どうして:
最近になって、ふと考えたことがある。
人生で最初に「しにたい」と思ったのはいつだろうって。
それがいつであっても、その人にとって大きな感情の動きがあったことは間違いないだろう。そしてそれには優劣だとか大小だとかをつけるべきではないのに、どうしてもそうしたい人が一定数いるらしい。
「しにたい」とこぼしたのが中高生なら、自分の親なら、男なら、女なら、小さい子どもなら、老人なら。
なあ、いま脳内で勝手に背景を補完しなかったかい?「老人が言うならきっと闘病に疲れての発言だろう」とか「中高生が言うなら多感な時期のそれだろう」とか、そういうのがほぼ自動的に起こらなかったかい?
いわくこれは脳の仕組みだそうだから、それを咎めるようなことはないよ。だけどここでそれに気がついたなら、意識してみてほしい。誰がどんな理由でその発言に至ったとしても、それなりの理由があるんだろうって思うことを。
僕の大事な人は、弱音ひとつ吐かず、気丈な様子のまま虹の向こうに行ってしまったよ。SOSを出してくれてるってことをもっと大事にしたほうがいい。
言葉が言葉だし、タイミングや頻度によってはうんざりするかもしれない。それでも何も言わないままいなくなってしまわれるよりずっと良いんだ。
こんなことをどれだけ熱弁したって、ヒトは実際にその痛みを経験するまで学習できない生き物だけど。
死にたがりは煙たがられるのに、どうして死にたがるような世の中になっちまうんだろうな。アンタが生きててホントに良かったよ。ありがとう。
時を結ぶリボン:
「ごめんね。こんな話、人にするモンじゃないって分かってるんだけど」
そう前置きして始めたのは、ここしばらくの自分の話。理屈も何も知らないが、どうにも彼岸に誘惑されてならないのだ。
はじめに言うと、自分は精神を病んでいる気などはしていない。むしろひどい労働環境やわるい人間関係から放たれたので、健やかになったつもりでさえいる。
だというのに。己を苦しめるものをとんと手放してたいそう軽やかな心持ちでいるというのに、その誘惑は不意に訪れる。
フィクションによくある表現だが、たとえば電車を待つホームに立っているとき。ワンアクションで結果が出るためたいへん想像に易い。あるいは一人で風呂に浸かったり何かしらの作業をしているとき。手元にある何をどう使えば三途の川を渡れるかと気付けば考えている。
そして思うに、自分はそれを本気で求めてもいなければ忌避してもいないのだろう。わざわざ自ら身を投じてやるまでには至らず、眼前に迫られたとき逃げてやるつもりも、少なくとも今はない。
しかしやはり気に掛かるのだ。どうしてこんなにも草葉の陰に身を潜めたいと思うのか。いつだったか「健全な精神の持ち主は日常的に希死念慮を抱かない」と聞いたことがある。嘘を言え。そんなヤツはいないだろう。……いないよな?
とはいえ一度聞いてしまうと、そうだったらどれほど良いかと思ってしまう。夜は穏やかに眠り、朝は心地よく目覚める。このまま目覚めなければと願ったり、覚めた眠りに溜め息をついたりせずに。
長ったらしく話してしまったが、要するに自分がおかしいのかそれとも人間だれしもこうなのかが知りたい。おかしいならおかしいなりの生き方に舵を切るし、こういうものだというなら安心して死にたがってやる。しかしそれを判断できる決定打の見つけ方が分からない。どうしよう。
「そっかあ……うーん、適当なことは言いたくないし、とりあえずなんだけどさ」
ひとしきり話して水を口に含んだところで、ごそごそやった君の手から小さな箱が転がり落ちる。おっと、と拾い直してどこか恭しいように机に置くと、改めて君が口を開いた。
「アー……もうすぐ誕生日でしょ?先走って思わず用意してしまったんだけれど、当日にちゃんと「おめでとう」って渡したいんだ。だからそれまで、中身が何か想像していてよ」
どう?とまなじりを下げる君と鎮座する箱を見て、張り詰めていた何かが音を立てて抜けていった気がした。きっと君は、目の前の人間が異常かどうかなんて気にも留めないんだろう。
「ハハ、参ったな……そのことでアタマがいっぱいになりそうだよ」
それは良かったと破顔する君に、睫毛が濡れてしまったのが気付かれませんように。
「ありがとう、こんな話に付き合ってくれて」
「聞きたくて聞いてるんだからいいんだよ」
小箱のリボンを解くその日まで、嫌でも生きていなくちゃな。
雪の静寂:
僕は君になりたい。
帰り道、そればかりを考えていた。
僕には喉から手が出そうなほど欲しいものを全て最初から持っている君。僕が手放したくてたまらないものを何も持っていない君。きれいで、まぶしくて、同じ生き物だなんて思えなくて、思いたくなくて。
足元、地面を真っ白に染めた雪が僕に踏まれて泥まじりになる。何度も車が通ってぐちゃぐちゃになったあの車道の雪は僕だ。通れば汚れて人は嫌な顔をするし、目も当てられない様がよく似ている。
それなら、僕が今まさに足跡をつけているこのまっさらな雪こそ君だろうか。きれいな君をこんな風に踏みにじって汚すことができたら、僕はもっと楽になれるのだろうか。
そんなことを思いながら抉れる白銀を見つめていると、ふと空からまた雪が降りてきた。静かに、優しく、柔らかくおちて、僕に触れたかと思えば溶けて跡形もなく消える。
そうだな。どちらかといえば、君はこっちだろう。
気付けば雪に濡れ泥がついた靴とズボンの裾。
僕は、君になれない。
祈りの果て:
あ、と思った。
久々に乗った電車で懐かしい顔を見た。会うことはおろか話すことさえほとんどなかったが、確かに面影を感じる。
これがたとえば初恋の相手だったり、そうでなくても何か思い入れのある存在だったりしたら、今とはまた違った感情を抱いていたかもしれない。
話し掛けようか?いやいや人違いかも。もし向こうから声をかけられたら?まさか。なんて思っていただろうか。
ただの顔見知り。たったそれだけでも、わずかでも縁のあった人物と日常の隙間で人知れず再会を果たしたような感覚がどこかこそばゆい。
実は向こうも気付いていたかもしれないし、やっぱり何も気付いていなかったかもしれない。どちらにせよ目的の駅に着けばきっと、このまま互いに各々の日常に戻るだろう。
胸の奥でじわりと滲むノスタルジーに思いを馳せ、今は何をしているかも知らないかつての同胞や、これから出会うかもしれない誰かの幸福を願うような一瞬が、いやに穏やかだった。
旅は続く:
人生は映画のようなものだ。だけど映画のようにはいかない。
各章ごとの起承転結があって、その中には心躍る瞬間もあれば全てが色を失ってしまう瞬間もある。
映画の登場人物たちはそれらを鮮やかに描きながらハッピーエンドへと歩みを進めるが、現実を生きる我々にエンドロールは存在しない。
今までいくつの障壁を破り、艱難辛苦を乗り越え、ここまでやってきただろうか。もう疲れてしまって報われたい一心だというのに、いっときの演出程度にしかならないぬか喜びでまた生かされている。
もう終幕にしよう。ここならキリがいい。さあ緞帳を落とせ。エンディング曲を流すんだ。
どれだけ願っても、顔も知らない演出家は一切その気配を見せない。会ったこともない監督はたった一頁さえ台本を寄越さない。
やりきったかと思えば次の局面。切り抜けたかと思えば新たなステージ。もううんざりなんてのも二番煎じどころではない。
すり切れそうなほど擦り倒した作品に観客はいないが、今日も開演のブザーが鳴り出す。諦めても諦めても吊り上げられる舞台には、もはや照明のひとつすらない。
主人公が望まずとも物語は終わらない。誰も知らない旅路は、絶望的にどこまでも続いている。