子供の頃はとても恥ずかしいことだと思っていたし、今でも思っている。
いわゆる、お茶の間が凍る瞬間。
だけど最近気づいた。どうしてそんなに恥ずかしいのか。
私は今までキスなんてされたこともないし、したこともない。というか、恋人がそもそもできたことがない。
私はきっと、キスをした瞬間の正しい反応がわからないのだ。
現場感覚がわからないから、どういう顔で、どういう気持ちで、それを受け止めれば良いのかわからなかった。そんな自分を見られるのも恥ずかしかった。
恋人がいればもしかしたら、初で可愛いとか、プラスの反応になるのかもしれない。でもお茶の間の、テレビの前のこたつに足を突っ込んだ状態で、そんな反応しても何もプラスにはならない。
だから私は今でも人前でキスシーンを観るのは苦手だ。
お題︰Kiss
目が覚めると、響く時計の針を聞きながら、ゆっくりとベッドから起き上がる。冬になると、お布団との別れは一段と名残惜しくなる。
朝起きたらまず、ベランダへ続く窓のカーテンを開ける。この時期の窓のガラスは手で触れるととても冷たかった。
雨音は聞こえないから、今日はきっと晴れ。朝の空気を肌で感じて背伸びをする。
そうしている間に母が朝食を知らせにきた。母の良く通る声は、起きたばかりの私の眠気を吹き飛ばしてくれる。私は母に手を引かれ、リビングへと向かう。先ほどまで水仕事をしていたせいか、少し冷えている。
部屋のドアを開けると、焼きたてのパンの匂いと、挽きたてのコーヒーのいい香りがしてきた。
私が部屋に着く頃にはいつも、父がコーヒーカップを片手に持って新聞を広げている。私は新聞を読んだことがないけど、きっと難しいことがたくさん書いてあるのだろう。
私はいつものように「おはよう」とあいさつすると、きっとにこやかに笑っているであろう声色で返してくれる。
そうしている間に兄が遅れてやってくる。慌ただしく席に着く兄とも、いつものようにあいさつを交わす。
最近は髪の毛のセットに時間をかけているみたいだ。いつもより少し声が低い気がする。いつもより少しだけ。
我が家ではいつも食パンとコーヒー。食パンにはバター時々いちごジャム。
これが私の見えている世界。
特別なことなんて一つもないけど、この日常に確かな幸せを感じている。
同じ感触。同じ匂い。同じ会話に同じ声。
未来はきっと変わらない。
私は何も見えないけれど。
お題:見えない未来へ
子供の頃、秘密基地というものに強い憧れを抱いていた。いや、大人になった今でも変わらない。
子供の頃、実家には一室だけ物置となっていた部屋がある。
その部屋の奥の方の押入れ。そこが私の初めての秘密基地だった。
私は、父の持っているキャンプ用のランタンを持ち出して、その押入れもとい秘密基地でひっそり過ごすということを楽しんでいた。
子供の時分にはなかなかに広く感じた。
年末に久しぶりに実家に帰った。今では兄夫婦の部屋となっているその部屋へはもう、入ることはないだろう。
年を越したら、寒さが本格化していく。長い冬が終わって、過ごしやすくなった時、キャンプにでも行ってみよう。その時は、今でもキャンプが趣味の父からランタンを借りて。
あの頃を思い出す優しい光。
まるで、子供の頃の記憶を連れて行くような感覚がした。
お題:記憶のランタン
思い立ったが吉日という言葉がある通り、私は面白そうなことがあるとすぐに行動を起こしてしまう。
普段はどちらかといえば大人しい方なので、友人からは驚かれることが多い。そして今回も、思い立ってしまった。
私は日の出を見ようと、近所の公園へ来ていた。
この公園は山に隣接しており、頂上まで登るのは言うなればプチ登山だ。
ここに来るのは小学校の遠足以来だ。
冬の日の朝。まだ日が出ていないせいか、寒さが本格化していないこの時期でさえ十分に冷え込みを感じる。
道はよく整備されていて、普通の登山というよりはハイキングコースみたい。
遠足の時とは違い今回は一人だったせいか、冬の山はとても静かに感じた。
冬になると私は、どれだけ仲のいい友人でも少し距離を置きたくなる。その理由を大人になった今でも上手く言葉にできない。なんとなく、一人になりたかったんだと思う。
薄暗い山道を登るにつれて、少しずつ寂しさが増していった。
山に登るにつれて吐く息は白さを増していく。
まるで冬が少しずつ深くなるように。私は一足先に冬へ向かって歩いている。
冬の空気は澄んでいて、少し冷たかった。頂上で見た日の出はいつもより眩しく感じた。さっきまで一人冬へ向かって歩いていた私に寄り添ってくれるようなそんな光を、私はしばらく見つめていた。
お題:冬へ
山崎沙耶は死んだのだ。
雲一つない空にポツンと月が浮かんでいる。
目の前の泉はその月を水面に映している。
艶のある長い黒髪。スラリとしたやせ気味の体型。
彼女は僕に向かって微笑んだまま、言葉を発しなかった。
綺麗なはずなのに、どこか現実味のない月の光が、舞台照明のように彼女の姿を照らしていた。
あり得ない。
あの日、通学中に走っていくパトカーと救急車を見た。現実であるはずがない。
夜の森特有の湿った匂いがする。静けさのせいか、葉の揺れる音が妙に大きく感じる。
夏特有の絡みつくような湿った暑さの中、額に汗が滲む。
だけど僕は知っている。だってずっと彼女を見ていたのだから。
彼女であるということを否定できない。否定したくなかった。
だって彼女は、
山崎沙耶は死んだのだ__
お題:君を照らす月