心の片隅で
靄がかかってしまって、心の片隅にさえアクセスできなくなった。
何かをしまっておいたはずなのに。
何をしまったんだっけ?
大事なものだった気がする。
壊れてしまいそうなものだった。
今もどこかで、震えているんだろうか。
雪の静寂
……子供たちも夫もすっかり寝入ってしまった雪の降る静かな夜。私は一人、眠りにつけずにいた。こんな時に思い出してしまうのは故郷のこと。私の故郷は雪深いところだ。目を閉じて一面雪に覆われた景色を思い浮かべた。あの全てが凍てつく美しさときたら。
私は本当の静けさを知っている。どこまでも続く白い沈黙の世界。眠れない今夜、何故か故郷の静けさが恋しかった。子供の頃、ふざけて雪の中に寝転んだ。身体を全て雪の中に沈めると、とてつもなく安心したものだった。どうしようもなく今、あの冷たい静けさが恋しい。
子供たちも夫も静かに寝入っているというのに、ここは小さな音に満ちている。ささやかな寝息、衣擦れの音。
同じ布団で眠る夫と子供たち。その温もりに私はいつも少し戸惑う。ちゃんと血液が流れている心地よいあたたかさ。私の冷たい皮膚とは違う。
私は、隣で眠る夫の胸にそっと耳を当てた。ゆっくりと落ち着いて刻む心臓の音。夫の中から聞こえてくる。
今、私が恋しいのは、故郷のあの静けさ。誰にも壊せない雪景色、全ての音を消し去った白だけの世界。あの静寂がひどく懐かしい。雪の中で私は自由だった。
だけどもし、あの静かな場所に戻ったら?
ぬくもりを知った今、私は雪へと帰ることが出来るだろうか……いや、きっと私はひどく恋焦がれるに違いない。夫の心臓の音、子供たちの吐息、全てのぬくもりを思って胸をかきむしるだろう。
「眠れないのか」
夫の乾いた声に私は、大丈夫、と答えた。
こんな夜には、夫の心臓の優しい音が私を眠らせてくれる。(ある雪女の独白)
君が見た夢
「例え夢であっても人が死ぬなんて嫌だ。そんな悲しい夢、絶対に見たくない」
そんな事を言っていた僕の妻。
彼女が先日の夜、ようやく眠りにつこうとした僕の横でつぶやいた寝言がこれです。
「……はい、そうです。私がやりました。私が夫を殺したんです」
翌朝、殺害に至る動機と殺害方法をあれこれ考えて寝不足だった僕とは反対に、すっきりと晴れやかな表情の妻。おはよう、と上機嫌な笑顔を僕に向けてくれたのでした。
明日への光
その光はきっと、僅かであってもまばゆい光なのでしょうね。
明日を生きることを選択した者にとっては。
今のこの世で、幽霊となった私。
実体を伴って生きていた頃、いつも明日が来ることが怖くてたまりませんでした。どうかこのまま夜が明けないでと何度願ったことでしょうか。
あの頃の私は既に半分死んでいたようなものです。世界というのは怯えて立ち尽くすには十分でした。
そして今、私は幽霊となっても、あの頃と大して変わらずにいます。抱えていた苦しみを手放しもせず立ち尽くしたままです。
ここでひとつお話しておきたいのは、明日を選ばないことは、その光を否定することではない、ということです。どんなに弱く頼りないものであっても、明日への光が完全に消え去るものではないことは私にも分かります。ただ私はもう幽霊となりましたから、その光に手を伸ばすことはないでしょう。暗がりからじっと、その光を見つめているだけなのです。
静寂の中心で
「沈んじゃおうか、二人で……」
君と二人、誰もいない夜のプールに忍び込んだ。服を着たまま飛び込んだ水の中。全ての音は消え去った。
透明な水の中で、僕らはただ見つめ合っていた。
あの頃僕らの周りには、たくさんの音や光が溢れていたけど、その瞬間だけは君と二人、世界から切り離されて静寂の中にいるみたいだった。
考えてみれば、君が言った「沈んじゃおうか」なんてセリフ、あれってけっこう凄いセリフだったよな。後にも先にも、僕の心を震わせたのは、君が言ったあの言葉だけ。君が望むなら僕はどこに沈んだってよかったんだ、プールの底でも海の底でも。
だけど僕らはすぐ、水の上に出た。
空気は必要だからね、特に君はそうだった。
僕と沈むより、水の上を泳ぐことを選んだ君。
シャツを脱ぎ捨てた君は、長い手足を動かして水面を揺らした。そのたびに水はキラキラと光を反射していた。
今でも僕は鮮明に思い出すことができる。
奇跡的だよ。人生で一度でも、あんな風に誰かと静寂を共有出来た瞬間があったなんて。
時々思うんだ。あのまま沈んでいけば、僕らは本当に静寂の中心へとたどり着いたのかもしれないと。
あれから君は変わった。
水の上に出るためには、何かを沈める必要があったんだ。君は君らしさを一つ沈めてちゃんと大人になった。
僕が沈めたもの──それは君への想い。
今でも夜のプールの底に潜り込めば、僕らが沈めたものが、変わることなくあるはずだ。透明な水に守られて、静寂の中でひっそりと淡い光を放っている。
燃える葉
【幻のような赤、彼の棘】
「覚えているかい、あの赤い光景を。まるで燃えるようだったね」
彼は汗ばんだ手で私の髪の毛を撫で付けながら言った。指先に力を込め、こめかみから後頭部へと押さえつけるように撫でた。
「あまりにも全てが赤く、幻想的で夢のようだった。思えばあの鮮やかに燃えるような赤は暗示していたのかもしれないね、僕らの行く末を」
いつからだろう、彼のこういう言い方が怖くなったのは。出会った頃は謎めいて魅力的だった。でも今はそう思えない。棘を含んだ言葉の裏に忍ばせた真意が読み取れるかどうか、試されてるみたい。彼の言葉に何の意味も正解も見出せない私は、厳しい選別を受けているような気になる。でも、そうだね、覚えている──あなたの言う通り幻想的な赤い光景だった。
夜の赤い道。低い位置からライトアップされた紅葉の中を私たちは歩いた。私たちを取り囲むように伸びた赤い枝葉は、確かに燃えるようだった。あの時、あなたは私の手を強く握っていた。まるで手を離したら最後、永遠に離れ離れになってしまうかのように。あなたはいつも、手を強く握った。強すぎるほど。迷子になってしまうのが怖い不安気な子供みたいだった。
──覚えている。あの夜、私たちが見た光景。赤く幻想的で現実とは思えないほど綺麗だったね。
答えたいのに答えられない。身体の感覚が麻痺しているみたいに口も手も動かせないの。ねえ、一体これは何?……私たち、どこに向かっているの?
【記憶の中の赤、君に言いたかった言葉】
君は覚えている? あの見事な紅葉。あの光景を見た君は、まるで燃えているみたい、って言っていたね。
僕は君の笑顔が好きだった。笑ったらシワが出ちゃう、と君は言ってたけど僕は君の笑った顔が今でも好きだ。控えめだけど柔らかくて君の人柄そのもの。昔、まだ皆で会っていた頃、その笑顔を見たくてくだらない冗談を言ったのは僕だけじゃないって知ってた?僕たちみんな君に笑ってほしかった。
外泊許可がおりた日に君が行きたいと言ったのは、紅葉の名勝だった。
あの時の君は、久しぶりに外の空気を吸ってすごく伸び伸びとしていた。
ちょうどライトアップが始まったばかりの夕暮れ時。薄紫の空を背にした紅葉は、言葉を失うほどあでやかで、まるで赤い布を広げたようだった。目に焼き付けるように、君は赤い光景にじっと見入っていた。その時、君は言ったんだ。
──なんだか不思議。枯れてしまう前にこんなに美しく色づくなんて。まるで命を終わらせるために、燃えているみたい。
僕は何も言えなかった。
何も言えず、ただ君の手を取った。ひんやりと冷たく乾いた君の手の感触が今でも忘れられない。あまりにも細くやせ細っていた。僕はそっと、その手を握った。少しでも温もりを伝えることができるように。
──来年もまたここに来よう、その次の年も、その次も。
そう言うだけで精一杯だった。
あの時僕は、別の言いたい事があるはずだった。でもなかなか言葉にならなく、もどかしさが募るばかりだった。あれからずっと君の言葉が頭に残っている。考えてきたんだ、僕は君に何を言うべきだったのか。
今日、僕はまたあの場所を訪れた。君と二人並んで見た時と同じように、見事に色づいた赤い光景が目の前に広がっている。
【燃え始める赤、動かない身体】
降り積もった枯葉っていうのは、そんなにフカフカしてるわけじゃない。
乾いているように見えて案外中は、じめっと湿ってたりする。
突き飛ばされた私が、呻きながら思ったのはそんなことだ。
必死でもがいたけど、身体が痺れて思うように動けない。
後ろから突き飛ばして、無様にもがく私を冷たく見下ろしているのは彼。どうしてこんなことになっているんだろう。正解が分からなかったから?
どうやらここは山の奥らしい。ここに来るまで彼はずっと無言だった。
停車して車から私を引きずり降ろすなり、突き飛ばした。屈辱をよりも感じていたのは、ただ恐怖たった。逃げよう……逃げなくちゃ、でもどこへ?私は後ろで手を縛られているし、叫んで助けを呼ぼうにも口は粘着テープで塞がれている。第一こんな山の中で叫んだって誰にも届かない。おまけに昨夜からずっと身体が痺れていて感覚がよく分からない。自分の体なのに、上手く動かせない。
思考もまとまらない。何を考えようとしてもまとまらず霧散していく。きっと薬でも飲まされたんだろう……何が理由でこうなったのだとか、どうやってこの状況から逃げ出せるのか、とか、考えれば考えるほど朦朧としていく──でも多分、私はもうすぐ終わる。
「君のことが分からないよ」
彼の声が聞こえる。カチリとした音を耳が拾う。これはライターの音。
「どうしてなのか分からないよ──何が君の心を変えてしまったんだ?別れたいだなんて、そんなこと言い出すなんて」
私はもう動けない。目に入ったのは赤く色づいた木々の葉。紅葉ってこんなに鮮やかな赤だっけ……まるで燃えるよう……
焦げついた匂いが、じわりと鼻を刺した。
【ひとりで見る赤の景色】
木の香りがする、と君は深呼吸をした。
確かに山の中の空気は澄んでいるけど、冷たい空気を深く吸い込むと咳き込んでしまうのでは、と僕は心配でたまらなかったんだ。
紅葉の景色を眺めながら、君は呟いた──あなたに言っておきたいことがある。
そして君は、弱々しいけどしっかりした声で、僕に告げてくれたのだった。
「ありがとう、ここに連れてきてくれて。今日、ここに一緒にいるのがあなたでよかった……本当に良かった。ありがとう」
君のその言葉にどうしようもない思いが込み上げた。
君の「ありがとう」は感極まるものがあったけど、同時に一番聞きたくない言葉でもあった。何故ってほとんど遺言みたいだったからだ。言える時に言っておく感謝の言葉みたいで、そんなの僕は嫌だった。
「僕はいつだって君と一緒にいるから」
そう言う時、僕は心のどこかでいつも考えていた。あとどれくらいだろうかと。病魔におかされていく君と共に過ごせるのは、あとどれくらいだろうと、考えてしまっていたんだ。君に分からないよう必死に涙を堪えたつもりだったのに、涙声になった。そっと涙を拭った僕を見て、また君が笑っていた。
今、目の前では、あの時と変わらない見事な赤が視界いっぱいに燃えている。君はもういない。僕は一人になってしまった。
【赤い炎の中で】
麻痺した身体は、涙も流そうとしない。
すぐそこで赤く炎が燃え上がっているというのに。でもあの炎に包まれたら、私も熱くて痛くて絶叫して転げ回るのかもしれない。彼は私のそんな姿を見たら気が済むのだろうか。
目に入るのは、黒い煙が立ち込める空と、炎のように広がって伸びた赤い枝葉。
ねえ綺麗だったよ。あの時あなたと見た光景は本当に綺麗だった。上手く生きられないあなたを好きだったこともあったのに。あなたといると私は削られるようだったけど、あなたもそうだったの?
もうどうでもいいかな……
もっと生きたいと強く願えばこの身体は動くことが出来るんだろうか。
そう強く願えるほどの理由が私にもあったらよかった。私に生きててほしいと願う人なんて、何処にもいない。
赤い葉が燃えながら舞っている。せめて最後に美しいものを焼き付けようと、私は目を見開いた。
【赤への祈り】
今日、ここに来たのは、あの時言うべき言葉を君に伝えたかったからなんだ。もういなくなってしまった君に。ごめん、遅すぎるけど……でも言いたい。誰もいないのをいいことに僕は、君への思いを口に出して伝えた。
「前にここに来た時、君が言ったことを覚えている? 枯れてしまう前にこんなに美しく色づくなんて、まるで最後の命を燃やそうとしているみたいだって君は言った。……でもそれはきっと……終わらせるためじゃなくて、世界を美しく照らすためなんだよ。だから生きた証として心に残ってる」
こんなことを言うのはちょっと恥ずかしい。世界を美しく照らすとか、生きた証とか。でも誰もいないからいいだろう。きっと君が聞いたら、あの柔らかな笑顔を見せてくれるはずだ。
あの頃僕は、君はあとどれくらい生きられるのだろう、そんな風に考えてしまう自分が嫌だった。きっと君はそんなのお見通しだったと思うけど。
本当はなりふり構わず君に言いたかった。生きて欲しいと。でも日に日に弱々しくなっていく君に伝えるにはどこか酷な気がしていた。
生きてほしかったんだ。生きて、生きて、生き抜いてくれ──そう言いたかったんだ。
目の前には、鮮やかな赤が広がっている。
僕はまた祈るような気持ちでこの美しい光景を見つめていた。
この赤は終わらせる為じゃない。世界を照らすために、生きた証として誇らしげに赤く燃え上がっている。
【赤く燃える葉】
薄紫の空の中に、私を焼く炎とともに赤い葉が舞い上がる。
火の中で蝶のように舞い続ける赤い葉は、生きて、生きて、と言ってるみたい──そう思った途端、私は自分が泣いていたことに気がついた。
私は赤い葉に向かって、手を伸ばす。まるで誰かの願いを届けるかのように舞っていて綺麗だ。痺れるこの手はまだ、燃える葉に届くだろうか──