落ちていく葉を見つめながら、なんとなく、自分達の終わりを感じている。
外は寒い、コタツから出るにはまだ温もりが足りない。そのあたたかさに、生ぬるさに、居心地の良さに、私はひどく依存している。
付き合って一年半、同棲して半年、婚約して三ヶ月。
何も変わらない日常の中の、何も変わらないいつもの違和感。満たされない心、日々募っていく不安。彼は私を愛しているのだろうか。
「ただいま」
彼は優しい。私が好きだと言ったヨーグルトも、いつも飲んでいるトマトジュースも、冷蔵庫から切らした事はない。堅実で真面目で控えめで、計算高く、ずるい人。この広いようで狭い1LDKの中に、私の逃げ場はないらしかった。
「入ってきたら最後、出口はないからね。俺のドアにはかえしがついていて、出られないんだ。」
彼は私を優しく抱きしめながら、縛っていく。ぎゅうぎゅう、と。緩く、きつく、緩く、きつく。何度もした別れ話。彼のいつもの魔法の言葉に、私はいとも簡単に誘導される。出口のない彼という部屋へ、私は迷い込んでしまった。
私は彼の匂いが好きだった。シャンプーでも柔軟剤の香りでもない。彼からする、彼という人間の匂いが好きだった。首筋に顔を埋めて匂いを嗅ぐ私のいつもの癖に、彼はきずいていつも笑っていた。そんな時間がただゆったりと、永遠に流れていく。
「いいよって、いってくれる?」
お酒の力を借りてした別れ話は、怖いほどすんなりと進んでいく。辛口の日本酒を飲んだあとでないと、私にはあの部屋の出口を見つけることはできなかったのだった。
「幸せになったその先で会えるかもしれない。と、その未来に向かって、一生懸命生きてみるよ」
彼の優しさは残酷さを秘めていて、また、私も大変に残酷な女なのだと分かった。抱きしめるのは、愛しているから。涙を流すのは、離れたくないから。呼吸ができないのは、失うことを拒否しているから。彼の温もりを必死に記憶しようと、何度も何度も触れるのに、その手は何も掴めなかった。二人、泣き腫らした目で何度も何度も抱きしめ合い朝が終わる。
春になって桜が咲いたら、また会おうね。どことなくそんな声が聞こえたけれど、「呪いになってしまうから」と、約束はしないでおこう。縛りたくはないんだ彼は言った。互いに離れて幸せになったその先で、また隣で歩くことを選ぶ人生はあるのだろうか。それとも違う誰かの隣で、笑顔を咲かせるふたりがいるのだろうか。空っぽになった自身の心はまだ何も発してはくれず、ただただベッドに沈むことしか出来ないまま1日は終わっていった。枯れていく葉が綺麗な桜へと変化していくまでに、私たちはあの部屋に、また戻っているのだろうか。
「白をすくう影」
あの日は確か記録的な猛暑で、記憶の中の君は前髪をおでこに張り付けていたように思う。
「暑いね」
困まり笑顔で指を絡めてくる君が愛しい。
汗で湿った僕の指は、君と幸福を捉えていた。
あの夏、君は首吊り自殺をした。
あの選択をした君を、僕は未だ責められずにいる。
全てを掬って消えた君の残像は僕の日常の至る所に染み付き、5年半経った今でも何一つ忘れさせてはくれない。
初めは何となく、目にとまっただけだった。何かと僕の視界に入ってくる、そんな印象。それだけの印象。
僕が当時ハマっていたバトルロワイヤルゲーム
「どうして何も言ってくれなかったの?」「何があったの?」「僕は君を救うことができた?」「幸せな時間もあった?」
答えの出ることのない問いは黒く固まり、僕の奥底へと沈殿する。それはいつしか「適応障害」という名前で僕に絡いた。電車に乗ることも仕事に行くことも食べることも起き上がることもできなくなり、「君を救えなかった天罰だろうか?」真っ白な天井の下、考えていた。
なぜ君は生きることを手放したのか?
何度夏が巡っても、僕はその答えを永遠に探し続けるだろう。
あの夏、君は首吊り自殺をした。
「私があなたを見つけたの」
先に好きになったのは、僕だと思う。それなのに君は「私があなたを見つけたの」といつも言っていた。少しの含みと憂いを帯びたその笑顔は、僕の心の重さをとる。天真爛漫で裏表がなく、人の為に生きる人。まっすぐな瞳と言葉で、人を捉えて癒す人。孤独や不幸を語ることはなく、しかし透けるように滲む不安定さを持ちあわせる人。恋人になれば君の琴線に触れられれだろうか?そんな強欲さと、僕のすべてを肯定する君の慈愛が、やがて僕を支配した。あの日の牛乳バーのように、どろどろと溶けて君に依存していく。
「この人だと思ったの」
僕らが恋人になった、夏の夜。生まれて初めて好きな人が恋人になった。嘘ではないかと何度も確認をする僕に、「この人だと思ったの」と伏せ目がちに笑う君。淡く染まった頬と流れる汗、合わない視線、溶けた牛乳バー。その全てが狂おしい程に愛おしい。君の為ならこの身を焦しても構わない、そう思った夜。
「そうじゃ無いでしょ?」
初めて手を繋いだ日の感動。未だに忘れることのできない細い指。仕事と飲み会で疲れ切ったという君は、いつもより言葉選びが鋭く、けれどもやはり穏やかであった。ほっぺたを膨らませながら上司の文句を言い、ふらふらとした足取りで「疲れたぁー」と叫ぶ。「支えなきゃね」僕が君の腕を組むと「そうじゃ無いでしょ?」と君は手とり細い指を絡ませた。スルンとしたその手はキンと冷えていて、異様に熱い僕の手のひらと相性が良い。こんなにも臆病で鈍感な僕には君しかいない、そう思った夜。
「あれだね、感動系だね」
初めて一緒に映画を見た日、君は静かに泣いていた。
僕に見られないように泣く君が愛おしい。君が好きだと言った梅味のポテトチップスは気づけば無くなっていて、間接照明の中暫しの静寂が訪れる。「あれだね、感動系だね」君は平静を装いながら言った。ベタついた手をウェットティッシュで拭う僕に、「私にもちょうだい」と寄りかかる君。こんなにもあまのじゃくは君は僕が守らなくては、そう思った夜。
「平和だね」会うたびに君が言っていた口癖や、「ぎゅー」と言いながら抱きついてくる癖。忘れていくどころか輪郭の濃さは増すばかりで、僕の首元を締め付ける。あの日々のどこに黒い影が隠れていたのか?未だ何ひとつとして見つけることの出来ない僕は、やはり君の恋人に到底ふさわしいく無い。(喜びは二倍に悲しさは半分に)そんなくだらない妄言も君にかかれば真実と化し、僕に生きる意味と希望を与え続けたというのに、僕という人間が君の生きる希望にはなることはついになかった。そして君は、あの夏生きることを手放した。君という存在の明るさと眩しさに目がくらみ、その影を見落としたのか?この苦しみは、見たいものだけを見続けた僕の罰なのかもしれない。
「帰る?」
いつも帰りたがらない君が、まだ明るい時間に放ったあの一言。
「帰るか」僕はそう応え、足早に帰ったように思う。あの時の君はどんな顔をしていたのだろう、上手く思い出すことが出来ない。君の影を見つけ出す鍵がそこにはあったはずなのに。
「じゃあね」
最期に聞いた君の一言は、やけに明るく切ない気がした。多少の違和感を覚えた僕は、けれどもそのまま手を振り別れた。あの言葉が、何度も脳内を反芻し、僕の呼吸をおかしくさせる。なぜ引き止めなかったのか、なぜ大丈夫?と聞かなかったのか。いつもよりギュッと紡いだ唇で、本当は何を言いたかったのか?想像力も優しさも興味も足りない。君を大切にすることのできなかった、僕の愚かさと僕の罪。
あの夜、君は首吊り自殺をした。
甘い甘い思い出が嘘のようにその全てが壊れる時は一瞬で、待っていたのは今までの幸福の何倍も長い地獄の影だった。居なくなってから知った君の病気も、家庭の事情も、もっと早くに知らなければならなかったように思う。あの夜の僕の判断が君を殺したのか?思い起こせば、何かの感情を押し殺す君の苦い顔を何度か見たことがあるきがした。見ないふりをした僕の心が、君を殺したに違いない。そうに違いない。君の心の奥の部屋に入るには勇気も興味も足りず、やはり僕は愚かで臆病で自己中心的な人間であった。君の声も温度も、二度とこの身に触れることはない。
君の選んだ世界は綺麗だろうか。もう苦しんではいないだろうか。あの日「帰る?」と言った君の手を取っていたら、何かを変えることができたのだろうか。発した言葉、行動、全てに後悔の渦が巻き、生きているだけで罪悪に苛まれる日々。
いつもより少し温度の低い君の声に寄り添うべきだった。僕が放った「帰るか」は、君の心に最期の諦めを生んだかもしれなかった。過去に戻れば救えるのだろうか、それとも臆病で鈍感で怠惰な僕には救えないのだろうか。人を愛するには、僕は恐らく幼過ぎる。
「随分暑そうだね」
君の墓前はいつもカーネーションで溢れている。君の誕生花、君の好きな花。花言葉は、「無垢で深い愛」。この不安定な砂利道は
立ちすくむ僕の右手のひらに、いつかの君の冷たい指先が触れた気がしたけれど、それは夏の終わりを告げる秋風だった。
君を失ったあの夏からどのくらい時間が経ったのだろう。この呪いは一生僕を捉えてくれるだろうか?今度こそ君を離さないから、どうかこのまま僕を苦しめ続けてはくれないだろうか。
君の美しさと僕の臆病さを掬い取ってくれと、傲慢にも秋風にそう願った夜。
特別な日
今日僕にとっては特別な日のはずで、片時も忘れなかった自分を褒め讃えたい気持ちになる。
いつか恋をしていた女の子と、僕はある約束をした。
「大きくなってもお互いを好きでいられたら、その時のいちばんの宝物をこの木陰で交換しよう」というものだった。なんとも子供らしい、あどない可愛さを帯びた約束だった。
君に会えるのは決まっていつもこの大きな木の下で、とりわけ何も無いこの丘の上が、僕にとっては特別な場所へと変わっていった。
「君の好きだった蝶の本、それからよく集めてた透明な石。星座のシールも入れておくね」
病弱だった君はいつしかこの丘に現れなくなった。ほれから僕は毎日この丘で、病室の君へと手紙を書いた。僕の描く絵はがきをたいそう気に入っていたと、あとから耳にした。
「僕は今、学校で美術を教えているよ。学生はヤンチャなこも多くて大変だけど、毎日がとても楽しいんだ。」
そちらの世界は、どんな風なのだろうか。
いくら想像をしてみても君の姿はあの頃のままで、大人になった君を僕は空想の中ですら見ることが出来ないのかと少しだけ切なつなる。
風が吹いた。暖かく、心地い風。
僕は風に背中を押されている気がし、歩き出す。
帰ったら珈琲でも入れることにしよう。だって今日は、特別な日なのだから。
木陰は揺れる
「何になりたいの?」
覚悟もなく鼓室まで届いた声に、僕の心は恐怖すら感じながら動揺をした。顔を上げると、僕を覗き込む君が「大丈夫?顔色悪いけど。」と不思議そうに言った。
「まだ、決めてないんだ。進路とか、将来とか。」
-決めても意味がないから-という言葉を慌てて飲み込む。決める気など、初めから毛頭ない。僕の夢はもう叶わないのだから。
「じゃ、帰るね」
あ、待ってよ!という声を後ろに僕はそそくさと教室を後にし、ある場所へと歩き出す。どうやら寄らずにはいられないらしい。今日も呼ばれている感覚がするのだ。心も体も素直だな、呆れ笑いをしながら誰もいない美術室のドアを開けた。
木と絵の具の混ざったこの匂いが、生暖かい安心感を生み出している。この空間も、時間がゆっくりと流れるような感覚も、全てが好きだった。
引きつけられるように特別お気に入りだった筆を握り、キャンパスへと空描きをする。海を泳ぐ魚のように滑らかにキャンパスを滑る筆、けれど途端に指先はうまくコントロールできずに震え始め、次の瞬間に筆は床へと落下していく。
スローモーションで落ちていく筆を見ながら、僕は声を出さずに泣いている。僕の愛した絵、僕の愛した美術。この空間全てを心から恨み嫌いになりたいと思うのに、僕は何度もここへ来る。
絵を描いて生きることさえできれば、それ以外は何も要らなかったのに。車に轢かれる前の大きなクラクション音や、手術台の硬さと冷たさが繰り返し僕の脳内を駆け巡り、僕の頭と心を蝕んでいく。
落ちた筆を拾わずに僕は美術室を後にした。
「よお、進路表だしといたぜ」
どうやら僕を心配して靴箱で待っていたらしいこいつに、今日は初めて名前を聞いた。
「高橋だよ!お前人に興味なさすぎな」
あっけらかんとした様子で笑う高橋を横目に、なぜ僕に構うのだろうと不思議に思いながら歩く帰り道。それでも、ひとりだった帰り道よりも孤独と寂しさが紛れる気がして、少しだけ嬉しかった。
「お前は何になりたいんだよ」
「俺?俺は金持ちかなー、いやこれ本気だぜ」
真剣に企業やら副業やら聞き慣れない言葉を語る高橋を無視して歩く。あの美術室の筆を僕はいつか持ち帰ることができるのか、はたまた捨てることができるのかと真剣に考えながら、僕らは夏の木陰に揺れていた。
隠したくもなるよね、真実はもっと痛いんだから。
わかるかな、貴方が好きなんだよ。
一緒にいると傷つくとわかっていても、
貴方が好きなんだよ。
すり減る私はいつかあなたの隣から消えるんだろうな。
きらきら光って、消えるんだろうな。
貴方は誰が好き?
私の事、気に入ってたみたい。
ちゃんと好きだった?わからなかったよ
何が好き?
どんな時間が好きなの?
愛を与え続けられる私だったら良かった
すり減っても永遠に愛せる私だったら良かったのに
私は愛されたいと望んでしまうみたい
ごめんね、私は私のために生きてしまうみたい
わかるかな、貴方が好きなんだよ
苦しくても辛くても
虚しくても寂しくても
貴方が好きなんだよ
私に微笑むあの人は、私を割れ物みたいに扱うの
特別だと口に出してそう言うの
どんな私でもいいかってそう思える人なの
安心するの
貴方といる時の私とは
何もかもが違うのよ
貴方はなにがすき?
わかるかな、貴方を愛しているんだよ
愛しているから辛いんだよ
貴方は私が好き?
ごめんね、わからなかったよ