結城斗永

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12/12/2025, 11:24:51 PM

タイトル『雪は空から降ってきて』

 空のずっと上には、名前のない意識たちが散り散りに漂っている。
 それは誰かの思い出だったり、誰かが最後に残した気配だったり、まだ言葉になる前の気持ちだったりする。

 冬が近づき寒くなると、それらは雲の中で静かに集まり、くっつき、小さな結晶になる。そうして生まれたものが、雪だった。

 ひとつひとつの雪の結晶が、ふわりと地上へ落ちていく。
 白くふわふわしたその中には、ほんの小さな意識の欠片が宿っている。とても不完全で、自分がどこから来たのかは覚えていない。ただ、いずれどこかへ帰らなければならないという思いだけをのせて地上に舞い降りる。

 積もりに積もったその雪は、転がされ、丸められ、押し固められて、やがて人のかたちに整えられる。

 形を与えられた瞬間、意識ははっきりと目を覚ます。
 ぎゅっと集められた思いは、固く、この先いずれ帰る場所に向かって進むべき道を探し始める。

 夜、地上の雪は空を見上げる。
 雲の向こうにある、かつて散り散りだった場所。あの場所に帰るにはこの地でなにをすればよいのだろう。どこに進めばよいのだろう。

 雪の人形は色んな道を試してみる。
 腕を振ってみようか。ジャンプしてみようか。風に向かって体を傾けようにも、体は思うように動かない。。
 固い体は空へ行けないと知る。意志が強いほど、地面に縫い止められているように動けなくなる。

 昼になり、天の光が大地を照らす。
 その温度は雪の表面をあたためる。
 体の端がゆるみ、水がしたたっていく。
 ばらばらになってしまうことが少し怖くなる。ひとつでいられなくなることが、終わりのように思えた。

 子どもたちは悲しそうに雪を見る。
 ――溶けてなくなっちゃうね。
 ――でも、またいつか雪は降るよ。

 やがてスノーマンは、完全に溶けて水になる。固すぎた意志は緩やかにほどけ、ただ自然に身を任せて流れ始める。
 水は溝を通り、土にしみ、他の水と混ざり合う。意識は緩やかにつながり、揺蕩いはじめた。

 それは、突き進むことをやめる感覚に似ていた。
 何かを目指すのではなく、ただ世界の流れを受け入れる。下り坂に見える道も、勢いをつけるための力になると悟る。

 天の光が雪解け水をそっと温め、ふっとその身を軽くする。
 水は細かい気体となって再び天へと昇っていく。
 また細かな意識のかけらになった雪たちは、混ざり合い、溶け合いながら、ゆっくりと天へ帰っていく。

 雲の中で、意識たちは再び散り散りになる。でも、決して消えることはない。
 また次の形になるために、静かに漂いながらその時を待っている。

 この世界に舞い降りる雪は、過去を生きた人々の意識のかけら。
 寄り集まって、人のかたちを成し、水となって流れ、天に返っていく。
 そうして意識は巡り、つながっていく。
 冬の寒い夜は天を見上げて考える。
 どうやってあの天に帰ろうかと。

#スノー

12/11/2025, 11:18:06 PM

タイトル『ぬくもりとの距離』
(12/10お題『ぬくもりの記憶』)

※【R15】本作品には、成人男性間での親密な関係性をめぐる描写が含まれます。直接的な性描写はありませんが、心理的・情緒的な要素を含みます。
 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 つい数分前まで触れていた人肌の温かさは、ドアの閉まる音とともに冷たくなっていく。俺は、まだオスの臭いが充満する薄暗いホテルの一室で、マッチングアプリの画面を開いて、近隣でアプリを開いているユーザーの一覧を指で送っていく。

 男性同士の出会いを目的としたアプリがあることは、大学二年の時に偶然SNSで知った。当時、付き合っていた女性との別れが原因で逃げるように『こちら側』にやってきた。同性というだけでいくらか気が楽だったし、体のつながりだけで終わるドライな関係が俺の性に合っていた。
 こちら側にいるからといって、自分がゲイやバイだと意識することはほとんどなく、強いて言うなら恋愛に踏み込むのが怖くて、ただ触れていられる相手を求めているだけなんだろう。
  
 人の心に温もりを感じなくなったのはいつからか。振り返れば幼いころから人付き合いは苦手だった。俺の人間関係はいつも浅く短く過ぎていく。深く踏み込めば相手を傷つけるかもしれない。去る者を追えば自分が傷つくかもしれない。信用すればいずれ裏切られる。
 初めから深入りしなければ、俺の心は傷を負わずに済む――。
 
 セフレであるレンともそんな関係だった。初めて会ったのは今から三年前――俺が二十五歳の時だ。その時、アプリを開いたらたまたま近くにいただけだった。今のように暗いホテルの部屋で、互いの顔もはっきりとは分からず、体を重ねたあとは言葉もなく別れる。交わるのは体だけ。互いの心には踏み込まない。その距離が俺には心地よかった。

 だけど、どこかでレンのことを求めている自分もいる。それはレンの体なのか、それとも……。いつもそこで無理やり思考を止める。また失うのが怖いから。

『いつもの部屋』
 俺はレンに短いDMを送る。数分後、親指を立てた絵文字がひとつ送られてくる。いつもと同じ『向かう』の合図。
  
 十五分ほどして、ガチャリと部屋のドアが開く音がした。俺はいつものようにベッドの中でドアに背を向けて布団に潜り込む。背後でガサガサ、カチャカチャと服を脱いでいく音が響く。その音を聞くだけで、自分の息づかいが荒くなっていくのを感じる。
 布団が持ち上がり、すっと風が吹き込む。次いで、背中にふわりと熱を感じる。いつもの香水がふわりと漂い、ようやく安心する。
 ――レンだ……。
 背中から彼の筋張った腕が回り、互いの体を求め、絡み合う。でも――今日のレンは何かが違った。いつもより俺の体をまさぐる手の動きは荒く、抱きしめる腕にも力が入っていた。まるで切り立った崖に必死で縋るようでもあり、何かに怯えて強く母にしがみつく子供のようでもあった。
 だが、かえってその荒々しさに俺の体は熱さを増していく。レンの心が俺を求めている。そんな感覚が俺の全身を包み込む。
 激しく求め合う夜は続き、やがて果てた。一気に体の力が抜け、激しく上下する胸の高鳴りを抑えるように仰向けになって目を閉じる。

「なんか……、あった?」
 心臓の鼓動が落ち着いてきた頃、思わず心の声が漏れて出た。声に出すつもりはなかった。余計な言葉をかけて、また誰かを傷つけるのではないかというトラウマが、背中をゆっくり登ってくる。
「なんでもないよ」
 レンは一瞬戸惑いを見せながらも、静かに答えた。暗がりに表情までは見えなかったが、その声はとても落ち着いていた。
「……ありがとう」
 レンから出た言葉に、俺は思いがけず胸をつかまれた。長いこと忘れていた心の温度のようなものが、ふわりと胸の奥をかすめたような気がした。
 熱を持ったのではない。ただ、氷の膜の表面がほんの少し曇ったような変化だった。

 帰り支度をするレンの動きは、いつも通りだった。
 シャツの袖を直し、髪を手ぐしで整え、玄関に向かう。だけど、いつもならすぐに開くはずのドアが、今日はまだ音を立てなかった。

 見ればドアの前でレンはこちらに背を向けて物憂げに立ったままだった。名残惜しそうな背中に、思わず声をかけたくなる。
 だけど、俺にはまだその勇気はなかった。追いかければ、深く入り込むことになる……。
 
 少ししてレンがドアノブに手を伸ばしながら、こちらを振り返った。そして、ごく自然に、息を吐くような声で言った。
「また今度な」
 とても軽い調子だった。特別な意味はないのかもしれない。ただの習慣になりかけの言葉なのかもしれない。
 それでも、その一言が、部屋の空気の温度をわずかに揺らした。

 扉が閉まると、静寂が戻った。
 いつもなら消えていく体温が、今日はなかなか収まらなかった。ひんやりとした部屋の空気がレンの香りをまとって俺の火照った体を撫でていく。それでも胸の奥でぼんやりと熱を帯びている何かが熱を逃さない。
 その熱が何に触れて生まれたものなのか、うまく言葉にならなかった。
 ただ、次にレンがあの扉を開けるときの空気が、今日と同じではないだろうということだけは確かなように思えた。

#ぬくもりの記憶

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
12/11お題『夜空を越えて』
書き上がり次第noteに公開します。
https://note.com/yuuki_toe
結城斗永

12/11/2025, 9:02:38 AM

12/11 お題『ぬくもりの記憶』
明日まとめて投稿します🙇

12/9/2025, 10:44:14 PM

タイトル『魔法使いの凍った指先』

 俺、リクト。魔法使いの見習い――なんだけど、寒い日はぜんっぜんダメ。
 師匠が教えてくれる魔法は、指先の細かい動きが大切なんだ。だけど、外へ出たら、全身震えるくらい寒いんだから、そりゃ失敗もするさ。

 今日も師匠が戻るまでに雪掃除しとこうと思って、俺は指先をチョチョイと動かしたんだけど……。
「とりあえずこの辺だけでも……ほいっと!」
 簡単な『あたため魔法』を出そうとしたのに、指先が震えて違う魔法が出ちゃったみたいなんだ。

 目の前の雪がもこもこっと動いて、長い耳がぴょこっと生えて……。
「えっ、ウサギ!?」思わず声が出た。「うわぁ、そっち行っちゃダメ!!」
 雪のウサギは俺の声なんか無視して、ぴょんぴょんと通りの方に逃げていった。

 このままじゃ師匠に怒られる。雪のウサギを追いかけて走りながら、「今度こそ!」って指で修復魔法の印を結んだ。だけど、冷たい風でまた体がぶるっと震えた。
「やべっ!」
 魔法の光が変な形してたから、失敗だってすぐに分かった。でもその時には遅くて、魔法が当たった雪だるまがグググッて立ち上がる。
「俺の指、言うこと聞いて!」
 雪だるまも歩き出して、並んでた別のもついてくる。気がついたら三体、五体、十体と列ができてる。
 なんか街の中心に向かってるし、これはいよいよマズいぞ……。

 こうなったら、みんな一網打尽にしちゃおうって、束縛の魔法を出そうと指をくるくる回す。
『この魔法はト音記号に似ているので注意が必要です――』
 師匠の言葉を思い出した時には遅かった。
 楽器屋の扉が勢いよく開いて、トランペットも太鼓もアコーディオンも、宙に浮いて雪だるまの列に加わった。しかも、行進曲まで演奏し始める始末……。
 
 俺の焦りとは反対に、街の人たちは大喜びだ。
「すごーい!」「お祭りが始まった?」
 拍手して写真とか撮ってるし、子どもは楽しそうにはしゃいでるし。

 いっそ、街の人の記憶ごと消しちゃえば……。
 その魔法も言うまでもなく空回り。
 地面がメキメキ音を立てたと思ったら、街路樹の根っこがグイッと持ち上がって……。
 三メートルくらいある木が何本も雪だるまの後ろを歩き出した。
「はぁ、もう無理だ……。俺じゃ止められない……」
 師匠が帰ってきたら、絶対にイチから修行やり直しって言われるよ……。

 先頭で跳ねる雪のウサギに、雪だるまがドスドス続いて、上空では楽器隊が行進曲を演奏しながら、でっかい木が葉っぱに乗った雪をまき散らしてる。
 もうパレードだ。どう見てもおかしな状況なのに、街の人たちは怖がるどころか、ますます大はしゃぎ。
 いや、みんな楽しんでる場合じゃないんだけどな……。

「リクト……」
 後ろで低い声がして思わず背中がゾクッとする。寒さのせいじゃない……。
 ——師匠だ。
 あまりに静かで気づかなかった。いつからこの大パレードを観てたんだろう。
「留守の間に、ずいぶんと賑やかになりましたね……」
「ち、違うんです!」頭の中が真っ白になる。「寒くて指が震えて、魔法が変になって……止めようとしたらもっと変になって……」
 もう自分でも何言ってるかわかんない。

 ふとテンパってる俺の手の先が急にふわっとあったかくなった。
 顔を上げたら師匠が指先を俺の手に向けて、ぐるっとひと回ししてた。あの時失敗した『あたため魔法』。
 やっぱ師匠はすごいや……。震えてた手がじんわり、とろけるみたいで、しびれていた手がゆっくり生き返っていく。
「これでもう指は震えないでしょう」
 師匠は静かに言った。
「これはあなたがまいた種です。事態を収めるのもあなたの仕事ですよ」
 心臓がキュッとなる。また失敗しそうで怖かった。本当は逃げたいし、この場から消えちゃいたい。
 でも——俺は魔法使いになりたいんだ。

「……はいっ!」
 俺は人差し指を掲げて、師匠に教えてもらった正しい指の形を思い出しながら空をなぞった。
 ひとつずつ魔法が解けていく。雪だるまはその場で動かなくなって、楽器も静かに楽器屋へ戻っていった。元の場所に歩いていく街路樹の後ろ姿もなんだか名残惜しそうだった。
 まるでパレードがあったのが嘘みたいに街は元通り。それでも人々は笑顔のままだった。
「すごいもの見たなぁ」「またやってほしい」
 いやいや、もうこりごりだよ……。

 足元で「キュー」と鳴き声がした。雪ウサギが赤い目でじっとこっちを見上げて、ちょこんと座ってる。
「おまえ……戻んなかったのか?」
 抱き上げると、冷たい雪なのに、不思議とあったかい。あまりに可愛いくて、雪に戻しちゃうのは気が引けた。
「あの、師匠……。この子、飼っちゃダメですか?」
「ちゃんと責任を持って育てるんですよ」
 俺はうれしくて雪ウサギの頭を軽く撫でた。散々な一日だったけど、この子が残ったなら、まあ、いいか。
「さて、稽古を始めましょう」
 師匠の言葉に気合が入る。
 冬の寒さはまだ続くけど、この相棒がいれば大丈夫。そんな気がしてちょっとだけ世界があったかくなった気がした。

#凍える指先 

12/9/2025, 1:36:13 AM

またもボリュームが大きくなって前後編に分かれてしまいました。
少し長いですが、どうぞ最後までお楽しみくださいませ🙇
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
【雪幻の夜市(前編)】

 雪の降る夜になると、直哉の胸の奥はきしむように痛んだ。
 志乃が山道の崩落に巻き込まれて命を落としたあの夕暮れから、現し世はどこか薄い膜を隔てた向こう側の景色のように思われていた。それがよりにもよって、自分が頼んだ遣いの帰りであったという事実は、氷の刃となって喉の奥に刺さりつづけている。

 あのとき、今日でなくともよいと言えたなら。
 雪がやむまで待てと、ひと声かけられたなら――。
 どうあがいても過去は戻らぬと知りながら、叶わぬ想いばかりが雪片のごとく胸の底へと降り積もっていく。

 隣の部屋では、母が静かな寝息を立てている。
 最近はめっきり食も細り、床に臥す日も増えた。直哉は仕事から戻れば茶を淹れ、薬を飲ませ、手足を摩ってやる。そのあいだは幾ばくか志乃のことを忘れていられるのだが、夜更けに床へ入れば、しんとした冬の静けさが胸の堰を切り、抑えていた想いがあふれ出してやまない。

 ――家にいると、息が詰まる。
 直哉は外套を引っかけると、逃げるように戸口を出た。行くあてもないまま、白く塗りつぶされた坂道を下を向いて歩く。足音は雪に吸い込まれ、世界の音が遠のいていくようであった。

 どこかへ辿り着きたいという思いと、どこにも辿り着かなくてよいという諦めが、同じ場所でゆらゆらと揺れている。
 このまま歩き続けてしまえば、いっそ楽になれるのかもしれぬ。そんな危うい囁きが、胸の内で形を帯びはじめていた。

 どれほど歩いたころであったか。
 さらさらと、水の流れる音がした。

 雪深いはずの山間で、耳に馴染まぬ音である。直哉は顔を上げた。
 目の前に、見覚えのない川が横たわっていた。淡い雪明かりを受けて、水面だけが黒く揺れている。

 ――あそこが、いい。

 そのようなことを考えながら、その意味までを、直哉は深く追及しようとはしなかった。ただ、あの水の冷たさの中へ身を沈めてしまえば、胸に巣くう後悔も痛みも、ようやく静まるのではないかという感覚だけが、ぼんやりと灯をともした。

 川へ向けて一歩を踏み出した、そのときである。
 風が、突如として吹き上がった。雪は一斉に舞い上がり、視界は白い渦に飲まれる。直哉は思わず外套の袖で顔を覆った。

 風が凪ぎ、辺りがしんと静まり返る。
 直哉がおそるおそる顔を上げると、川のせせらぎははるか遠くに聞こえ、雪原のただ中に、提灯の灯りがいくつも浮かんでいた。
 小さな露店が細い路地のように並び、その一軒一軒から柔らかな光と、かすかな湯気のようなものが立ち上っている。どこか縁日のようでいて、しかし喧騒というものがまるでなかった。

 近づいてみると、店先には白い影がひとつ立っていた。輪郭だけは人の形をしているが、顔立ちは霞のように曖昧である。その影が、小瓶を一つ差し出した。

 蓋を少し開けると、甘やかな香りがふわりと立ちのぼった。
 志乃の香りであった。

 抱きしめたとき、胸もとにそっと残った、あの微かな匂い。
 最後の日、外套の襟を直してやったとき、うなじのあたりからふわりと漂ってきた香り。その一瞬の温みまでが、鮮やかに蘇る。

 胸の内側を、焼けた手で握られたような痛みが走った。
 志乃の笑い声、冬の日溜まりの中で並んで歩いた道、他愛もない言葉のひとつひとつが、香りに引き出されるように立ち上がる。

 いつの間にか、直哉の足は夜市の奥へと向かっていた。

 少し先へ進むと、露店の店先に小さな石の指輪が一つ、淋しげに置かれていた。古めかしさのある素朴な銀色の輪である。指を触れた途端、胸の中に別の声が満ちた。
 ――直哉、帰っておいで。
 母の声であった。

 幼い頃、凍える夜に毛布をかけてくれた大きな手。
 最近はその手もやせ細り、箸を持つ指の力も心許ない。それでも、こちらを見上げるときの笑顔だけは直哉の幼い頃のままのように思えた。
 ここまで育ててくれた恩。弱りつつあるその肩を、今度は自分が支えねばならぬはずである。その思いが、指輪の冷たさに触れた掌の内側から染み出してきた。

 直哉の足は、夜市の入口の方へふいに引き戻されるようだった。
 夜市の奥に感じる志乃の気配と、入口の薄明かりに漂う母の面影が、どちらも彼を呼び止めている。
 生と死のあわいで、心がふらつく。
 雪の冷たさだけが、かろうじて身体をこの側につなぎとめていた。

 そのとき、耳の後ろで細い音が一筋、雪の夜気を震わせ、直哉は思わず息を呑んだ。確かに聞き覚えのあるその音に、直哉の心は強く引き寄せられていくのだった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
【雪幻の夜市(後編)】

 雪原の静けさを裂くように、その音はたしかに響いていた。
 遠くとも近くともつかぬ、澄んだ旋律。風に触れながらもかすれぬその響きは、直哉の胸の奥に眠っていた記憶を、そっと指先で撫でるように揺らした。

 オルゴールの音色。
 志乃が好んだ、あの優しい調べに似ている。

 直哉は無意識のうちに足を前へ運んでいた。
 石の指輪の温もりはまだ掌に残っている。だが、その温もりよりも強く、音色の方が彼を引き寄せる。

 露店の列の奥、白い影が小ぶりな木箱の蓋を静かに開いていた。
 そこからこぼれ落ちる音の粒ひとつひとつが、直哉の心のひだを淡く照らし出す。

 志乃と過ごした冬の夜が、音色とともに甦る。
 肩を寄せあい、布団の中で聴いた微かな調べ。
「この音、胸が温かくなりますね」と照れたように笑った志乃の横顔。

 直哉はオルゴールを手に夜市の奥へと歩みを進めた。緩やかな下り坂が自然と直哉の足取りを速めていくようだった。 
 目前の川では、提灯の灯りが川面に揺れ、対岸には、のれんのかかった宿屋のような建物が見える。
 ふと、川の向こう岸に、人影が一つ立っているのが見えた。

 雪ごしでも、その佇まいは志乃のものに違いないと直哉には思われた。
 肩の線、髪の揺れ方、両手の組み方。輪郭こそ朧げだが、未練がふくれあがるほど、その形は少しずつ確かになってゆく。

 直哉は、吸い寄せられるように川べりへ歩み寄った。
 水音が、足もとで細かく跳ねる。
 あと一歩で、冷たい流れへ足を踏み入れられるところまで近づいたときである。

 握りしめていた石の指輪が、掌の中でふっと温もりを帯びた。

 ――直哉。

 遠くで、母の声がしたように思えた。
 その声が、川のせせらぎにはっきりとした輪郭を与え始める。
 いまも志乃の影は、向こう岸で静かにこちらを見つめている。呼ばれているようでもあり、見送られているようでもあった。指先を伸ばせば、その腕に触れられるのではないかという錯覚が、胸を締めつける。

 一歩、前へ。
 いや、と直哉は思い直した。

 ここで足を踏み入れれば、志乃に会える代わりに、母のもとへ戻る道を、自ら断つことになるのだろう。そう理解した瞬間、足がどうしても前へ出なかった。

 ​直哉は、ゆっくりと後ろへ下がった。
志乃の姿は、雪の帳の向こうで、やはりその場を動かない。呼びかけることも、手を振ることもない。ただ静かに、直哉の選択を見守っているようだった。
 ​川のせせらぎは、現実の音として耳に響きながらも、遠くで鳴るオルゴールの旋律と、奇妙なほど調和していた。
 ​直哉が、握りしめた指輪を胸元に当て、大きく息を吐き出した、その一瞬。
 夜市の奥、露店から立ち上っていた柔らかな光が、一つ、また一つと、蝋が尽きるように力を失っていく。
​ オルゴールの音も、巻かれたぜんまいが尽きたように、途切れ、やがて完全に沈黙した。
 ​強く吹いた風に雪の粒が舞い上がり、世界が再び白い幕に包まれる。直哉は外套で顔を覆った。

 風がやんだとき、先ほどまでの夜市の灯りは跡形もなかった。
 しかし、川の流れる音だけは、背後の暗がりの中でなお続いている。
 振り向けば、あの水面がまた見えてしまうような気がして、直哉はあえて前だけを見て歩きだした。
 遠くに見える村の灯り。その中で彼を待つ母のために。

 あの夜からしばらくの時が経ち、直哉の生活は普段どおりに戻りつつあった。
 朝になれば起き、仕事へ出かけ、帰れば母の手伝いをする。茶を淹れ、薬を飲ませ、床に入る。そうした営みの一つひとつが、細い糸のように直哉をこの側へ繋ぎとめているのだと、頭では分かっている。

 それでもふとした折に、あの夜市のことを思い返すことがある。
 冬の街角で、見知らぬ女の纏った香水の奥に、志乃の匂いがかすかに香るとき。
 古道具屋の前を通り、擦り切れたオルゴールの音色の陰に、志乃の囁きが僅かに混じるとき。
 胸の奥では、あの雪の夜の灯りと川の気配が、ひそやかに息を吹き返すのであった。

 もしあの夜、もう一歩だけ前へ出ていたなら――。
 自分は川を渡り、志乃の腕の中で、冬の冷たさも痛みも忘れていたのだろうか。

 そう考えてはならぬと思いながらも、直哉はなお、川の向こうを想像してしまう。志乃が微笑み、抱きとめてくれる姿を。現し世の雪とは異なる、どこかあたたかな白の中へ沈んでゆく自分を。

 あの夜の灯りと川の気配は、いまも直哉の胸の内に消えずに残っている。
 いまも隣で眠る母を置いて、あの雪原へ足を運びたくなる衝動を抑え、深々と降る雪の音を聞きながら、直哉は静かに目を閉じ床につくのだった。

#雪原の先に

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