シュグウツキミツ

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12/27/2025, 10:17:22 AM

凍てつく鏡

「さむっ」
板垣京子は思わず呟いた。
『最低気温は-15℃、今季一番の寒さです』出かけに見ていた天気予報のアナウンサーの言葉を思い出していた。
外はまだまだ暗い。冬至から少し経ったとはいえ、日が昇るのは数時間は先だ。
校庭を眺めて一息つく。
水道のホースを伸ばし、蛇口を捻る。勢いよく迸る水を、均等にかかるように撒く。防寒服を着てホースの口からできる限り体を離しているが、それでも水飛沫がかかる。帽子も耳当ても手袋も着けているが、それでも掛かると冷たい。
いや、痛いと言ったほうが実感に近い。
(なんでこんなことをしてるんだろう、私)
板垣京子は音楽が専門である。音楽大学でピアノと声楽を学び、その技術を活かすために教員免許を取った。本当は演奏で生きていきたかった。
(あーあ、指がかじかんじゃう。ピアノ弾く前に温めなけりゃ、これは動かなくなるな)
暫く水を撒き、懐中電灯で校庭を確かめる。
やがて、車に乗り込んで帰っていった。

あくる朝、出勤すると、もう児童たちが登校していた。椅子を押したり、手を繋いだり、自立していたりと、思い思いに滑る子供たち。自分が担当する音楽の授業では聞こえないような笑い声が響く。笑顔が眩しい、と板垣京子は感じていた。
(まあ、この光景を見られただけ、良かったことだ)
ふと水道を見返した。バケツに氷が張ってある。
(凍てつく鏡みたいだな)と覗いた先には、満足そうな自分の顔が写っていた。

12/6/2025, 11:33:02 PM

消えない灯り

横殴りの風。氷の礫が容赦なく身体を叩く。もう寒いとか、そういう次元ではない。痛い。足を踏み込む度にザクザクとした感触が伝わる。膝下まで埋まり、一歩歩くだけで体力が奪われる。辛うじて覆われた程度の顔を腕で覆う。腕越しで前を見ても、白いばかりで何もわからない。
降り積もった雪と降ってくる雪とで視界は真っ白である。
だが歩くしかない。一歩、また一歩と、雪から足を引き抜いて降ろし、また片方の足を雪から引き抜いては降ろす。疲れた。痛い。しかし休むわけにはいかない。

そうして進むうちに、視界の先で赤いチロチロと揺れるものが見えた。炎の動きだ。とすると、誰かがいるのかもしれない。あそこまで行けば、この疲労から解放される。
心做しか、雪から足を引き抜くのが楽になったような気がした。

ザク、ザクと氷と雪でできた地面に足を入れる。どれくらい経ったのだろう、そうしているうちに炎が段々大きく見えてきた。近付くと、それが二本の篝火だということがわかってきた。篝火の間を覗くと、宴会が繰り広げられていた。灯りに照らされた明るい宴会場。皆酒や食べ物を楽しみ、歓談している。フラフラと入ろう、とした時に、入り口で止められた。
「いらっしゃい。あらまぁ、そんな雪まみれで。取り敢えず身体の雪をお払いなさい」
見ると細長い顔の目の細い男のようだった。柔らかな口調で話す。
雪を払うと、男は目を丸くした。
「まぁまぁ、そんな格好でこんなところまで。さぞお疲れでしょう、席にお座りなさい」
促されるまま、空いた席に腰を降ろす。
長い食卓にズラリと料理が並ぶ。あちこちで湯気が立つ。美味しそうな匂い。その時初めて自分の腹が減ったことがわかった。ぐう、と腹が鳴る。目の前の料理に箸を伸ばした、時だった。
傍らから伸びた手に掴まれた。
厶、と睨むと、傍らの女が、無言で首を横に振る。その真剣な表情に、思わず我に返る。
そうだ、俺は吹雪の中を歩いていたんだった。あんなに酷かった雪も風もここでは吹いてない。宴会なのに誰も音を発していない。そういえば、あの灯りはあの風雪の中消えることもなかった。は、と周りを見ると、みな笑顔なのに言葉を発していない。傍らの女を振り返ると、そこは、ただ白い世界だった。

「ああ、良かった、わかりますか、もう大丈夫ですからね」
雪の中から引き出される。外が眩しい。力が出ない。
見上げた空が青かった。

12/4/2025, 9:22:49 AM

冬の足音

ああ、逃げなくては、逃げなくては。隠れる場所はどこだ。物置の下、駄目だ。作業小屋の中、駄目だ。大きな木の洞の中、駄目だ。駄目だ、駄目だ、見つかってしまう。どうしたら、どうしたら。ああ、すぐそこまで来ている、捕まってしまう。まだだ、まだだ、まだ何も用意していない。
薪も割り終えていない、ストーブも用意していない、椎茸も柿も干しきれていない、食べ物だってまだ十分じゃないんだ。
ああ、それなのに、それなのに。
思えば休みすぎていたんだ。夏の暑さがあまりにも酷くて。秋になってもなかなか涼しくならなくて。ようやく涼しくなって人心地つくと思っていた矢先、もう来てしまうなんて。準備なんてまだまだだと怠っていた。
もう、間に合わない。
ずしん、ずしんと音が響く。向こうに見える山はもう白くなっている。このごろ家の周りの空気も冷たくなってきた。迂闊に吸い込むと鼻の奥が冷気に叩かれる。もう間に合わない、呑み込まれる。ずしん、ずしん。
冬の足音が響いてきた。

11/11/2025, 10:05:29 AM

まってたの

ずっと座ってまってたの。だれかこないかな、って。でもだれもこなかった。
あたりまえだよね、やくそくもしていないんだもの。
でも、まってたの。だれかがきてくれるんじゃないかな、って。
まって、まって、ずっとまってて、ようやくきたの、あのひとが。

やさしかったあのひと。わたしの手をとってくれた。つめたい手をつつんでくれた。
あたたかかった、あのひとの手。
うでもくんだの。ぎゅっとくっついて。あのひとは歩みをあわせてくれていた。
いっしょにお食事もしたの。いったこともない、すてきな夜景。おいしいお食事。はじめてのんだ、おさけ。

ずっとやさしかった。いつもわらっていた。わたしのかおをながめて、ほほえんでくれた。

でも、もうおしまい。だってあのひと、行っちゃうんだもの。行っちゃおうとしちゃうんだもの。もうこないって、わかってしまったから。

でも、もうだいじょうぶ。もう行かせない。どこにも行かせない。ずっといっしょよ。ずっとこのまま。

11/10/2025, 10:27:08 AM

寂しくて

「……どうしてこんなことしたの?」
「だって私……寂しくて」
「いや、いくら寂しくなってこんなことしていいわけないよね?」
「……ごめんなさい」
「いや、謝らなくていいから、どうしてこんなことしたの、って」
「だって……あなた全然構ってくれないじゃない」
「しょうがないだろ、仕事忙しいって言ったよね?」
「言ってたけど……言ってたけど……」
「けど、なに?」
「……帰りは遅いし、やっと帰ってきたと思ったら、すぐ寝ちゃうし」
「しょうがないだろ、疲れてるんだよ」
「だから私……私……」
「だから、って……よりによってこんなことすることないじゃないか」
「私だって、よくないことだとわかってたよ、だけど、あなた全然気づいてくれないじゃない」
「え、気づいてくれない、って……今回が初めてじゃないの?」
「……そうよ。何度もやってるわよ」
「え、何度も、って……え、なに、いつから……」
「……3ヶ月前からなかな」
「3ヶ月……!僕のプロジェクトが始まってすぐじゃないか、そんな、寂しいって、だって」
「だって、その前からあなた、全然私のこと見てくれてないじゃない。このごろなんか、忙しいことを言い訳にして全然見向きもしなくなって」
「そりゃあ……いや、その前は……」
「その前は、なに?今ほど忙しくなかったときも、あなた飲み歩いて全然帰って来なかったじゃない。最後に私と話したの、いつよ」
「え……いや、だってさ、あるだろ、つきあいとか」
「ええ、ええ、わかるわ、つきあいは大事だよね。私にとっても大事だわ」
「いやでも、だからといってこれは」
「これは、なによ」
「ここまで……しなくても」
「ここまで、って、なによ。今まで私のことなんて気にもしなかったくせに」
「でも、これは……」
「いいこと、これからはあなたは帰ってきてもこなくても構わないから。私と話もする気がないなら、無理に話さなくてもいいよ。私はもう大丈夫だから」
「え……そんな、僕はそれじゃあどうするば……」
「好きにしたらいいわ、好きなだけ仕事をして、飲み歩いて。つきあいは大事なんでしょ」
「いや……謝るから、どうかそれは……」

「住宅街に突如現れた巨大な城!なんて立派な、美しい建物でしょうか。この建物を造られた、主婦の赤井美代子さんにお越しいただきました。すごいですねえ、どのくらいかけられて造ったのですか?」
「ええと……3ヶ月くらい?」

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