思想の枯れは精神の虚脱だ。才能とは退化するものではなく埋没するものなのだ。人々がアイデアの焼け野原と直面する際、脳内に浮かぶのは無などではなく純粋を極めた世界である。というのも、人々から意志を奪うのは、多大なる情報量と、そこに付随する陳腐な雰囲気、つまり至って真面目な現実感であるからだ。
私達は世界への順応を試みるが、私達を悩ませるのは世界こそである。それと同じく私達は情報に身を埋めるが、その情報こそが私達を呆けさせ、意志薄弱へと陥れる第一人者なのだ。字を書くことは私達の中から不要な現実を抽出して放棄しているに過ぎず、書き記された格言、名言、それらは全て捨てられたものであり、本来耳を傾ける価値の無いヘドロである筈なのだが、しかしそのような塵芥が世に英雄の体を装って蔓延っている理由の一つとして、この世界またはそこに生じた生命なるものが、先ずもっておこぼれの勝者でしかないからだ。胎内以前、私は、そして私個人に限らず世の物質それら全ては、決して勝つことの叶わぬ為体であったに違いない。贋物の神、私達地球人の信仰するあの誇大妄想の被害者たる馬鹿共の統治する世界。このような土地に産み落とされたのが前世における勝者である筈がない。彼ら競争者は、ただ全てを見抜いていただけだ。それ故に手を緩め、足を止め、私達に生を譲っていただけに過ぎない。生まれないという選択肢こそが懸命であると、そう知っていたに過ぎない。さもなければ、私達の唯一の勝利が、よもやこの私達の知る由もない時代におけるものであるなどと、一体どこの誰が信じるというのだろうか。
才能はその身の沈殿と共に私達に夢を見せた。一つは私が私以前であった頃の日常であり、もう一つは私が私でなくなってからの振る舞いである。結論から言えば、私が何かに勝ってみせたことなど、土地を変えようが、時代を変えようが、生まれようがそうでなかろうが、そのような瞬間など一つもなかったのだ。焼け野原の上で独り立ちつくすことが意味するのは、他者の不透明性と自己の絶対性だ。他者はもう私の瞳には映らない。それは偏に、他者とは私以上に私の内奥を支配する存在であるからで、そしてこの私が、不確立という意味においてのみ世を圧倒しているからである。私達の人生とは、絶望に恋した敗者の見る夢の、そのまた俯瞰なのだ。
私達を襲う震え。落伍者とはこの震えによる微動によって這いずり回っているに過ぎない。肉体を震わせる不安⸺それがなければ歩くことも不能であるなんて。死に値する厄災が、明日への光になり得るなんて。
首吊りに揺れる足元は、夕暮れに照らされた蜘蛛の巣と、そこに浮かぶ木の葉とを暗示させる。死者の持つ色気は赤の夕日とよく似ている。死者を決定付けるのは鑑賞者であり、香気が腐臭へと変容するのは首から紐が解かれた瞬間である。
首吊りによる自殺者は、考え得る限り最高の芸術家である。彼らは己が肉体さえもその作品の一つにしてしまった。死して星になった者の最期が、まだ星が脇に控える夕暮れ時のことであるなんて、一体どれだけ己というものを知り尽くせば気が済むのか。己が運命を、決して人目に立つことのない些事であると認識し、そしてそうと知っておきながら、そこに途方もない芸術性を付与してみせるなんて。
これこそが彼の世界に対する感謝の念だ。残された者に対する出来る限りの償いだ。それというのも、芸術とは人生というのがどれほど馬鹿げたものであるかを誇示しているに過ぎず、無価値から目を逸らす為の療法としての芸術に死すことこそが、ひねくれた彼の自尊心を満たすに足るからである。
部屋の中で沸々と鬱憤を募らせながらペシミストの著書を読んでいた時、論理的な絶望の描写にこそ活き活きとしていたというのに、暗くなって唐突に聞こえてきた母親の夕餉に呼ぶ声だけで何故か泣いてしまった凡そ論理的でない思い出。
行かないでと願ったのに、彼は行ってしまった。
僕の名前はロサンゼルスクリッパーズ。未だ優勝経験の無い、ろくでなしさ。
題:拝啓ドジャース僕を置いていくな