YUYA

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2/16/2026, 1:50:05 PM

「声の置き場所」


 僕が口を開いたあと、教室にほんのわずかな間が落ちた。
 誰も何も言わない。ただ、空気が一度だけ揺れた気がした。

「今の言い方、ちょっと違うよね」

 笑い声が続いた。悪意はなかったのだと思う。からかうほどでもない、小さな指摘だった。ただその瞬間、僕の声は自分のものではなくなった。

 次に話すとき、僕は語尾を少しだけ変えた。
 イントネーションを平らにして、なるべく目立たないように言葉を並べる。うまくできたかどうかはわからない。でも、さっきのような間は生まれなかった。

 それで十分だった。

 家に帰ると、母がいつもの調子で話しかけてくる。
 その声を聞いた瞬間、胸の奥にしまっていた言葉がほどける。僕は自然に返事をする。抑揚も、語尾も、何も気にせずに。

 けれど、途中で一度だけ言い直した。

 母は気づかなかった。
 僕だけが、その違和感を覚えている。

 次の日から、教室ではほとんど話さなくなった。
 発言しなければ、間も生まれない。笑いも起きない。僕は静かに、そこにいるだけになる。

 ある日、先生にあてられた。
 立ち上がると、喉の奥で言葉が絡まる。どちらの言い方を選ぶべきか、ほんの一瞬迷った。その一瞬が、また間をつくる。

 僕は平らな声で答えた。
 何事もなく授業は続いた。

 窓の外では風が吹いていた。
 誰の言葉も揺らさない、透明な風だった。

 放課後、誰もいなくなった教室で、小さく独り言を言ってみる。
 元の言い方で。

 教室は何も反応しない。
 間も、笑いも、生まれない。

 僕の声は、ただ机の上に落ちた。

 それを拾い上げる人はいない。

 帰り道、僕はもう一度だけ口を開いた。
 どちらの言葉でもない、中途半端な響きだった。

 それでも、空気は揺れなかった。

 そのとき初めて、
 僕は自分の声がどこに置いてあるのか、わからなくなった。

2/7/2026, 5:31:38 AM

『境界の灯(ともしび)』


夜の底で、ひとりの青年が立っていた。
世界は静かで、雪の気配が空中に舞っている。
足跡だけが、自分がまだ消えていないことを証明していた。

彼はふと考える。
「なぜ、人を殺してはいけないのだろうか」と。

その答えは理屈ではなく、
胸の奥にある、かすかな痛みの揺れにあった。

――もし誰かを消してしまえば、
 その人の笑いの跡も、
 沈黙の影も、
 肩先に宿った微かな温度も、
 自分の中から同時に消えてしまう。

感情は、いつも先に知っている。
「壊したものは、自分の中にも穴を開ける」と。

だから青年の胸には
誰のものともつかない“灯”がともっていた。
あたたかくて、弱くて、でも確かに息をしている灯。

それはこう囁く。

「他人の死は、あなたの内部世界の死でもある」

彼は理解した。
自分が恐れていたのは、
罰でも罪でもなく──
自分の中の“つながり”が消えてしまうことだった。

人は、人という鏡なしには
自分を保つことができない。

だからこそ、
他者の涙を奪うことは、
自分の涙の居場所を奪うことと同じなのだ。

青年は空を見上げる。
輪郭を溶かすように広がる夜空の下、
静かな吐息が白くにじむ。

その瞬間、彼は気づく。

殺してはいけない理由なんて、
難しい言葉はいらない。

ただ、
「世界と自分の薄い糸を、切りたくなかった」
それだけなのだと。

そしてまた歩き出す。
灯を胸に抱いたまま、
自分の感情が教えてくれた“正しさ”を信じて。

2/4/2026, 10:49:09 PM

『小さな歩みの中で』


彼はよく言った。
「意味は見つけるものじゃない。
 歩きながら、勝手に立ち上がってくるものだよ」と。

誰かが
「意味がないから動けない」とこぼすたび、
彼は少しだけ微笑んだ。
その微笑みには、
諦めでもなく、説教でもなく、
どこか子どもが秘密基地を知っているときのような
確信めいた明るさがあった。

彼自身、
完璧な理由を持って生きていたわけではない。
朝が苦手で、
好きなことに夢中になると
世界の音が全部消えてしまうような人だった。

だけど、
理由が無い日ほど
一歩を踏み出していた。

散歩道の落ち葉を踏む音や、
コンビニで買った温かいコーヒーの湯気や、
「おはよう」とだけ書かれたメッセージや、
そんな些細なものに
なぜか胸が軽くなる瞬間があって、
そのたびに
「ああ、これが意味なんだろう」
と静かに確信していった。

意味は用意されていなくていい。
誰もくれなくていい。
ただ生きた痕が
少しずつ形になる。
その形が、
彼にとっての“見出す”ということだった。

だから彼は今日も言う。
「意味がないなら、なおさら歩けばいい。
 歩いているうちに、
 その靴の先で
 意味がこぼれてくることがあるから」と。

それを聞いた人は、
少しだけ沈黙する。
反論する理由を探すけれど、
胸のどこかで
わずかに温度が動くから
言葉にならない。

彼の生き方は、声ではなくて
足音で語られる。

たった一歩の、
小さな進みだけで。

1/4/2026, 12:25:41 PM

幸せについて

幸せは
笑顔の数ではなく
拍手の数でもない

目を伏せたまま
深く息を吸える夜のこと
理由を探さず
眠りにつけること

誰かの期待から
一歩だけ離れて
それでも
ここにいていいと思える瞬間

直さなくていい
役に立たなくていい
説明もしなくていい

ただ
壊れずに
今日を終えられた
それだけで

幸せは
達成ではなく
通過点でもなく

生きる重さが
一瞬だけ
床に置かれる感覚

明日が
少し怖くても
それでも
布団に入る理由が残っていること

幸せは
静かで
名もなく
気づいたときには
もう通り過ぎている

それでも
確かに
そこにあったと
あとから分かる

幸せとは、
ずっと笑っていることでも、
正しく生きることでも、
救われることでもありません。

幸せとは、
明日も生きてみようと思える理由が、
ほんの一つ、残っていること。

それを
幸せと
呼んでもいいと思う

1/4/2026, 9:49:49 AM

『ハッピーにするために』


ぼくは
ハッピーを知っている
だって
教えてもらったから

泣いている顔は
ハッピーじゃない
だから
泣き止ませれば
それでいいんだ

道具は全部
正しく光っている
説明書も
ちゃんと読んだ

なのに
どうして
うまくいかないんだろう

笑ってほしくて
触っただけなのに
助けたくて
選んだだけなのに

世界は
ぼくの知らない音を立てて
壊れていく

「これを使えばいい」
「次はこうすればいい」
「前よりマシになるはず」

そう思うたび
誰かの目が
遠くなっていく

ぼくは
間違ってない
でも
合ってもいない

泣いている理由を
知らないまま
涙だけを
消そうとした

その人は
何も言わなかった
怒りもしなかった
ただ
どこにも行けない顔をしていた

そのとき
初めて
道具が
重くなった

ハッピーは
渡すものじゃなくて
奪えないものだと
知らなかった

ぼくは
そばにいればよかった
何もしなくて
よかった

でも
気づいたときには
戻る場所は
もうなかった

それでも
願ってしまう

次こそは
正しく
何もせずに
隣にいられますように

ハッピーを
作らなくても
失わない世界で

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