『遺失物センター』Love you
東京都。
地下鉄に隣接している遺失物センターの空気はいつも冷えていて、呼吸するたびに埃が鼻を掠めていく。せめて、床だけでもコンクリートでなければよかったのに。それなら、この退屈さも少しは紛れただろう。
「おはようございます」
他の職員に挨拶した後、サカモトはいつもの棚へ向かう。区画番号B-09。そこが彼の仕事場であった。
棚を埋め尽くすのは、誰かが「忘れていった」人生の断片。ビニール傘、片方だけの靴下、中身のない財布、そして、持ち主の体温を失った無数のスマートフォン。
サカモトは白手袋をはめた手で、ダンボールの中にある新たな「落とし物」をスキャナーにかけていった。
「登録番号:10842 品目:お守り 備考:太宰府天満宮/学業成就」
「登録番号:10843 品目:アクセサリー 備考:金属部分にサビ有」
ピッ、ピッ、といった電子音。それに続く人工音声は、持ち主の思いなど一切汲み取らぬほどに平坦で、無機質だった。
誰にでもできる、酷く簡単で、救いようのないほど退屈な作業。これを何時間と続ける。それがサカモトの日常だった。
「登録番号:10879 品目:玩具 備考:未開封」
それは、真っ白な箱に入ったジグソーパズルだった。絵柄のない、ただの白いピースだけが詰まったパズル。
透明な外装フィルムの隙間に一枚のカードが差し込まれていて、そこにはこのように書いてあった。万年筆の滲んだ青いインクで、
『Love you』
と。
「……またか」
サカモトは小さく独り言をこぼした。今週に入って三度目だ。
月曜日には、誰も座れないほどに小さな子供用の椅子。
水曜日には、砂時計の砂だけが抜かれたガラスの器。
それらには必ず、同じ筆跡、同じ言葉のカードが添えられていた。
気味が悪いな。
そう思いながら、サカモトは白いパズルの箱を、警察庁の遺失物管理規定に従い指定の保管棚へ収めた。「愛してる」などという、この場所で最も不釣り合いな言葉が無機質な棚に並んでいく。
(….にしても)
何で俺の区画にだけ流れてくるのだろう。
指先に残るカードの感触が、なぜか自分の胸の奥に残っている。これは何だろうか。懐かしく、寂しく……久しく会っていなかったかつての友人と会ったときのような、あの心地に似ている。
「サカモト君、またそれ?」
休憩中、同僚の年配職員が缶コーヒー二本を片手に声をかけてきた。
「今週に入ってこれで三回。先月からのを入れたら八回。嫌がらせか、それとも現代アートの類でしょうか。……ありがとうございます、いただきます」
缶の温もりが、じんわりと骨に染みていく。
このじわじわとする感覚が、子供のころも好きだったなぁと思い出す。
「さあな。だが、わざわざ電車に置いていくってことは、誰かに見つけてほしいんだろ。あるいは、捨てられないから代わりに捨ててくれ〜、なんてもんかもしれんなぁ」
捨てられないから、代わりに……か。
ほのかに甘い苦味が喉を通り、身体を芯から温めていく。
「はぁ……」
この息は、ほっとしたから出たため息だろうか。それとも、疲れから出たため息だろうか。
「アンタのとこにだけ流れてくるんだから、アンタに見つけてほしいんじゃないのー?」
清掃員のおばさんがそう笑った。
「そんなわけありませんって。どこに流れるかなんて、誰にも決められないんですから」
本当は、少し自分でもそう思いかけていた。
しかし、そんな物語じみたことなんて、こんな事務的に、ただ流されるまま生きている人間にあるわけがないだろう……と、そう自分に言い聞かせていた。
「それじゃ、これで休憩終わるんで」そう言って、サカモトは足早に仕事場へと戻っていった。
「……」
捨てられなかった愛。
サカモトはその言葉を咀嚼しながら、再びスキャナーを手に取った。
次に手に取ったのは、安っぽいビニール袋に入れられた「中身のない空の小箱」だった。
指輪でも入っていそうなベロア張りの上品な箱だが、開けてもそこには微かな香水の残り香があるだけ。そして、底にはあのカードが眠っていた。
『Love you』
「……登録番号:10880 品目:小物入れ 備考:空箱」
淡々と入力を進めるが、彼の目は知らず知らずのうちに、届けられた場所の記録を追っていた。
翌朝。
いつもの仕事場へ向かう道中に、サカモトはあることに気がついた。
パズルは「終着駅」。椅子は「始発駅」。砂時計は「乗り換えのホーム」。
点と点を結べば、まるで誰かの人生の軌跡を逆走しているかのような、奇妙な法則性が浮かび上がるのだ。
「あ、ちょうどいいとこに。サカモトさん、これ。今朝、改札の駅員さんが届けてくれました」
受付のアルバイトが持ってきたのは、古びた真鍮の「鍵」だった。薬指くらいの、厚さ3mm程度のシンプルな鍵。
結ばれているタグには、震えるような字で
『これを拾った人が、どうか私を見つけてくれますように。 Love you』
と書かれている。
読んだ瞬間、サカモトの指先が、わずかに震えた。
これまでは一方的な宣言だったメッセージが、初めて明確な「呼びかけ」に変わっていたのだから。
彼は、落とし物の詳細情報を入力する手を止め、その鍵を真上の蛍光灯にかざした。
いつ、どこで、だれが持っていたのか、何もわからない鍵。
けれど、この鍵がもしも、もしも自分に関わる「どこか」のドアを開けるのだとしたら。
そんなくだらない空想に、胸がほんの少し高まった。
サカモトは、自分が「救いようのないほど退屈な日常」の境界線を、自ら一歩踏み越えようとしていることに気づいていなかった。
その夜。
サカモトは退勤時間を過ぎても、地下の薄暗い事務所に残っていた。
手元には、あの真鍮の鍵がある。本来、遺失物の私的持ち出しは厳禁だ。発覚すれば免職もあり得る。しかし、タグに書かれた「私を見つけて」という言葉が、まるで冷えた地下室の空気を震わせる残響のように、耳の奥から離れなかった。
サカモトはこっそりとパソコンを動かし、過去三ヶ月分の遺失物データを遡った。
「白いパズル」「砂のない砂時計」「小さな椅子」「空の宝石箱」……。
それらが届けられた駅と時間を、スマートフォンの地図上にプロットしていく。
「……円だ」
地図上に現れたのは、都心をぐるりと一周する環状線を描くような、歪な円だった。
そして、その円が閉じる場所。最後のあの鍵が届けられた駅は、彼が毎日通勤で使っている、何の変哲もない住宅街の駅だった。
サカモトは鍵をポケットにねじ込み、事務所を飛び出した。
終電近い地下鉄の車内は、窓に映る自分の顔がひどく疲れ、ひどく熱を帯びているように見えた。
目的の駅で降り、夜の静寂に染まった住宅街を歩く。
鍵の表面には、特定のメーカーの刻印ではなく、古びた紋章のようなものが刻まれていた。彼は自分の記憶を総動員する。この街のどこかに、これと同じ紋章を掲げた場所があったはずだ。
歩くこと十五分と少し。彼が辿り着いたのは、公園の片隅にある、今はもう使われていない「公衆電話ボックス」だった。
赤錆の浮いたボックスの扉には、鍵の紋章と同じデザインのプレートが埋め込まれている。
「これだ……」
サカモトは震える手で、真鍮の鍵を電話機の横にある小さなメンテナンス用の扉に差し込んだ。
カチリ、と硬質な音が響き、扉が開く。
中には、受話器もダイヤルもなかった。
代わりに、一冊の古い日記帳が置かれていた。
表紙には、あの滲んだ青いインクがさらさらと踊っていた。
『Love you. ――これを読んでいる、未来の自分へ』
サカモトは息を呑んだ。その筆跡は、紛れもなく、彼が数年前に「自分自身の将来」を諦めた時に捨てた、あの頃の自分のものだった。
震える指先で、サカモトはその日記帳を開いた。
ページをめくるたび、埃っぽい地下室の匂いではなく、遠い夏の日の草の匂いや、忘れていた雨の冷たさが、記憶の底からせり上がってくる。
そこには、淡々とした日々の記録と、それとは裏腹な、切実な「自分への執着」が綴られていた。
『三月六日。先輩方が卒業していった。来年は俺も受験生。進路について、向き合わなくちゃならないのかも』
『四月八日。始業式だった。新しいクラス、正直馴染めそうにない』
『六月十日。今日も誰とも話さなかった。世界から自分が消えていくような気がする。だから、今日から俺の欠片を街に放流することにした』
日記によれば、過去の彼は、自分がいつか「空っぽの大人」になることを予見していた。感情を失い、事務的に、無機質に、ただ流されるままに生きる今の自分を。
そんな自分を、もう一度人間として「見つける」ための救難信号。それが一連の落とし物だった。
パズル、椅子、砂時計。
それらはすべて、かつて彼が愛し、そして「今の生活には不要だ」と切り捨ててきた趣味や思い出の象徴だった。どうして、忘れていたのだろう。
日記の最後のページには、小さな紙包みがテープで留められていた。
それを剥がして開いた中から出てきたのは、あの白いジグソーパズルの「最後の一片」だった。
ピースの裏側には、細かな文字でこう書かれている。
『もし俺がこれを読んでいるなら、俺はまだ、落とし物を拾える場所にいるんだろうな。そうたったらおめでとう。そして、おかえりなさい』
サカモトの視界が不意に滲んだ。
地下鉄の遺失物センター。誰にも見向きもされない、期限が来れば廃棄されるだけの「忘れ去られた愛」を、誰よりも熱心に、誰よりも愛おしく見つめていたのは、他ならぬサカモト自身だった。
彼は、自分がなぜあの酷く退屈で無機質な職場を辞めずにいたのかを、ようやく理解した。
彼は、自分自身が捨てた「自分」を、ずっとあそこで待ち続けていたのだ。
ポケットの中で、真鍮の鍵が体温を吸って温かくなっている。
サカモトは最後の一片を握りしめ、夜の公園を後にした。
翌朝、サカモトはいつものようにB-09の棚へ向かった。
白手袋をはめ、昨日までの彼とは違う手つきで、あの白いパズルの箱を取り出す。
周囲に誰もいないことを確認し、彼はそっと、あの最後の一片を箱の中に滑り込ませた。
「登録番号:10842 品目:……宝物」
端末を操作し、備考欄の文字を書き換える。
「備考:持ち主が現れたため、返還済み」
サカモトは、誰にも聞こえない声で、けれどもはっきりと、その言葉を呟いた。
「Love you」
それは、世界でたった一人、彼自身にだけ届く、保管期限のない愛の言葉だった。
遺失物センターには、今日もたくさんの「落とし物」が届いている。
(了)
「太陽のような」ギリシャ神話をモチーフに
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街の誰もが、カイルのことを「太陽のような人」だと言った。
彼は類まれなる美貌を持ち、彼が爪弾く竪琴の音色は、荒んだ者の心にさえ光を灯した。
そして何より、彼は慈悲深かった。病に苦しむ者に薬草を与え、迷える者に予言めいた助言を授ける。
カイルが通りを歩くだけで、そこには陽だまりのような活気が生まれた。
しかし、その光が強ければ強いほど、影もまた濃く、深い。
ある日、カイルが最も寵愛していた弟子の青年が、一人の女性と恋に落ちた。青年はカイルへの心酔を忘れ、彼女との時間に没頭するようになった。
ある晩、カイルは青年のもとを訪れた。その顔には、いつもの穏やかな微笑みが湛えられていた。
「君の選んだ道は、本当に正しいのかな?」
カイルは優しく問いかけた。青年が愛の尊さを必死に説くと、カイルは「そうか」と一言だけ頷き、その場を去った。
翌朝、街の人々は悲鳴とともに目を覚ました。
青年の恋人は、自らの家で冷たくなっていた。目立った外傷はない。ただ、彼女の心臓だけが、恐ろしいほどの高熱で焼き焦げたように止まっていたという。
絶望に打ちひしがれた青年が、救いを求めてカイルの神殿に駆け込んだ。
カイルは、まばゆいばかりの黄金の装束に身を包み、高台で竪琴を奏でていた。青年が涙ながらに恋人の死を告げると、カイルは一度も演奏の手を止めることなく、微笑みながら、透き通るような声でこう言った。
「私の光だけを見ていれば、焼かれずに済んだものを」
その瞳には、悲しみも怒りもなかった。ただ、自らの絶対的な正義を信じて疑わない、無機質な輝きがあるだけだった。
カイルは立ち上がり、絶望する青年の肩に手を置いた。その手のひらは、火傷しそうなほどに熱かった。
「さあ、泣くのはおよし。明日もまた、私が世界を照らしてあげるからね」
彼は再び、街の人々の前に現れた。
愛する者を奪い、一人の人生を焼き尽くした直後だというのに、その微笑みはあまりに清らかで、神々しかった。街の人々は、彼の背後に後光を見た。彼がもたらすぬくもりに、誰もが盲目的に跪いた。
その徹底した純粋さと、目を焼くほどの傲慢な輝き。
まさに、太陽のようだった。
同情
同情—— Sympathyの語源は、古代ギリシャ語の"sympatheia" (sym〈共に〉+ pathos〈苦しみ〉)に由来する。
『相手と同じ苦しみを、自分も一人の人間として同時に味わう』
そんな意味だ。
日本では長年「慈悲」や「あわれみ」「不憫」などという言葉が使われており、同情という単語が一般に使われるようになったのは明治時代初期のことで、先ほどのSympathyや、ドイツ語のMitgefühl(共に感じる)の訳語として用いられた。
また、同情という漢字自体は中国古典や江戸の文献にも見られるが、それは「同じ情」、つまり「同じ志を持つこと」という意味合いであった。
総じて、当時の「同情」が現在の「共感」に近い意味で使われていたという。
しかし、言葉の運命とは皮肉なものだ。かつて「魂の共鳴」を意味した「同情」は、大正から昭和、そして平成へと時代が下るにつれ、その手触りを変えていくことになる。
心理学や哲学が感情を細かく分類し始めると、相手と同じ地平に立つ姿勢は共感——empathyという新しい言葉へと引き継がれていった。
取り残された「同情」という言葉には、いつしか「自分は安全な場所にいて、相手を外側から眺める」という、ある種の距離感が混じり始めたのである。
だが、今一度その語源に立ち返ってみれば、そこには「上」も「下」も存在しないことに気づかされる。古代ギリシャの人々が信じた sympatheia とは、宇宙の万物が目に見えない糸で繋がり、一箇所が震えれば、宇宙の果ての他方もまた震えるという、切実な星々の連鎖のようなものだった。
言葉は使われ方によって摩耗し、時に本来の意味を失っていく。だが、その奥に眠る「体温」を掘り起こすのも、また言葉を扱う私たちの役目だ。
誰かの苦しみを、一人の人間として同時に味わうこと。
それは、合理性を重んじる現代において、最も効率が悪く、そして最も美しい人間の営みなのだと思う。