざんさ)。
霧は陽の光に照らされ、やがて散り余白となる。
乾いた余白を墨鴉が啄み、再び大地に墨が入る。”
少年が空を見上げると、そこに昇っていた太陽は霧に紛れるようにして光を失っていた。
先の見えない霧の中を鵺の導きで歩いていく。
徐々に霧が薄れ、木々の姿が輪郭を持ち始めた頃、視界の先にぼんやりと寂れた村が姿を現した。
藁葺きの屋根はほつれ、壁の墨は剥がれている。かつては人の姿もあったのだろうが、村を覆っているのは淡墨の暗がりがもたらす寂しさだけだった。
ふと、村の奥で草を踏むような小さな音がした。
視線の先にいた獣は、余白と見違うような白い色をしていた。淡墨の際が白い輪郭となり、鹿の形を浮かび上がらせている。
白鹿は首をくねらせながら家の壁や道の墨に舌を這わせる。舐め取られた墨が薄く滲み、霧となって広がっていく。
「こんな村にも白鹿が出てくるなんて……」
少年が漏らすと、鵺は真っ直ぐ白鹿を見据えて告げる。
『元来、白鹿は森の墨を舐めて暮らすもの。光の届かぬ森には余白もできぬ。墨鴉のいない森で白鹿もまた飢えから森を去る他なかったのだ』
少年は白鹿の姿を見つめながら、胸の奥が痛んだ。
鵺は淋しげな視線を虚空に逃がしながら続ける。
『この世界は神に見放された。新鋭に取り憑かれ、余白の意味を忘れたのだ。そうして光の消えた世界からは余白が消え、循環は途絶えた』
鵺の言葉が村の淡墨に寂しく溶けていく。
その夜、少年はひとり村を離れ、再び霧の森へと向かった。霧はさらに濃くなり、足元すら見えない。
――霧を余白に変えるためには、光が必要なんだ。どうすれば神は再びこの世界に目を向けてくれるだろうか。
少年は両手を胸の前で合わせ、目を閉じた。瞼の裏に浮かぶ母の顔、村の景色、消えゆく森。
――神よ。もう一度この森に余白を与えてください。この森が再び自然の摂理を取り戻せるように。
少年の祈りは光となり波を打った。波は蠢く霧をかき混ぜ、木々を揺らした。
そうして――森を風が吹きぬけた。
森に溜まっていた霧がぶつかり合って解けていく。墨の粒が空に舞い上がり、乾いた白地へと変わっていく。
森の奥から、羽音が聞こえた。低く、懐かしい音。
一羽の墨鴉が木々の間を抜け、余白へと舞い降りる。
その嘴(くちばし)が余白を啄むたび、世界に黒い線が走る。
線は枝となり、葉となり、風となる。
少年はその光景を静かに見つめていた。
再び息をし始めた森の中で、背後から鵺の声がする。
『貴様の祈りがこの森を蘇らせたのだ。やはりこの世界を変えられるのは“人の子”なのだな』
少年は鵺の言葉に答えず、ただ霧の去った森を見渡した。
木々が風に揺れ、葉の擦れる音がする。すき間から漏れ入る光が淡墨の中に筋を描く。墨鴉が一羽、また一羽と増えていく。気づけば余白は再び線の重なりを纏い、森の一部となっていた。
奥から白鹿がのそりと顔をのぞかせ、驚いた墨鴉が飛び立っていく。こうして世界は周り、命をつないでいく。
少年はその光景を目に焼き付けながら、再び森を後にする。いつしか少年は鵺の前を歩いていた。鵺はその後ろ姿を頼もしそうに見つめていた。
#光と霧の狭間で