昔々、遠い南の果てに『夏しか知らない国』がありました。
そこでは一年じゅう太陽が照り付け、色鮮やかな花が咲き乱れていました。人々は常に半袖短パンで過ごし、常に太陽のように陽気に暮らしていました。
ある日、北の空から一羽の白い鳥が飛んできて、王様の前に降り立ちました。
「王様、もうすぐ北の国から『冬』という名の旅人がやってくるようですよ」
「冬?」王様は聞き返しました。「それはどのような客人なのだ?」
「白い衣を身にまとった、冷たく静かで何とも厳かな雰囲気のお方です」
王様は顎に手を当ててしばし考え、やがて陽気に叫びました。
「それはぜひ歓迎せねば! 客人をもてなすのはこの国の誉れであるからな」
さっそく王様は家臣たちを広間に集め、玉座から大きな声で命じました。
「この国に間もなく『冬』という名の客人がやってくる。冬殿はジェラートのように冷たく、クーラーのように寒いお方らしい」
家臣たちは互いに顔を見合わせてざわつき始めます。
「冬殿はきっと温かいものをお好みになるだろう。よいか、国にある『ぬくもり』を全部集めるのだ!」
王様の言葉で家臣たちは大慌てで準備を始めます。
料理長は「温かいスープを千鍋作りましょう!」と叫び、織物係は「私は毛布を山ほど織りますわ!」と走り出す。
詩人は「では私は、心温まる歌を捧げましょう」と竪琴を抱えました。
それからというもの、城下町の広場はまるでお祭りのような騒ぎでした。中央では大きな焚き火が赤々と燃え、たくさんの毛布が地面に並べられました。香ばしいチキンとパンの匂いが風に流れ、人々は大粒の汗をかきながら湯気の立つスープを運びます。
王様は高みからその光景を眺めながら、満足そうな笑みを浮かべます。
「ふむ、これだけ盛大にお饗しをすれば、冬殿もきっと喜ぶにちがいない」
やがて日が沈みきった頃、空が白く霞み、北から風が吹いてきました。キラキラと輝く氷の粒を含んだ、とても冷たい風です。
とうとう『冬』がやって来たのです。
真っ白な衣をまとい、音も立てず静かに歩くその姿に、誰もが息をのみました。
冬は何も言わず、ただゆっくりと広場へと進みます。王様は両手を広げて冬を迎えました。
「ようこそ、遠い国の客人よ。温かいお食事とぬくぬくの寝床をご用意いたしました。ぜひ心ゆくまでおくつろぎください」
王様の自信に満ちた振る舞いとは裏腹に、冬はただそっと微笑んでその場に佇むだけでした。
先ほどまで湯気の立っていたスープは表面に薄く氷を張り、毛布には白い霜が降りました。焚き火の火は冷たい風に揺れ、空からは白い結晶が舞い降ります。
「おぉ、空から冷たい何かが降ってきておるぞ」
王様は寒さに身を震わせながらも、初めて見る雪にわくわくが止まりません。しかし、家臣たちは全く手のつけられていない饗しの数々を前に、呆然と立ち尽くします。
「王様……、どうやら冬殿は何にも手をつけていらっしゃらないようです」
王様は空から降る雪を両手で受け止めながら、相変わらず陽気な声で言いました。
「では、お土産に持って帰ってもらおう。毛布もスープも好きなだけ!」
けれど冬は、何も受け取らず、ただ静かに頷きました。そして空の彼方に広がるように溶けていくと、冷たく澄んだ空気が国を覆いました。
どうやら冬はこの国が気に入ったようで、なかなか帰ろうとはしませんでした。
地面には白い雪が薄く積もり、空は澄み渡る冷たい空気に包まれています。人々の吐く息は白く、みな頬を赤く染めながら体を震わせます。
「せっかく用意したお土産はどうしたものか」
王様は肩をすくめて言いました。
「仕方がありません、私たちでいただきましょう」
震える家臣たちはたまらず地面の毛布を手に取ります。
それから王国では、毛布にくるまり、温め直したスープを飲み、焚き火を囲んで笑う人々の姿が絶えませんでした。詩人の歌が焚き火に乗って、冷たい空をふんわりと温めます。頭上には満天の星空が輝き、まるで冬が一緒に笑っているようです。
こうして、夏の国に初めて訪れた冬支度は、人々にたくさんのぬくもりを残しました。それから毎年、この国にも冬が訪れるようになったとさ。めでたし、めでたし。
#冬支度
地下深く、配管と歯車に囲まれた壕の中で、僕は時を刻み続けていた。
右足、左足、右足――。
僕が床のペダルを踏みこむと、巨大な歯車がグワングワンと音を立てて回り、目の前の巨大な文字盤の上で、秒針がチクタクと一定のリズムを刻んでいく。
世界が正常に進んでいく音を聞くのが僕の生きがいだった。
世界の時を動かすために、僕はずっとこのペダルを踏み続けている。昼も夜も一所懸命、力の限り。
僕の足が世界の時を動かしている。
僕の足によって、風が吹き、水が流れ、動物たちが歩き出す。世界が回る。
だから僕はリズムを刻み続けるんだ。
ある日、僕の前に少女が現れた。
機械の上に頬杖をつきながら、僕の方を見つめている。
しかし、彼女に気を取られてリズムが狂わないように、なるべく彼女のことは見ないようにした。
右足、左足、右足――。
ペダルを踏む僕の隣で少女が口を開く。
「ねぇ、君さ――」
「気が散るから話しかけないでください」
声を遮るようにそう言うと、彼女は不貞腐れたように頬を膨らませる。
「もう時間なんて止めちゃえば?」
少女の声で一瞬ペダルを踏む足が止まる。秒針の動きがブレる。
その瞬間、カンカンカン!と頭上の鐘がけたたましく乾いた音を響かせる。
――ヤバい!
僕は再び足を動かす。呼吸を落ち着かせ、一定のリズムを意識する。再び秒針は元のリズムを取り戻し、正確な時を刻み始める。
世界の時が止まらないように、僕はずっとこのペダルを踏み続けなければいけない。昼も夜も休むことなく、ただひたすらに。
世界の時のために僕は足を止められない。
僕がこの足を止めると、風が止み、水が止まり、動物たちが死んでいく。世界が止まる。
だから僕はリズムを刻み続けなければいけない。
その日から毎日少女は現れた。
そして、その度に「止めちゃおうよ」と僕をそそのかす。
「そんなことをしたら世界が壊れてしまう」
彼女はわかっていないんだ。世界が時を止めれば、多くの命が失われる。季節は巡らず、命は巡らず、世界の秩序は崩れていく。
「時が動いてても、君の世界が何も変わらないなら、それは時が止まってるのと同じじゃない?」
彼女の言葉に僕は思わず苦笑する。そんなこと言ったってどうしたらいい。世界を犠牲にして僕に止まれと言うの?
その日の夜、何度も少女の言葉を思い出しては足が止まりかけた。そして、その度にあのけたたましい鐘が鳴る。
世界はいま、止まったり動いたりを繰り返して、とてつもなく混乱しているに違いない。休んじゃだめだ。僕は時を刻み続けなきゃ。
でも、僕は世界の中で本当に時を刻んでると言えるんだろうか。それで僕の世界は何か変わっているだろうか。
そもそも外の世界は本当に時を刻んでいるのだろうか。僕の視界の中で、時が動いているのを確認できるのは目の前の歯車と秒針の動きだけ。
風が吹き、水が流れているのも、動物たちが歩いているのも――、何なら日が沈み、また昇ってくるのすら、この地下室からは見ることができない。
本当は既に世界の時は止まっていて、僕は無駄に足を動かしているだけなんじゃないのか。
そう思った瞬間、途端にすべてがバカバカしく思えてきた。
段々とペダルを踏むリズムはゆっくりになり、再びけたたましい鐘が鳴る。
いっそのことこのまま鐘を鳴らし続けてみようか。
僕の足が完全に止まるまで。
そうして、僕の足は完全に止まった。
鐘はずっと鳴り続けている。歯車は止まり、秒針もピタリと動かなくなった。
ペダルから足を降ろす。浮き沈みのない確かな地面の感覚が足の裏に伝わってくる。
外がどうなっているか確かめたい。僕はフラフラとした足取りで地上への階段を登っていく。
これまでの疲労のせいか、ぐらりと視界が揺れ、足元はおぼつかない。
一段ずつ確実に上がっていく。壁に手を添え、時に体ごと預けながら、最後は這いつくばるように。
そして、外へつながる扉は開かれた。
眼前に広がる世界は壮大だった。
太陽はさんさんと輝き、風に乗って雲は流れ、遠くから水の音がする。鳥が囀りながら飛び、動物の気配が草葉を揺らす。
世界は動き続けていた。
僕が足を止めても世界は止まらなかった。
世界を動かしていたのは僕だけじゃなかった。
なんでもっと早く気づかなかったんだろう。
世界を動かしていたのは、無数の命だということに。
僕はゆっくりと目を閉じて、世界の時間をこの肌で感じる。すると、風に乗って少女の声が胸に響いてくる。
『ようやく君の時間が動き出すね』
これまで動き続けることで止まっていた僕の時間。
僕の中で心臓がトクトクとリズムを刻んでいる。
――これが一番大切なリズムだったんだ。
これから何をしよう。やりたいことが涙と一緒にあふれ出る。
僕は滲む視界で動く世界を見ながら、じっと自分の時間を噛み締めていた。
#時を止めて
――金木犀って健気だよね。日本には雄株しかないのに、こんなにも甘い香りを放ち続けてる。
柔軟剤が並ぶドラッグストアの棚の前で、僕はあの日彼女が公園で言った言葉を思い出していた。
この時期になると、彼女はいつもこの金木犀の香りがする柔軟剤を選んでいた。
だから、いまでも僕は無意識にそれを手に取ってしまう。
彼女がこの世を去ってから間もなく三年が経とうとしているのに、こうした無意識は未だに僕の周りから消えることはない。
今朝も朝食の間、気づけば彼女が好きだったラジオ番組を流していたし、珈琲を淹れるときにもついつい二人分の豆を入れていた。
彼女は茶色い角砂糖が好きだったから、僕の家にある角砂糖はいまも茶色い。
洗濯機を回している間、読書をしながら流していたのも彼女が作ったプレイリストだったし、リビングに漂っていたのは彼女の好きな柔軟剤の香りだった。
これは、未練とはまた少し違う。
なんていうか、当たり前にあったものがそのまま続いてる感じ。
正直、家族以外で誰かと一緒に住むというのは彼女が初めてだったから、それまではラジオを流しながら朝食をとることもなければ、時間をかけてコーヒーをドリップすることもなかった。
角砂糖なんて男の一人暮らしの家にはなかったし、読書をしながら音楽を聴くなんてこともなかった。
もちろん、金木犀の香りがする柔軟剤を買うこともなかった。
それらはすべて、彼女が教えてくれたことで、彼女が幸せそうにしている時間だった。
そして、彼女がいなくなった今も、習慣のようにずっと続いている。
数少ない友人には『新しい彼女を作らないのか』と尋ねられることもあるが、この三年間でそんな気持ちになったことは一度もなかった。ただ、これも未練とは少し違う。
もともと人付き合いが得意なタイプではないし、人の集まる場所も得意ではないから、合コンや飲み会の類にわざわざ出向くこともない。一人でいる方が気楽だから、僕を取り巻く人間関係なんてそうそう変わるものでもないし、新しい出会いがあるわけでもない。
こんな性格をしているから、彼女と出会う前も、別れた後も、寂しいと感じることは正直あまりない。
そんな僕がどうして彼女に惹かれたのかと問われても、ちゃんと理由を説明できない。
強いて言うなら、彼女が幸せそうにしていると、僕も幸せな気持ちになったから。
彼女の幸せそうな顔を見たくて、彼女の好きなものを僕も好きになった。
寂しいから一緒にいるんじゃなくて、幸せを共有したいから一緒にいたという感じ。
そういう出会いは、作ろうと思って作れるものでもない気がする。
ドラッグストアを後にして、いつものルートを歩いて帰る。この道も彼女と一緒によく通った道だ。
途中にある小さな公園では、ちょうど金木犀の花がきれいなオレンジ色に咲き乱れていた。
彼女が金木犀を見て健気だと呟いたのも、この公園だった。
――金木犀は何のために甘い香りを放つのかな。
あの日、彼女は続けてそう呟いた。
雌株もないのに甘い香りを放ち続ける金木犀の花。
その時はうまく答えられなかったけど、今なら何となく分かる。
そこにはもはや理由などなくて、金木犀の長い歴史の中で体に染みついたものなんだろう。
まるで今の僕みたいに習慣の中で無意識に続いていることのような。
もう会えないと分かっているのに、それでも彼女の好きなものを無意識に選んでしまう――今の僕のような。
オレンジ色の花が揺れて、甘い香りがふわりと漂う。
この金木犀は、無意識の中で誰かとの出会いを求めているのだろうか。
それとも、遠い故郷にいる誰かを思い続けているんだろうか。
#キンモクセイ
「行かないで……」
ぼくがどんなにお願いしても、お日様は山の向こうに沈んでいく。
そして夜はいつものようにやってきて、ぼくの部屋を闇に変えていく。
どうしよう、部屋が暗くなったら、あのおばけがやってくる。
朝が来るのも怖いのに、夜も怖くなってしまったらどうしよう。
とうとう空は真っ暗になって、ぼくの部屋も夜に包まれた。
だんだんと部屋のすみっこにぼんやりと白いのがうかんでくる。
その中に黒くて丸い目が二つ、じっとこっちを見つめている。
おばけは何もしない。ただじーっとぼくの方を見つめるだけ。
ぼくにはそれがとても恐ろしくて、隠れるように布団にもぐりこむ。
「おばけなんていない……。見られてなんていない……」
そうつぶやいても、そのおばけが布団の外にいる感じは夜の間ずっと続く。
早く朝が来てほしいと願う。あんなに怖かった朝が。
ある夜のこと。
ぼくがいつものように布団の中にもぐっていると、なにかが床に落ちる音がした。
布団のあいだから覗くと、床に転がったお気に入りのおもちゃの横に、あのおばけがじっと立っていた。
落ちているおもちゃに触ろうとしてるのか、何度もすり抜けながら行ったり来たりしている。
「拾いたいの?」
ぼくは思わずおばけに声をかけていた。おばけは動きを止めて、いつものようにじっとこちらを見る。
少し怖かったけど、ぼくはベッドから出ておもちゃを拾い上げる。
おばけにおもちゃを差し出すと、白い光がふわっと明るさを増した。喜んでるのか?
もしかして、意外といいやつなのかな。
その日から、ぼくは少しずつおばけに話しかけるようになった。
「ねぇ、どうしてぼくの部屋にいるの?」
おばけは、何も言わずゆっくりと首をかしげる。
「名前はなんていうの?」
そうたずねても、おばけは首をふるばかり。
「じゃあ、ぼくが名前をつけてあげるよ。ふわっと光るから『ふわ』ってのはどう?」
おばけは、ふわりと光って、うれしそうにゆらめく。その仕草がなんだか可愛くみえる。
決定。今日から君は、『ふわ』だ。
だんだんと夜が来るのが、こわくなくなった。
何なら、夜が来るのが――ふわに会えるのが楽しみになってきた。
ぼくが絵本を読みはじめると、ふわも一緒にのぞき込んでくるし、眠るときには、ぼくの布団のすぐ横に座って見守ってくれる。
夢の中にも出てきてくれて、一緒に遊んだこともある。
ふわは、気づいたら友だちみたいになっていた。
だから、朝が来るのがまた怖くなってきた。
朝になったら、ふわはいなくなってしまう。だったらずっと夜が続いた方がいい。
その夜は、もうすぐ朝がやってくるというのになんだか眠れなかった。
起きている間は夜が永遠に続く気がして、ふわと一緒にずっと絵本を読んで過ごした。
でも、お日様はいつものようにやってきて、世界を朝に変えていく。
山の向こうから光が差しこんでくると、次第にふわの体が透けていく。
「ねぇ、ふわ……行かないで。もうちょっと一緒にいようよ」
ぼくはふわの方に手をのばす。でも、あのおもちゃのようにスッと体をすりぬけてしまう。
ぼくはこんなに悲しいのに、ふわの体はふわりと白く光ってる。
まるで『心配しないで』と言ってるみたいだ。
お日様の光が世界を朝に変えると、ふわの姿はもう完全に見えなくなっていた。
でも、いなくなったんじゃない。見えなくなっただけ。何となくそんな気がした。
ふわは朝が来てもそこにいて、ぼくを見守ってくれてるに違いない。
ぼくは久しぶりに部屋の窓を開けて深呼吸をする。もう何ヶ月も浴びていない外の空気は少し冷たかった。
ふわがいつもそばにいてくれたら、ぼくは外を歩けるようになるかな。
部屋の中を見渡す。ふわの姿は見えない。
また夜になったら遊ぼうね。ふわ。
ぼくが笑うと、部屋の隅がふわりと白く光った気がした。
#行かないで、と願ったのに
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体は、実在するものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
人は誰しも秘密の一つや二つ持っている。
つい先日も政治家と建設会社の汚職が明らかになったばかりだし、人気の芸能人やアイドルも裏では何をしているか分からない。
もちろん俺にも、墓場まで持っていきたいような秘密はいくつもある。
だから、路地裏で『あなたの秘密買い取ります』という張り紙を見つけたときには、真実かどうかを疑う前に足が動いていた。
張り紙に記されていた一件の骨董品店に足を運ぶ。
恐る恐る店内に入ると、まずカビと埃の匂いが鼻をついた。中は薄暗く、外からの明かりで店内に並んだ骨董品の数々が照らされ、ぼんやりと輪郭が見える程度だった。
「どなたかいらっしゃいますか?」
俺の声が店の中に消えていく。暫しの沈黙のあと、薄暗がりの中からぬっと白くのっぺりとした女の顔が現れる。
「どうされました――?」
女の抑揚のない声に俺は思わず身じろぎして後ずさる。全身黒尽くめの服を着た女がそこにいた。
「あ、あの。貼り紙を見て……」
体勢を立て直し、言葉少なに目的を告げる。女は静かに俺を店の奥へと誘導した。
部屋の壁には戸棚が並び、その中に整然と小さな小瓶が置かれていた。中には黒くどんよりとした液体とも気体も判別つかない何かが溜り、一枚ずつ写真が添えられている。写真に写る人々は、皆一様に絶望に満ちた暗い表情をしている。
俺は女に導かれるまま、部屋の中央にあるリクライニングチェアに腰掛ける。女は向かいの小さなスツールに座り、ちょうど向かい合う形になる。
「秘密を買取ってくれるって本当ですか?」
俺が恐る恐る聞くと、女は静かに言う。
「ええ、本当ですよ。秘密をいただければ、あなたの中から秘密はなくなり、私のコレクションが一つ増える……」
「コレクション……?」
「ここにある小瓶はすべて私が買い取った秘密の数々です。どれも美しいでしょう?」
女の口だけで笑うような不気味な笑顔に、思わず背筋がゾクリとする。
「俺の秘密も買取ってほしいんです」
俺は女に秘密を打ち明ける。
――数日前、恋人の親友と酔った勢いで体の関係を持ってしまったこと……。
「ほぉ、これはまた」
女がまた口だけで笑う。
「少し時間がかかりますが、我慢してください」
契約が済むと、女は俺の頭にヘルメットのような奇妙な装置を取り付けた。複数の電極とコードが伸び、その先には小瓶がセットされた小さな機械が置かれている。
女が機械のスイッチをいれると、ヘルメットが小刻みに振動し、脳みそがグワングワンと揺れる。
「これで本当に秘密がなくなるんですか」
俺が心配になって問いかけると、女は自慢げに答える。
「ご心配なさらず。こう見えて大きな会社の社長さんや有名な方々もお相手して差し上げてますの。その世界ではそれなりに名が通ってますからご安心を……」
数分ほど頭を揺らされ続け、意識が朦朧としてくるが、あの一夜の記憶は一向に頭から消えてくれない。
「本当に……、大丈夫なんですか?」
「もうじきに終わります。初めは辛いですが、秘密がなくなったあとは、皆さん一様にスッキリした顔をなされますよ」
機械に目をやると、小瓶には確かに黒くどんよりとした何かが溜まっていた。
「この間ね――」女が静かに口を開く。「甕対建設の社長さんも、作業中ずっとあなたのように心配なさってましたよ……」
『甕対建設』――。最近汚職事件絡みで会見をしていた建設会社だ。――どういう……ことだ……。
朦朧とする意識の中で戸棚の隅にある甕対建設の社長の写真が目に入る。記者会見でしどろもどろになっている焦りの顔――。
「さぁ、終わりましたよ」
女の声で意識を取り戻した頃にはヘルメットも外され、頭の振動は収まっていた。しかし、あの記憶はまだ消えない。
「あの、消えてないんですが――」
「ご心配なさらず。あなたの秘密は――秘密でなくなりましたから」
女がそう告げた矢先、スマートフォンに着信が入る。恋人からだった。不安と恐怖が胸の中で音を立てて渦巻いていく。
「ねぇ、人の秘密が明るみに出た時の表情ってとても美しいと思わない?」
俺はその時すべてを理解した。そうか、それであの会見の写真……。彼女のコレクションは写真の方だったのか。
「さぁ、早く電話に出て。私のコレクションにあなたを加えてあげる」
そう言って女は恍惚に満ちた表情で、おもむろにカメラを構え始めた――。
#秘密の標本