『遠い鐘の音』
婚姻届を出したものの、俺たちはまだ挙式を挙げていない。
チャペル式にするか神前式にするか迷っているところでもあるが、そもそもいろいろと強引にことを急いたため、彼女側の都合がつかなかった。
彼女の左手の薬指にきらめく小さな指輪を、ぼんやりと眺める。
愛情、忠実、永遠。
抽象的で不確かな言葉たちが鐘の音となって響かせる日は、そう遠くないはずだ。
『スノー』
時々、夢だとわかる夢を見ることがある。
カーテンを開いた瞬間、これが夢だと理解した。
隣に彼女がいなくて、なおかつ、大雪に見舞われているからである。
大粒の雪が視界を銀白の色で覆い尽くした。
地面は既に雪に包まれており、交通機関は麻痺しているであろうことは想像に難くない。
携帯電話がメッセージを受信して震えれば、上司からリモートワークを指示された。
もっともらしい設定が付与された、妙にリアルな夢。
だからこそ、彼女の姿が見えないのが気がかりだった。
枕はふたつあるのに、彼女の温もりは捉えられない。
ベッドボードに置いている眼鏡を手を伸ばした。
隣には彼女が気まぐれに折った、だらしのない折り鶴が飾られている。
あまり物を持たない彼女の小さなクローゼット、姿見、加湿器、ハムスターのぬいぐるみが置かれていた。
どこか朧げな彼女の存在が言いようのない不安感に煽られる。
妙な胸騒ぎにいても立ってもいられず、クローゼットからダウンコートを取り出した。
結論から言えば、彼女はリビングでへたり込んでいた。
安心したのもつかの間、振り返った彼女は大きな瑠璃色の瞳から大粒の涙を溢している。
俺の前で、こんなふうに彼女が泣くことはないはずだ。
わかっていながらも、俺は、どうしたって彼女を案じてしまう。
「だ、大丈夫ですか?」
「カマクラが作れないの」
カマクラ?
彼女の目の前には置いてあるはずのローテーブルはなく、なぜか溶けかけた雪の山が作られていた。
暖房器具が容赦なく稼働している部屋のなかで、溶けるなというほうが無理がある。
そこそこの量の雪を運んできたのか、床はびしょびしょになっていた。
そもそも、7階のマンションでどうやって雪を運んできたのか。
聞けば、その小さな両手いっぱいに抱えては運んでを繰り返していたとのことだ。
「そんなことしてるから溶けるんでしょう。トラックでドカッと運びましょう」
「え、免許は?」
「免許はあります」
「トラックは?」
「駐車場にあるんじゃないですか?」
「なんでっ!?」
「それはナイショです」
どうせ俺の夢なのだ。
トラックくらい都合よく置いてあるし、マンションまでの道幅もいい感じに通り抜けできるに違いない。
まともに思考が回らないのは、俺の夢であるというのに彼女が泣いているせいだ。
雪山を用意して彼女が泣き止むのであればいくらでも運んでやる。
そう決意して玄関の扉を開けたときだ。
*
「あ。起きた?」
穏やかで澄んだ声が鼓膜を揺らし、まばゆい光が視界いっぱいに差し込んできた。
この目が焼けるような強い光の存在は、俺の知る限りふたつとしてない。
「キャアアアアアアッ!?」
彼女の最強の顔面が真正面から飛び込んできて、慌てて体を起こしてソファの端っこに逃げた。
「うるさ」
大げさに耳を塞いだ彼女はちょこんと、開いたスペースに腰をかける。
バクバクと暴れる心臓を押さえながら、寝込みわ襲われた幸せを噛みしめた。
「不意打ちでいきなり近づかないでください。ずるいですっ。あなたが視界に飛び込むだけで、俺の世界が闇から金色に染まるんです。強烈な光源で目が焼けて、また視力が落ちたらどうしてくれるんですかっ!?」
「また?」
ギロリと彼女の眼光が鋭く光ったところで、俺はサッと彼女から目を逸らしてあたりを見回した。
「あれ?」
水浸しになっていたリビングはきれいに片づけられていて、ローテーブルも置かれている。
「カマクラ、はもういいんですか?」
「カマクラ?」
「カマクラが作れないって泣いてたのはあなたでしょう?」
「全く身に覚えがないんだけど、寝ぼけてたりする?」
「寝ぼけ……?」
彼女の腕を掴み取って、距離を縮める。
大きく見開かれた瞳にかまうことなく近づいて、そっと唇を重ねた。
柔らかな感触と、穏やかな温もり、艶めいた水音が夢ではないことを物語る。
「あぁ、夢でしたか」
「……どういう確認の仕方だよ」
少し照れた彼女が、俺の胸に額をグリグリと押しつけて悪態をついた。
ぷっくりと膨らんだ頬を指で小突く。
「あなたのほっぺたを食べるわけにもいかないでしょう?」
「……だからっ!?」
臨戦態勢に入りかけた彼女だったが、すぐにその声は萎んだ。
「もう、なんでもいいけど……。毛布もかけないでこんなところで寝てたら風邪引いちゃうよ?」
去年、季節の変わり目に風邪を拗らせてしまい、彼女に過度な心配をかけさせてしまった。
以降は気をつけているが、どうしたって睡魔は俺の意思とは無関係に襲ってくる。
ここは俺が素直に折れるところだ。
「すみません、気をつけますね」
「具合は?」
「平気ですよ」
肩の力を抜いて安堵する彼女に、俺もホッと息をつく。
ふと時計に目が移り、時刻が6時半を過ぎていることに気がついた。
「あ。飯、食いました? まだなら準備しますよ」
「まだだけど……。え、寝ないの?」
「二度寝はあなたを見送ったあとでもできますから」
「ありがと」
フワッと目を細めた彼女の頭を撫でる。
彼女には凍てついた涙よりも、雪解けの笑顔のほうがよく映えた。
『夜空を越えて』
きっと、たくさんの子どもたちがサンタクロースに願いを託したであろう夜の空。
無邪気に託された無垢な願いは、無事に夜空を越えていけるのだろうか。
月明かりが差し込んだ薄膜の雲の隙間からは、星が控えめにきらめいていた。
*
帰宅すると、珍しく彼女が夜ふかしをしている。
あと2週間もしないうちに、彼女にとって年内を締める大舞台が控えていた。
毎年、この時期は大なり小なりピリついているというのに、今年はずいぶんと余裕そうである。
「寝なくていいんですか?」
「あっ!?」
声をかけた瞬間、彼女は小さな体の上半身をローテーブルに乗せてなにかを隠す。
彼女のすぐ横には大きなビニール袋が置かれていた。
また、変なもの作ってるんじゃないだろうな?
咎めてしまいそうになるが、ここはグッと堪えて彼女の出方をうかがう。
「そんなに慌てなくても」
「今は見ちゃダメ」
今は、か。
余裕があるのは、どうやら俺も同じらしい。
結婚前に彼女のこんな姿を見ようものなら、無理にでも暴いていた。
彼女のぎこちない言葉と視線を受けて、俺はネクタイを緩める。
「風呂行ってくるんで、その間に片づけてくださいね?」
「ん。ありがと」
「待てをした分のご褒美、期待してますね」
「えっ」
おどけて見せれば、彼女は驚いた様子で声をあげた。
「す、するの……?」
いまだにちょっと照れながら俺の様子を窺うのはあざとすぎる。
彼女の中ですっかり俺へのご褒美が、夜の営みとして結びつけられていた。
さすがに日付が変わろうとしている時間から彼女をつき合わせるつもりはない。
「………………違います……」
戸惑いに揺れる瑠璃色の瞳や、ほんのりと赤く色づいていく頬や、艶を帯びた薄い桜色の唇にその気のなかった欲が昂った。
互いに翌日は仕事もある。
今回は本当にその欲をぶつけるわけにもいかず、深呼吸をすることで気持ちを切り替えた。
「おやすみを言いたいから、ちゃんと起きて待っててもらおうかな……、と思っただけです」
「あぁ。それなら、うん。わかった」
あからさまにホッとされるとそれはそれで複雑である。
しかも、うっかりローテーブルから上半身を離してしまうから、なにを作っているのか見えてしまった。
「あと、隠すならちゃんと隠してください」
「んえっ?」
画用紙を切り貼りして、彼女はサンタクロースを作っていた。
髭の部分をシャトルの羽根を使って表現している。
「見えてます」
「みゃあっ!? れーじくんのえっち!」
再び上半身を乗っけて隠したが、どさくさでひどい言いがかりを押しつけられた。
「否定はしませんが、今のはあなたの落ち度でしょう?」
「むうー」
この詰めの甘さが本当にかわいい。
むくれる彼女につい笑い声をこぼした俺は、これ以上、深追いはせずに風呂へ向かった。
*
寝支度をすませたときには、彼女は既に寝室へ移動していた。
ベッドに潜り込むと、彼女がスペースを作ってくれる。
「起きててくれたんですね?」
「求めたのはそっちじゃん。ちゃんと待ってた」
「ありがとうございます」
ギュウッと抱きしめると、彼女が素直に甘えてきた。
「それで? 夜ふかしまでして、なんで工作を?」
「ジュニアクラブでクリスマス会やるらしくて、そのお手伝い」
彼女によると、ジュニアクラブの子どもたちを集ったクリスマス会と練習試合を兼ねた小さなイベントが、今週末に開催される。
壊れたシャトルの羽根を使い、クリスマスをモチーフにした装飾品を作って飾りつけをするそうだ。
職場の人からその話を聞いた彼女は、工作の手伝いをしたいと名乗り出たらしい。
「なるほど、だからサンタクロースですか」
「そそ。シャトルが余ったから明日は別のヤツ作る予定」
「楽しむのはいいですけど、ちゃんと寝ないとダメですよ?」
「れーじくんには言われたくない」
「それを言われると耳が痛いですけれども」
まろやかな笑い声をあげながら、彼女が眠たそうにあくびをする。
風呂から出たときには日付は変わっていた。
彼女の活動時間は限界を迎えている。
俺はメガネを外して、携帯電話とともにベッドボードの上に置いた。
「そろそろ寝ましょう」
「ん」
短くうなずいた彼女は、枕の位置を調整しながら眠る体勢を整えた。
そんな彼女の頭を撫でながら、俺も羽毛布団をかける。
「待っててくれてありがとうございます」
言葉なくうなずいた彼女が目を閉じた。
彼女の右手の指先が、遠慮がちに俺の左手に触れる。
細い指を絡み返せば、目を閉じていた彼女の長い睫毛がゆっくりと持ち上げられた。
彼女は微睡んだ視線を向けたまま、律儀に「ご褒美」を求めた俺を待っている。
この無防備な眼差しを独占できるのであれば、なにも言わずに朝まで過ごしたいくらいだ。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
チュ、と軽いリップ音を彼女の唇の上で立てる。
満足そうに目を細めたあと、彼女はそのまま目を閉じる。
すぐに健やかな寝息を立てた彼女にならい、俺も眠りにつくのだった。
『ぬくもりの記憶』
かわいいなあ。
ベッドの上で、涙ぐみながら乱れる彼女を見つめる。
白磁のような滑らかで透き通った彼女の肌に、唇を這わせた。
ゴツゴツと硬い俺の皮膚なんかとは全然違う。
柔らかな素肌に乗せた口を不自然に止めてしまうのは、甘く震える彼女の息遣いのせいだ。
首筋を舌先で撫であげ、耳のすぐ下のつけ根を食む。
俺の肩を掴んだ彼女の手に力が込められた。
「ぁ。そこっ、は……っ」
「痕はつけてませんよ?」
所有の証を残したいが、今はまだそのときではない。
急ぐな。
焦るな。
確実に役に立たなくなっている理性をかき集めてブレーキをかけた。
彼女の熱を高めるためにゆっくりと肌に触れていく。
「う……」
悩ましく漏れる彼女の吐息に、緩んでいく口角を抑えられなかった。
*
彼女が洗面台でシャコシャコと緩慢な音を立てながら歯を磨いている。
まだ眠たいのかほとんど瞼が開いていなかった。
青銀の毛先が彼女の肩口に触れている。
その毛先の隙間から、鬱血痕がチラチラと見え隠れしていた。
「ちゃんと隠してくださいね?」
「んー?」
声をかけても、彼女は生返事をするのみでフラフラと頭を揺らす。
トン、と指先で彼女の肩に触れた。
ゆっくりとふさふさの睫毛が持ち上げられ、彼女は鏡に映る自身を見つめる。
鏡越しに、彼女の視線が俺の指先に移された。
生々しく肩に残る情事の形跡に気がつき、瑠璃色の瞳が大きく見開かれる。
「んっ!?」
クチュクチュと口をゆすいだあと、彼女はキッと俺を睨みつけた。
「また……っ!?」
「見えないところなら、いいんでしょう?」
悪びれることなく答えれば、彼女の眼光はますます厳しくなる。
「そんなふうに許したつもりはないんだけどっ!?」
「ふむ」
「では、どう許したつもりなんです?」
「私の言葉を都合よく解釈する余裕がある人には許してない!」
なるほど。
必死になって懇願すれば許してくれるのか。
「理性がはち切れた俺にそんな煽り方したらどうなるかくらい、いい加減に想像つきませんかね?」
キスマークなんて生ぬるいマーキングではすませてあげられなくなりそうだ。
キュートアグレッションが爆発するだけならまだいい。
仕事に影響を及ぼすレベルで抱き潰す自信しかなかった。
「……」
珍しく、彼女が俺の言わんとすることを正しく理解する。
彼女は身震いを起こす体を両腕でさすった。
相変わらず、はにかみ方が斬新でかわいい。
このかわいい生き物を今夜はどう愛でてやろうか。
うっとりと見つめていると、彼女がハッとしたように俺の手を払い除けた。
「だ、だからって、そうやって開き直るのはどうかと思う!」
高嶺の花だなんだと言われているが、近づけば意外と彼女の防御力は頼りなかった。
俺の行動が、ただのひとりよがりな独占欲であることは自覚している。
「そんなにイヤです?」
俺がため息をつけば、彼女は不安気に瞳を揺らした。
「イヤっていうか……」
彼女は俺がつけたキスマークを指でなぞる。
羞恥で染まっているものの、どこか慈しむような眼差しに息を飲んだ。
「だって、思い出しちゃうじゃん」
「思い出してほしくてつけてるんですけど」
「思い出しすぎちゃうから、困るのっ」
「え?」
彼女の心の真ん中に俺はいない。
大切な彼女の心の核の周りを、俺が無理やり囲っているのが現状だ。
そんな彼女が俺で悶々としてくれるなんて最高だが?
「あなたの場合、そのくらいがちょうどいいんでなにも問題ありませんよ」
チュッ、とリップ音を立てて赤らんでいく頬に吸いついた。
彼女がコートの白帯を跨げば、俺の存在は跡形もなく掻き消える。
そんな彼女相手に、ペアリングや婚約指輪といった常に形に残る牽制は有効ではなかった。
贈ってしまったら、重たがって逃げてしまう。
だから俺は、俺の温もりをひっそりと彼女に刻みつけた。
下着のラインで隠れている肩甲骨にも、独占欲の証が残っていることを、彼女はきっと知らないだろう。
『凍える指先』
ベッドで眠る彼女の横に潜り込む。
冷えきったこの指先が、彼女の肌に直接触れないように気をつけながら抱きしめた。
あったか。
彼女が眠りについて数時間。
じっくりと羽毛布団で温めた彼女はホカホカだった。
*
この時期になると毎回疑問に思うことがある。
ふかふかのベッドの上で、上質な羽毛布団を羽織って眠っているのに、どうしてか手足が冷えるのだ。
まだ寝ていたいのに、寒さで意識が冴えていく。
一方で、俺の隣で健やかな寝息を立てている彼女の体温は高かった。
寒がりのクセして自身は湯たんぽとか羨ましい限りである。
彼女の体をギュウギュウと抱きしめて暖をとった。
次第に彼女が落ち着きなさそうにモゾモゾと首を横に振る。
「んー……」
ありゃ。
起きちゃったかな。
「おはよ。早いね?」
「いえ。あと2時間は寝ます」
間髪入れずに答えれば、彼女は重たそうな瞼を持ち上げて口元を緩めた。
「それは寝すぎ」
「なんとでも」
今日は彼女も休みのはずだ。
記憶違いでなければ予定も特に入っていない。
こんなにも冷え込んだ休日の朝くらい、怠惰に時間を浪費してもバチは当たらないはずだ。
俺の腕の中から逃げ出そうと、彼女はベッドを転がっていく。
なんとか阻止したくて、彼女の服の下へ手を伸ばした。
寒さで硬くなった関節のせいで、彼女に触れる手がぎこちない。
「みゃあっ?」
「ふふっ、冷たかったです?」
意地悪く聞けば、彼女は肩口から睨みつけながらうなずいた。
「じゃあ、俺の手が冷たくなくなるまで温めてもらわないと」
暖をとるように服の下に忍び込ませた手を緩やかに動かした。
与えられた熱の刺激が強すぎたのか、ジクジクと痺れにも似た感覚が指先に走る。
「ねえ。離してっ」
「イヤです」
最初こそ、迷惑そうにして身を捩っていたが、すぐに俺の体温と馴染んだ。
柔らかくて滑らかな皮膚を堪能できる程度には指先が動くようになったとき、彼女の体が大げさに跳ねる。
「んぁっ」
朝から甘やかな声が彼女の口から溢れた。
彼女は咄嗟に口元を隠したが、瞳に孕んだわずかな熱は隠しきれていない。
「なに、その声」
「……違う……」
「かわいい」
じんわりと赤らんでいく彼女の頬に軽く口づける。
「もっと聞かせて?」
「ヤダっ、ぁ……、ふっ」
戸惑いがちに揺らした瑠璃色の瞳をもっと乱したくて、俺は彼女の薄い桜色の唇をさらった。
下心に塗れたリップ音と彼女のくぐもった吐息が混ざり合う。
熱でほぐされた指先で、俺は彼女の肌に触れていった。